そろそろ8月だし、おまえらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
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8月14日にNHK・BSプレミアムで放送される“ドラマ×マンガ”『あとかたの街 12歳の少女が見た戦争〜』(後9:59〜10:58)のマンガパートを担う声優が発表された。
同番組は、1人の女性マンガ家が、当時12歳だった母親の戦争体験を作品として完成させるまでの日々を描くもの。主人公のモデルは、日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞した『あとかたの街』の著者・おざわゆき氏。
そのマンガを随所に織り交ぜながら進行する新感覚のドラマ。
主人公の少女・あいの声は花澤香菜。あいが思いを寄せる男の子・洋三役は花江夏樹。あいの親友・花役は早見沙織が務める。
ドラマパートは、マンガ家・おざわゆき役を木村多江、編集者・佐藤役を桐山漣、母・あい役を吉行和子が演じる。
https://www.chunichi.co.jp/article/97595/ >>19
無事に戦地より帰ってきたと言うよりは掃海船に乗っていたから、人は殺していないはず
どちらかと言うと魚雷撤去で戦友が死ぬのを見ていたって言っていた 両親は戦後生まれだが、定年退職して移住した岐阜県の高原は
満州開拓団の生き残りが開拓した土地だな
戦前は道路事情がよくなかった上に国内屈指の豪雪地帯だったので
村を出て満州にわたったわけだが、結局全てを無くして故郷のさらに奥地
水芭蕉と湿原しかない土地を開拓することになったという 東京大空襲で焼夷弾が真横に落ちてきたけど不発弾で助かったって話を聞いた
それがなけりゃ今ここにいなかった 105歳で他界した祖父は元海軍少尉で、愛宕と山城に乗ってたそうな
正八位の官位も貰ってたな 4年前に亡くなった知り合いの爺さんが、士官学校から将校になって呉の軍港から武蔵の出航を見送ったって
仲間と撮った写真を見せてもらった時、友人でも兄弟でもない、全員戦友だと言う言葉が物凄く印象に残っている 読んでると現代のDQNみたいな奴は平気で一般人殺してる感じだなぁ・・・・・
大虐殺は無かったろうけど一部では虐殺はあったんだろな >>387
その家系を貴男で終わらせる気分はどのようなものなのか そりゃ生き残った人の話しになる
前線に行かずにカタワや不器用な人はベラベラといかに大変だったか誇張して話し
戦地に行かないペーパー軍人はウソを語り
過酷な戦地に居た人はあまり語りたがらない
同調圧力と性欲と食欲の渇望は人格を変える 爺ちゃんが徴兵する前の検査で結核が分かって免除されたこと 母方の祖父の兄の家は長男が戦死して普通に家が絶えた >>387
匿名掲示板で家柄自慢とか
くっそウザい老害だなオマエ
リアルでお前みたいなジジイ知ってるから余計鼻につくわ 母方の祖父は戦争の話1回もしなかったな
嫌な思い出なのかもしれない
父方の祖父はたまにしたけど、後方部隊だったみたいだった 満州からの帰国組にいた人から聞いたが、帰りは地獄のようだったと。
朝鮮人の強奪、殺人、レイプが凄まじく日本に帰り着いた人たちの仮設住宅の側には堕胎専門の医者を作っていたって。 うちの祖父母も自分の事は語りたがらなかったなあ
祖父は満州で歯科医をしていた祖父宅に仕えていた祖母と結婚した
祖母がなくなる前に「おばあちゃんが朝鮮人だったらどうする?」って聞かれた「ばあちゃんはばあちゃんだよ」って返したけど、このご時世複雑な気持ちになる >>107
被爆は遺伝子やられるんだから二世三世でも影響出とる人は出とるぞ
世代に継がれる被害だからこそ別格に恐れられてる訳で
自分が大丈夫だから他の人も大丈夫だろという思考は危険 じいちゃんは呉に停泊してた雲龍型航空母艦三番艦の葛城に乗ってたって言ってたな
出撃の機会もなく、空爆も免れたから親が生まれて俺も生まれたわけだが じーちゃん空襲で焼夷弾が落ちてくる中を逃げ回ったっていってた
親兄弟ばらばらになったけど後で全員無事に再会 >>409
亡くなる寸前に頑なだった老人がチラホラと語りだしたのは
南方孤立 飢餓の状態だったので 同胞を後ろから殺して
その肉を食って生き延びてた・・ とかな
やるせねえわ (´・ω・`) 瑞鶴が沈んだ時に乗船してて何時間も泳いだ話を聞いた 福岡の十五銀行蒸し焼き事件
子供の頃伯母さんから聞いてトラウマになったわ 法事になると毎回同じ話が出るので耳タコ
大陸に渡る際ひとつ前の船が沈められただの
もう終わりの方だったから旧制中学繰上卒業からどんどこ出世して最終的に軍曹だか曹長だかになっただの
引き上げで遠くの港に下ろされて郷里に戻るまでろくに連絡も出来なかったのに、駅で何故か家族が迎えに来ててびっくり!なんでも祖父の母が「今日帰ってくるから迎えに行こう」と突然言い出したというスピリチュアルなお話等々 皆、胡散臭さ
オレが当事者だったら負の面は子や孫に絶対話さない 誰も殺さないように頑張ったそうだけど、一度上官が目の前で韓国人を一人処刑しろと。
やらないと自分が殺されると思った恐怖でその人の頭を銃で打ちぬいたと。
帰ってきてからもずっとそれを悔いていて、その韓国人の名前を仏壇において死ぬまで謝り続けてた。 >>366
平成初期くらいにはまだいたよ
働けないから乞食みたいなことしなきゃいけなかった
戦争で足がなくなったという紙とともに缶横に置いて座ってた >>424
そうそうw
日が暮れる頃に歩いて帰って行くんだよね うちの祖父は鰻を食べなかった。
シベリア抑留されていた時に食べていた蛇を思い出すからだと。 >>409
戦争体験者でも前線で人殺したひとと
後方で雑用じゃまるで違うもんな >>374
適当に考えても
1945年までの戦死者が軍民合わせて大雑把に300万人 当時の人口が7200万くらい
昔なので平均の子供数が3人位として孫世代だと2000万人〜程度はいることになる
4分の1程度なので結構見かけるわけだな
うちの親戚は誰も死んでないので話がないけど
広島市中区本川町(原爆ドームから北西400mくらいのところ)に自宅があったのに特に被害がないのが謎すぎる 辛い記憶だったり自分は正しかったのか思い悩む話がきっと多くて、本人は語りたがらない事が多いのだろう
自分が聞いたのは当時幼児だった父の記憶だそれも祖父母が亡くなってから。孫に話したくない事だっただろうと言う微妙な話が散見される 火事場泥棒 ○○○には気をつけろ ○されるぞ
って曾祖父ちゃんがいってたな
年的に東京空襲にあってたはず
いまでは差別表現になるからなぁ
歴史って当てにならないのかもね 爺ちゃんは母ちゃんに戦場でのことは一切話さなかったらしい
たまに戦友が遊びに来てみんなで飲んでハーモニカ吹いてたそうだ 身内じゃないけどベトナム人の子と付き合ってたとき
ベトコンだった父ちゃんの話聞いた
戦闘中に足負傷してアメリカ兵に見つかったけどそのまま見て見ぬ振りしてくれたんだと
だから恨みは全くないってさ 祖父は仮病で徴兵を逃れたと言い張っていたがそんなことが許されるのか 戦争の頃は食べ物がなかったと言われたけど、1年か2年
それ以上に嫌いな物を無理矢理食わされて苦労した数年間
食い物ない方がマシ 俺のおかん(昭和22年生まれ)
昭和20年8月9日ばあちゃんは小倉の工場で働いてた
当時の小倉が晴れてたら俺はいない
ちなみにばあちゃんは103歳の現在も元気だよ >>371
だから戦争に負けたんだって子供ながらに思ったなぁ
日本は負けるべくして負けた
アメリカは物資も日本みたくないとかなかったからなぁ
シンガポールで調子こかなきゃ変わってたけど、まぁあんな軍人上がりの糞教師じゃどの道負けてたな
それと、GHQ!!何で英語を公用語にしなかったんだ馬鹿野郎!!どんなに勉強しても全く理解出来なくて他の教科にも影響でちまったじゃねーか!!
ヒアリングなんて全く聞き取れない、和訳問題なんて答え1つを当てるなんて無理無理 秋田の生まれだが母親(すでに死去)が子供のころ空襲を見たと言ってたんだが
秋田の糞田舎で米軍が空襲なんかするのか? とか思ってた
最近ふと気になって調べたら見たのは土崎空襲っぽい
「第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月14日夜間から翌日の8月15日にかけて、秋田県秋田市土崎港周辺を標的としたアメリカ軍によって行われた大規模空襲である。
この空襲は太平洋戦争最後の空襲であり、また、秋田県で唯一の大規模空襲であった[4]。」 多分小学校1年生の時の隣のクラスの先生が飛行機の機銃掃射から逃げてドラム缶に身を隠したみたいな事言ってたな
その先生はドラム缶のような体型をしてたから隠れられたのか甚だ疑問だけど
あと俺が生まれたときにはもう死んじゃってたじいちゃんが戦争に行って精神崩壊して帰ってきたんだと
帰ってきてからはずっと飲んで寝ての繰り返しだったらしい
どうやって生活費稼いでいたのか知らんが40代で肝臓壊して死んでしまった >>438
大正5年6年産まれかな?
そのくらいの世代の人って1番強い気がする 日本に引き揚げる際に不逞な朝鮮人に妹が親の形見として持っていた人形を取り上げられ値打ちがないと見るや破壊された
朝鮮人は決して信用してはならないし関わり合いになるのもだめどうしても関わるなら絶対に金の話をするな
カネカネ言い出していつ強盗に及ぶか分からない生まれきっての畜生以下だ言葉も通じない絶対に自分から関わりを持とうとするな
っていう話を親戚の集まる機会でことあるごとに言って聞かせてた大叔父が昨年逝ったわ >>344
ほとんど同じ情景の夢を子供の頃から繰り返し見てる
最後の遠くの空がパッと明るくなって叫び声が聞こえるっての読んで全身鳥肌立った
こえー・・・
>>366
そう?
俺は見たことないな
まあ年齢的に平成までいたのは間違いないだろうけど >>344
あれ?
でも東京大空襲って真夜中じゃなかったっけ? 捕虜にしたアメリカ兵を寝かせて頭にでかい石を落として殺して笑ってたらしい >>443
うん大正5年だったかな?
こないだちょっとしたことで母方の家系図見る機会があったんだけどこのばあちゃんの親(俺にとっちゃひいばあさん)の兄貴が天保生まれだったのは驚いた 戦争の悲惨さは語り継ぐべきと思うけど、ここの創作文では心に響かない お爺ちゃんは学徒出兵で中国行ったらしいが、すぐ終戦になって日本に戻った。お婆ちゃんの弟は特攻で死んだ 結構いい暮らしをしてたばあちゃんは戦争なにそれ美味しいの?状態だったらしい
で、疎開してきた都会のガキが物乞いみたいにくれくれ言ってたわーと言うてた
土地持ちの農家は強かったんだろうな 呉の軍港から大和が最後の出向をした時に港に居た人達はみんな「負けるなこれ…」って思ったらしい、油が無くなって資材もほぼゼロになったらしい
敗戦直後、憲兵隊は仕返しを恐れて身を隠していたがたまに見つかってボコボコにされてるのを見かけたって。 これ読んでみ
祖父の硫黄島戦闘体験記
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
地獄のような戦場だったのは読めば分かるけど
筆者は至って淡々と普通の日記のように書いている
達観し死ぬのを全く恐れていない
かと言って強がったり気負ってるわけでもない
ユーモラスですらある
戦前の日本人は凄いとしか言いようがない
こういう日本人が普通にいたからこそ驚異的な戦後復興ができたのだと思う じいさんもその兄弟も戦争行ったけど戦争の話は全然しなかったわ
聞きたかったけどね 身内じゃないけど南の島に行ってた爺さんが
「色んな動物食べたけど一番美味かったのはアリクイ」
って言ってた。不味かったのは猫科らしい。 >>439
さあ。貴方が馬鹿だと思うなら貴方にはそうなんじゃないですか? >80
むしろ、太平洋戦争末期には、
日本から奪取した、硫黄島や、
日本近海の空母機動部隊からの、
大量のP-51、F6F F4Uコルセアなど、
護衛戦闘機の大量の随伴での、
空中戦での、日本の防空戦力の消耗、低下から、
B-29爆撃機は、大量の飽和攻撃、超低空での
絨毯爆撃をするようになったぞw
東京大空襲あたりでは、もう、
B-29後部の対空機銃座以外、
全部、外して、
その分、焼夷弾を積めるだけ積んで、好き勝手に、爆撃しまくりだったw うちのじいちゃん運良く田舎でずーっとグライダーの練習してる時に戦争終わったから不謹慎だけどめっちゃ楽しかったって言ってたわ
そのせいで語り部みたいなのに絶対呼ばれないw YouTubeで当時の満洲開拓団の映像みてたら
当時すでに重機やクレーンが動いててコンクリート打設やってて
今とそんなに変わらなくて驚いた
満洲人は清をよく思わない人が多くて日本に親切な人多かったらしいね
当時の東京よりも大都会だわ >>453
途中までだけど読ませて貰った
淡々と語っているけど内容が怖いな
昔の人の精神力は凄いとしか言えないですね 夏休みの宿題で戦争の話聞いてこい、ってのがあって
軍人だった祖父に聞いたが、一切話してくれなかった
婆さんいわく、こどもには聞かせられないよ、と
喜んで語り部やってる人の話は話し半分でも聞きたくない 疎開から帰ってきたら家を朝鮮人に乗っ取られてた
生き残りの女だけで追い出そうとしてもガンとして動かず、
まだギリ徴兵されてなかった中学生の親戚集めて
棒キレ振り回してやっと追い出せたって話は聞いた >>457
韓国はいつ建国されたっけ?
戦時中に韓国人を勝手に処刑? >>465
さあ。詳しいいきさつまでは聞かされてないよ。
敗戦後は囚人になって、カエルととか蛇を生のまま食べて生き抜いたとか。 >>465
あと、黒い犬は美味しいけど白いのはまずいとかも言ってた。ははは; >>466
ゴメン
創作文にツッコミ入れて悪かった 呉にいた海軍の人の話や、空襲被害の話は生々しく
不謹慎かもしれないが面白かったな
元軍人の方は楽しそうに話してくれたし 語り継がれてる戦争体験の半分くらいはパヨの捏造創作らしいな
日本人を戦争アレルギーにして侵略しやすくする中韓の大計だそうだ
気の長いこって
子供の頃にいろんな戦争話を教師に吹き込まれてまるっと信じてたわ
よく考えたらあちこち矛盾のある話が多かったわけだ 1941年生まれまれの親父79とかだよ
戦争は覚えてないな >>468
創作分だと思うならそれでいいんじゃないかな?
別に個々人で信じたい真実をみて生きていけばいいと思うよ。 あまり語りたがらない人は人肉食って生き延びた人だってさ
爺ちゃんが言ってたよ ラバウルでトンツー兵をやっていたそうだ
戦場に着く前に、1/3程が船酔いで死んだそうだ
まるで消耗品のようだったと言っていたよ >>453
なんか修行を極めて悟りを開いた高僧みたいだな 親父が中学生の時、特攻兵器「震洋」の訓練基地のあった長崎県の川棚って所に、
学徒動員で送られた。
敵機来襲時に半鐘を鳴らすための櫓が立っていて学徒が当番でそれに登って見張るんだけど、当番の時に敵機が来ても当番だけは逃げる事を許されず、ひたすら鐘を鳴らし続けないといけない。
運悪く親父が当番の時に敵機が来て佐世保方面に爆弾を投下して行ったらしいが、
慣性の法則で爆弾投下後も、B29と爆弾はしばらく併走してから落ちていったそうだ
長崎原爆は待避壕の中で食らったらしい。
壕の中でももの凄い風が吹いて軽く吹っ飛ばされたとのこと。
余談だが当時の川棚基地の海にはもの凄い数の巨大メバルが泳いでいて、
慢性空腹の親父達はそれを釣って食いたかったらしい。
でもそれを採る事は許されなかったとか。 特攻隊の人達も表面上は笑って行ったらしいけど、とても真似出来ない >>473
少なくとも祖父から聞いた話で何一つ嘘は言ってないよ。 >>479
俺は信じてるけど話が通じない奴にはもう無駄だからNGしたほうが良いよ 知覧の特攻隊の出撃前の書物とかでも
おどけてる人いるもんな
その心中たるや、、 俺の爺ちゃんが戦艦大和の砲手だった
最後の出撃で大和が沈む前に急降下してきたドーントレスに飛び移りそのまま日本に帰国したらしい
俺の自慢の爺ちゃんだ うちの爺は中国戦線に行ってたな
中国軍が野盗化して中国の村々を襲ったり殺したりしてたから
それを防ぐために村をガードしてたらしい
日本兵が中国の村を守ってたという変な構図だった
その野盗化してた中国軍というのが現在の中国共産党だ >>481
あそこで俺が一番感銘を受けたのが
「男子としてこのような命の使い方ができる時代に生まれて最高に幸せです」
みたいな遺書
当時の日本人は命はできる限り長く維持するために使うものではなく
長さに関係なく有効に使うべきものだった
哀しくもあるが男子として共感できた 爆撃機の空襲は一応警報鳴るからまぁ良いと
怖いのは艦載機による突然の襲撃だとよ 看護婦のばあちゃんは大陸で兵隊さんと鶏〆て食って楽しかったあって言ってた >>484
通信兵で生き残った武道の先生曰く、当時の若者は「如何に生きるべきか」ではなく「如何に死すべきか」を考えてたって言ってた
10年くらい前に死ぬまで毎年知覧に行ったり記念館に何か寄贈してたりしてたよ >>1
広島市内じゃけど、原爆勉強は小学で飽きた
あと部落差別とか朝鮮人謝罪とか他所の世界の話のようにされたな
クラスに部落民も朝鮮人もいたっての卒業して20歳で知ったわ >>484
個人的には、身近な人達を悲しませない為の精一杯の強がりと読めるけど…
ただ、そんな言葉を思いつくってどんだけ強いんだよと
確か、齢は二十歳前後でしたよね… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています