「島津の家の方が歴史があって、徳川家ってぽっと出だろ?」って思いが幕末に合ったんだろうね
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鎌倉以来の大名というと高家以外は島津と佐竹、秋田(安東)ぐらいかな 鎌倉時代モンゴル攻めてきたときも防戦で活躍してたからな→島津軍
徳川よりも前から戦ってる まあ徳川(松平)は出自が流れ者の坊さん説あるくらい雑魚だからな >>7
結局島津義弘の隠居だけで済んで領地没収なんてされてないんだけど 天下統一と300年安定築いただけで大したもんだけど
将軍なのに戦争ないうえに負けときたらまあ悲惨なもんだが 徳川家康が受け継ぐ遺伝子
源義家
源義国(源姓足利氏・新田氏の祖)、
足利義兼(初代源姓足利氏)
一色公深(初代一色氏)
今川国氏(初代今川氏)、
吉良長氏(初代吉良氏)、
源為朝、
安達盛長、
足助重範、
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)より
正室:一色氏の娘より
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 成り上がりじゃなくて、守護大名からだとこんなもん?
武田家・今川家・佐竹家・細川家・六角家・京極家・北畠家・大内家・大友家・島津家 >>9
てーか、幕末の主役はは薩摩であっても島津じゃないし長州であっても毛利じゃないよな
関ケ原の因縁を幕末に結びつける人はよくいるが、その中で当時の毛利の当主が誰だったか挙げられる人がどれだけいるか >>18
藤孝の細川って傍流も傍流で信長に近付いたころは長岡名乗ってたくらいだからそこらからは外れるな 北関東南東北ほだいたい古い家系だらけだろう
父親殺されてブチ切れた伊達政宗が二本松氏を倒そうとした時に周囲がみんな二本松側に付いたのも
二本松氏が管領の畠山氏の直流の家系でその家を滅ぼすのはちょっと待てと焦ったからだし >>25
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですなw
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる 血筋が古い割に振る舞いがちっとも洗練されてないのどうしてなんだろう、島津 >>26
大したのいないな
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守) >>26
続き
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 松平元康→徳川家康
羽柴秀吉→豊臣秀吉
長尾景虎→上杉謙信
武田晴信→武田信玄
信長の野望やる人は
この4人覚えとかなな そち達忘れておる様でおじゃるが一番の名門は一条でおじゃるぞ 家系図捏造で清和源氏にしたんだっけ
本当はどこの馬の骨とも分からない出自 >>33
斯波も元々は三河
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 >>6
アンゴルモア博多編見ると
昔の今川義元のイメージを細くしたような麻呂だぞ 名族の地、三河
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
徳川家康はその娘の兄の血を引く
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 部活の先輩に山名さん(美人)いたけど、戦国武将的にはどうなん? >>32
摂関家で近衛家に次ぐ家柄の戦国大名だからな >>41
上杉氏
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏が生まれただろう上杉氏の屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>41
伊達は東北じゃ成り上がり
東北はほとんど鎌倉幕府が置いた御家人がそのまま戦国時代まで残ってる >>42
おにんにんの乱を起こして戦国時代を招いた張本人 >>42
関ヶ原で改易された朽木を「あいつバカですよねー家康様ヘコヘコ」て阿ったら
「生き残ろうとした結果あれだけど、山名家が潰れるのを眺めていただけのお前よりはマシだわw」
と言われてそれでもヘコヘコしてたくらいの俗物 島津て戦国SLGとか楽で良いよな
ひたすら上に攻めて行けば良いんで
幕末も長州と同盟した後攻略ヌルゲーやし >>48
もともとはそんな家格高い方じゃない
奥州探題は乗っ取ったものだし 幕末までギャアギャア言ってたの長州じゃねぇの?
あそこも厳島の戦いの一発屋だけど 徳川?
あぁ、自称源氏の出の?
豊臣に謀叛を起こした逆賊逆臣の分際で儒教秩序を統治機構に組み入れたクズカスの? 島津ってどう考えても大陸系だろ
あいつ等のせいで皇族がブッサイクになっちゃったし
最大級の国賊じゃね? 島津というか薩摩は中国の水滸後伝に出てくるがバカにされているよな >>27
どれだけ嘘を並べてももともとは山賊・樵・山窩といったまともではない連中じゃないかw 戦国〜江戸時代に他の大名が異動しまくるなか、島津はずーーーーっと薩摩に居られたところがすごい >>58
相馬氏もそうやぞ
一国大名では無いし関ヶ原直後に一瞬改易されたけど 最近の流行りは異世界転生ものから
歴史改変ものが目につくようになった気がする >>58
最初から罰ゲームなのにそれ以下の土地がないからだろ >>57
物知らない田舎者か?
松平は、家康が生まれる前から天皇とダチの家
松平3代目、松平信光創建
・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建) 1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給 >>52
長州は関ヶ原で自爆したようなモンなのにな
大将は城に引き籠もり身内からは裏切り者出して
領地減らした程度でのうのうと自分達は生き残る
西軍について潰された連中から見れば徳川以上の加害者だろうよ >>1
秋田てめぇいい加減にしろよ
貴様の一人言でスレ立てるなと散々叱られてんだろうが
まともに文章書けないんだから余計なことせず勉強しろ >>5
京極や六角ってそこらにいる佐々木の元になったって事で良いの? 島津は遅刻がお家芸
九州統一も遅くてあと一歩で頓挫
朝鮮出兵は日本一の大遅参
関ヶ原は何もしないまま壊滅
大坂の陣は二回ともにたどり着けず
幕末にようやく主役になれるかと思ったら部下に全部持っていかれた >>62
後土御門って応仁の乱の時の天皇で
皇室も財政破綻して儀式もまともにあげられなくて
それで綸旨連発して献金集めてた代じゃねーか それよりも浅井長政の子孫がまだいる方がロマンあるわ 家柄ロンダが昔にもあったということはやっぱり血脈は大事なんだねぇ もはや山口貴之のせいで通行人を誤チェストする国という印象しかねえわ >>70
物を知らない田舎者か?
洛中トップの高僧が松平の出で、そいつが天皇とダチだったんだよ
存牛
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E7%89%9B
物を知らない田舎者って、やーね 伊予河野氏なめるなよ
平清盛さんの頃からコロコロと主君変えて
調子乗ってボコボコにされてもすぐに挽回して
没落と安寧を繰り返しながら
伊藤博文
伊藤忠
河野太郎と系譜を続けてる豪族やぞ 明治の元勲で有名なのって、伊藤博文と山縣有朋と岩倉具視と西園寺公望と西郷隆盛と大久保利通と板垣退助と誰だっけ?
桂太郎と木戸孝允と、あー、大村益次郎と井上馨と大隈重信か。え?島津?、、、 >>62
もともと松元郷の領主だった松元信重を殺して
家を乗っ取っただけの山賊が松元親氏だろ 竹細工作るか強盗しかできない山窩の一族だから
跡継ぎの名前は「竹千代」になってたわけで 島津って元寇にも出撃してるからな。
戦国大名のほぼすべてを成り上がりと馬鹿にしてただろう。 個人的に島津義弘はすごいと思うよ
まあ何だかんだ毛利家には及ばないとも思うけど せごどんで国父様をやった役者は50歳くらいかと思っていたけど家族に乾杯に出たのを見たら思ったより若くて驚いたし
優香の旦那だと聞いてもっと驚いた >>81
日本を戦争に追い込んだ近衛文麿の孫で
失われた十年の元凶がどうしたって? >>81
廃藩置県の建白書を出したのは熊本藩主じゃなかったっけ?
藩知事職が世襲はおかしい、出身に関係なく有能な人材登用しないと日本はダメになる。
と大名自ら言い切ったのはすごい事。 >>2
大名ではなくなったが、神主になって生き延びた阿蘇氏もおるぞ。 秀吉が重箱の隅突いてまで、関東メディアと韓国に徹底的に咎められてるのが気になるわ
聖人の奴なんていないだろうに >>79
勝ち組と無縁の取り柄の無い田吾作、美濃の田舎猿に何が分かるの?w
さっきから、みゃ〜みゃ〜みゃ〜みゃ〜
モクモクと農作業でやっていろ 中の人以外分かるわけねーだろうが
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 また三河のキチガイが来てるなw
そもそも三河で武家勢力が育ったのは三河が適度に離れた田舎だったからだろうw
出自不明の坊主の子孫でも武士になれるほどにww
大和朝廷成立への尾張の関わりは記紀に明らかやんけ >>96
尾張氏か?
尾張氏の先祖は、大物主もしくはニギハヤヒもしくは事代主なんだが
祀られているのは大神神社だわな
尾張縁故なら大神神社の拝殿は尾張に向いていなければおかしいが、事実は三河に向いている
大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い
三河県豊橋市の石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてあり、三輪山は豊橋の神山(石巻山)から名付けられた
神社の拝殿は三輪山の正面に向いておらず、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、豊橋の石巻山(神山)に向いているわけだな
つまり、三河は選ばれた地なんだよ
尾張はドン百姓の地だがな たびたび相馬の名前が出てるけど、扱いが悪い。
喜連川家の話題はでないんだな、五千石なのに10万石の格式を持つ特別な藩なのに。 既に登録済みでもM_Payで初めて本人確認すると1000Pもらえる
http://imgur.com/H4BhSsK.jpg
また初めてme_rca_ri新規登録なら300P
合計1300P(1300円として何処でも使えます)
どちらも画像のコードをそれぞれ入力するだけ!
http://imgur.com/WxaXhAt.jpg >>98
吉良上野介の根回しで、三河の譜代藩主になる話が進んていたらしいな
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) 別にそんなん無かった
調所の財政改革(借金踏み倒し)が成功するまでは、日々のやりくりに精一杯で幕政参加とか夢のまた夢だった
ただ、関ヶ原の恨みだけは絶対に忘れなかった >>105
西軍主格の毛利はともかく島津が関ケ原で徳川恨む理由なぞどこにもないやろ
与した陣営が負けたいうだけのことやし 実家をボコボコにしてくれって手紙書いたのは篤姫だったっけ >>97
三河ばかりを、よく調べたなぁ。褒めてつかわす。
そんな昔、尾張は半分海だったから。
一つ聞きたいんだが、徳川御三家・筆頭の城が三河に無いのは何故? 確かに徳川は家康の爺さんの代より前はよくわからん家系だからなぁw やはり家康は上杉とかの名門に対する劣等感があったんだろうか >>108
知りたいか?
答えは、三河に拠点を置きつづけ、三河の所領を譜代の武士に与えるやり方は、三河の室町幕府の倣ったからだ
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
伊勢、饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野 >>108
続き
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 三河に所領を持つ武士が、幕政に関与したのは、室町幕府も江戸幕府も同じ
親藩は幕政に参与出来んからな
■関が原の戦い以後に生まれた三河譜代藩主の老中
【三河県幸田町】三河深溝藩
・板倉重矩(1665年 - 1668年、1670年 - 1673年)
【三河県田原市】三河田原藩
・戸田忠昌(1681年 - 1699年)
【三河県豊橋市・豊川市】三河吉田藩
・小笠原長重(1697年 - 1705年、1709年 - 1710年)
・久世重之(1713年 - 1720年)
・松平信祝(1730年 - 1744年)
・松平信明(1788年 - 1803年、1806年 - 1817年)
・松平信順(1837年)
【三河県岡崎市】岡崎藩
・水野忠之(1717年 - 1730年)
・松平康福(1762年 - 1788年)
・本多忠民(1860年 - 1862年、1864年 - 1865年)
【三河県刈谷市】三河刈谷藩
・本多忠良(1734年 - 1746年)
【三河県碧南市】三河大浜藩
・水野忠友(1781年 - 1788年、1796年 - 1802年)
【三河県西尾市・豊田市】三河西尾藩
・松平乗完(1789年 - 1793年)
・松平乗寛(1822年 - 1839年)
・松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年) >>110
好みの女の傾向とかそう言うの出そうだけど
側室なんかみるとあんまり気にしてなさそう 島津家は
たいした冒険もせず
当たり障りの無い行動で
誤魔化してきたから
生き残ったんだろ 信長の野望での島津の強さは異常
地図の端なので戦力が整ったらあとは北上するだけ
九州統一したらもう天下取ったも同然 >>2
でも、鎌倉時代から幕末まで同じ土地で領主をしていたと言う事で言うと、島津家が断然由緒有る >>122
それが凄い事とは誰も思ってないけどな・・・ 何か行動を起こした徳川家康
何もしなかった「由緒ある」島津家
日本国民の心に残るのは徳川家康 島津は藤原氏の家人というだけで出自がはっきりしないのに国主にされた事から
頼朝の落胤と言われている。 島津氏 出自で検索すれば出てくるけど
島津のルーツが秦氏なのはほぼ定説 出自とかどうでもいいから
由緒ある島津家の功績って何なの? 島津は大友や竜造寺と抗争してた頃が黄金期
後は蛇足 >>120
青木が、近松門左衛門が子どもの頃遊んでた人形の化身の役で、優香が近松門左衛門の知り合いの遊女の役やったな >>123
約700年その土地を治めた家は無いから、凄いと思う 島津藩の主要産業は「奴隷輸出」だ。その金で武装を強化したんだよ。 毛利は大江氏の出だから朝廷と繋がりあって、
島津は元々薩摩国にある近衛家の荘園管理人だったから近衛家と繋がりあった
武家諸法度つうてもそんな厳格に施行されてたわけでないんだよな 島津の話してるのに三河の話してる馬鹿はなんなの?
新幹線自慢してるグンマー並みにウザいんだけど 島津製作所と島津藩って紋章一緒だけどあんまり関係ないらしいな。 しかし今回千曲川の氾濫で被害のあった長野市長沼を島津の分家が治めてたのはビックリだったわ >>85
国父を名乗る前と後では演じ方が全然違うからな
あれは上手い。名優 江戸時代に全員が及第点以上でボンクラや短命がでなかったのはすごい島津
よそはバカ殿が出たり短命が続いて養子で血縁が途切れてるなんてざらなのに >>139
三河に生まれるだけで朝廷や摂関家が縁故が出来るが
勝てんの?三河に
三河の分国主は天皇
三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主) 三河の分国主、知行国主は、三河の源頼朝や三河の足利氏の親戚だったわけだが
足利氏はその親戚の下司になる為に、三河守護になれたわけだな
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています