全日本プロレスの話しようぜ
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全日本プロレスの道内ツアー・2019サマーエクスプロージョンの登別大会が19日夜、登別市若山町の市総合体育館で行われた。
登別出身のプロレスラー・斗猛矢選手が、全日本の試合としては6年ぶりの地元開催でリングに上がり、熱い凱旋(がいせん)ファイトを繰り広げた。
http://www.hokkaido-nl.jp/cawm-content/uploads/2019/08/201908211138250_l.jpg
斗猛矢選手はこの日の第6試合・メインイベントとなる6人タッグマッチに、第62代三冠ヘビー級王座・宮原健斗選手、ヨシタツ選手とともに臨んだ。
観客から花束を受け取りリングに上がると、「登別市議会議員」の紹介が入り、斗猛矢コールが湧き起こった。
http://www.hokkaido-nl.jp/article/13144 >>409
体が小さい人しか集まらんかったから
体鍛えてスピーディーなプロレスやるようになったんだし
関節藤原も 過去の親日レジェンドレスラーも体が小さかったから
全日の選択肢はなかったと言ってるやつが多い
落ち目だった頃に衰え始めた淵が親日にあがったがジュニアの選手なのに
親日のヘビーよりデカかったw >>610
その試合は見たことないけど実況は確かにグッとくるものがあるな >>586
正直、釣りしてプロレスをこきおろしてやろうかとおもってたけど、面白かった!
ありがとうございました >>595
誰が笑っているんだよ。
臓器売買は犯罪って事実。
全日は85年から鶴田引退まで肝炎デスマッチのガチ、デスマッチ団体だったという事実書いただけだろ。 国際プロレス残党にとっての安住の地、それが全日
新日で成功した元国際ってアニマル浜口くらいな気がする >>614
試合後、復帰戦を白星で飾れなかったが、見事な復活を果たした小橋に矢島アナは泣きながらこう言った。
「小橋が勝ちました!腎臓ガンに勝ちました…」
https://youtu.be/A6BaZXU-BPI 三冠戦を月イチでやって
防衛タイ記録とか言ってんの見て
人材が居ないンだなぁと思った 大量離脱で小橋は武者修行が飛んだが上位のレスラーにぶち当てられた >>620
まあコバケンはそれが良かったのかもな。
90年のリュウゲン等大量離脱でコバケンはモロにチャンスを与えられた。
チャンスというより確固たるポジがでけた。
コバケン自身も『ゼンニプロレに残って良かった』と。
コバケンもカワトシもミサミツもエスダに誘われたみたいだが。
そこにシンニプロレと協力体制が素晴らしかった。
ファンに取ってもな。
スタハ スティウイ バンビガが両団体参戦。
シンニプロレでハシモ、チョマサ、ムトケーとスタハ。
ゼンニプロレではミサミツとバンビガ、カワトシやコバケンとバンビガ。
こういう夢のガードが実現した。
ジャイバとサカグの信頼関係からだ。 ゆくゆくはバンベイもゼンニプロレに参戦すると思った。
あの時期にバンベイにはゼンニプロレに参戦して欲しかったなあ。
あの頃ならジャンツとの対決も実現したかも。
またスタハももっとシンニプロレに参戦すると思ってた。
さすがに日本人は厳しかったみたいだが。
日本人は団体所属で契約があるから。
当時はそんな事わからんで日本人にもどんどん参戦して欲しかった。
ジャンツがシンニプロレかフジナがゼンニプロレへ。
ジャンツとフジナの対決は絶対に実現すると信じたが。
シンニプロレのトキョドではフジナ欠場中で幻の対決になったから。
もう30年近く前か。
ワシも年を食ったわい…トホホホ シンニプロレとゼンニプロレの協力体制はエスダに対抗だったな。
両団体共に大量の離脱者が。
しかしリュウゲンが抜けたゼンニプロレの方がダメージ大。
シンニプロレは大したダメージ無し。
だからゼンニプロレは旗揚げ以来、崩壊の危機と。
後に当時を回顧してサカグが言ってたな。
84年のチョリキや春のマエア離脱の事を。
シンニプロレも崩壊の危機に直面した。
だから90年のゼンニプロレ崩壊の危機は痛いほどわかる、と。
自分が経験したからだ。
それでゼンニプロレに協力した。
また90年2月のトキョド大会ではゼンニプロレからジャンツやスタハを派遣して貰った。
その借りもあって。 プロレスばかり見てるとこんな基地外ジジイになるんだな。
プ板で誰にも相手にされないジジイが出張して一日中連投とか
異常すぎるわ。哀れでならない。 ジャイバ対アノキは幻に。
だからこそジャンツ対フジナは実現すると信じた。
最初(80年代)は信じる以前に普通に実現すると思ってた。
90年に入り、両団体の協力体制で更にその期待感が高まり。
しかし結果的にこれも幻になった。
♪♪
何故だ
何故だ
何故だ
両者は対決しなかった
(ガッチャの替え歌)
ジャンツはフジナが『直接言わんでマスコ通じてばかり』
『それが嫌だった』とか。
その後はミサミツとムトケーはタグマで辛うじて対決が実現。
ミサミツとハシモやチョマサ、ムトケーとコバケン、チョマサとカワトシ等。
やっぱ団体間の壁は厚くて高かった(チッ苦笑)。 >>537
羽田の斎場でプラム真理子の葬儀があった時に馬場さんも参列していたが
遠くからでも馬場がいると分かるあの大きさはまさにジャイアント >>537
小橋のTシャツ買ったのに馬場さんのサインされた時は襲い掛かりそうになった
籐椅子に座りながらニコニコしてたなぁ タイガードライバーは見た目のわりに受け手にはやさしい技 まあ、馬場さんの死とともに全日は終わったな
それ以降はノアって感じだし >>628
あれは受身取りやすそうだよな
91じゃなければ、ほとんど頭からじゃなくって、背中から落ちるし
あんまり効いてなさそうだけど、タイガードライバーだからっていうことで3カウント入っても客は文句いわないし 交流戦が出来なかったのはバックのヤクザがやらせなかったのかな? >>633
ケンスがチョリキに密告して潰れた。
でもそれは表向き。
実際にはその程度で潰れるはずないからやっぱ裏の問題かもな。
あとは勝率の問題とか。
勝率は双方譲れんだろ。
どちらが主催側とか。
主催ならシンニプロレだろうが、ゼンニプロレは納得せんかったのかも。 >>633
90年代半ばにやれば最高だったな。
ハシモはまだそこまで膝痛めとらん。
ミサミツもまだボロボロではなかった。
ムトケーもバンバン動けたし。
シンニプロレのトキョド大会でそれが実現したらなあ。
アノキはもう絡んでこないだろう。
ジャイバが許可しなかったのかな? >>628
ブラマはそれで亡くなったろ。
しかも実際に見ていた人からすると普通のタイドだったと。
頭から危険な角度で落ちたわけでもなく。
90年にはハセヒがゴタツのバクドで死にかけた。
あれは危険な角度で落ちたから。
ミサミツがアキトに止め刺された時もそう。 ゼンニプロレやプロノの試合は確かに死人が出てもおかしくない。
もっと早くに死人が出なかったのが不思議。
投げだけでなく打撃もガチで入れていたからなあ。
特にカワトシの蹴り。
ミサミツの肘もだが。 日本のプロレスはガチもどき勢が出てきておかしくなってきたな
本来のプロレスの楽しさが損なわれていった感じ あのザグレートカブキがアメリカから帰ってくる!とか何週前から煽っておいて小太りレスラーが現れてガッカリした記憶 >>640
グレカは最初だけだったな。
キラカもだが、ああいうタイプは日本に定着すると価値が落ちる。
ただグレカはサイキョタグリ最終戦でリクフとタイトマッチがあった。
長年のサイキョタグリで最終戦にタイトマッチ組まれたのはグレカだけ。
83年時点ではそんだけ重宝されていた。 >>640
しかしグレカも日本定着するといち中堅に。
サイキョタグリも取り敢えず出場枠は設けられた。
しかし適当な相手と組まされて注目されず。
85年頃ならタジェシと本格的に組めば良かった。
キラカもタジェシとは組んだな。
但し5年遅かったタグチ。 入場時、ジャイアント馬場に近寄るガキをシバくロッキー羽田 グレカの最初の話題性考えたら後々の『いち中堅』は寂しいものがある。
キラカもチョリキと組んだら『いち軍団員』に。
グレカもキラカも同化せずの立ち位置ならもっと光れただろう。
同化したから“退かれた”“引かれた”だかんな。
あとは日本とアメリの違いか。 そういう面ではウマノスは恵まれた立ち位置だった。
まあウマノスの大ヒルファで腹を括ったらしいが。
あの時代に日本人で大ヒルファであのタジェシと組むわけだからなあ。
またタジェシも全盛期真っ直中だったから尚更ウマノスも光れた。
ウマノスの場合は異例だけど。 >>637
プラム真理子は尾崎のライガーボムで亡くなったはずだが 金沢市内の交差点で田上が信号待ちしてたのは二度見した 今の日本のプロレはもう真冬という表現、形容も超えたな。
アメリはわからんが。
小規模なプロレ村、プロレ町で細々と。 > 新日で成功した元国際ってアニマル浜口くらいな気がする
国際軍団で乗り込んできたときから
アニマルだけは普通に対応できてた
CSの番組で乗り込んできた当時の映像見たけど
すごかった
木村 剛竜馬 金剛は 駄目だった 昭和のプロレはテレビ局ありき。
平成のプロレは最早テレビ局も必要なくなり。
ユダブがテレビ局なしで存続した。
しかも従来のプロレを上回る人気を得て。
そこにエフエムが飛び付いた。
その昔はコクサプロレは放送打ち切りで程なく崩壊。
放送無ければそれ即ち崩壊という図式が成り立つ時代。
しかしユダブはそれを覆して歴史を塗り替えた。
放送なくても存続でける、ってな。
エスダも地上波放送はなかった。
あれはタナハチの財力とリュウゲンの顔。
財力でアメリから大物を沢山呼んで。
でもエスダみたいなのは短期間で消滅だかんな。
長続きしないのを証明した。 88年春からはシンニプロレとゼンニプロレ仲良くゴルデ放送撤退。
同時期というのが…トホホホ 四天王秋山と三銃士ハセケンの5対5
鶴田天龍対藤波長州
当時はどっちが強いか同級生と熱く語り合ってた >>656
まだそういう時代だったんだな。
ゼンニプロレはトウサンに対抗してシテンになった。
最初はチョセダ軍だったかんな。
トウサンは途中でハシモが解体宣言。
93年頃だったか?
三人一組ではなくもう個々で勝負掛ける時だと。
そっから三人は一度も組んでないはず。
94年にはチョマサが黒のヒルファになってもうたし。
“ハシモ ムトケー”
“チョマサ ムトケー”
この組合わせはあった。
“ハシモ チョマサ”
この組合わせはなかったな。
チョマサは反体制派に回った事もあり。
ゼンニプロレはカワトシがタウアと組む為に『今シリーズでセキグン離脱』と。
シンニプロレみたいに突発的な流れを作らず。
事前に発表というやり方だ。 >>652
ハマグはプロレセンスあったな。
シンニプロレでも大活躍。
ラシャキを上手く支えた。
ハマグがラシャキ程のサイズ、或いは190あれば凄い選手だったろうな。
あの体で190あればアノキもフジナも太刀打ちできそうにない。
勿論チョリキも。 日本語不自由な奴NGにしてスッキリ
詳しいのはわかるんだけど略語が略語がきもちわるすぎ ハンセンと天龍のタッグが仲間割れしたときは衝撃だったな。
あの頃はブックなんて知らないし。 詳しいというか単に年寄りなだけだしなにより何をいいたいのかわからないし気持ち悪い >>656
実際にはWAR時代に天竜が新日のリングに上がって無双したんだよな。対抗戦どころの話では無かった。
いかにブックありとはいえ、あの当時実際に天竜と対峙して互角だったやつは、新日にはいなかったと思う。
木戸の脇方めに大喜びするのが関の山だったな。
天竜であれなんだから、天竜に完勝した鶴田が新日に上がったら、皆殺しにされてたんじゃないかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています