米軍の少年兵をかくまい憲兵に連行された両親 神戸の女性が父母の記憶を手記に
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米軍の少年兵をかくまい、憲兵に連行された−。神戸市須磨区の小池喜代美さん(88)は、両親から打ち明けられた終戦間際の体験を伏せ続けてきた。
明かしてはいけないと信じ、2人の死後も心に封じてきたが、この春、思い立って手記にしたためた。記憶を頼りにペンを走らせた7枚の原稿用紙。小池さんは「74年前の出来事がありありと浮かんで、涙が出てしまう」と話す。(小川 晶)
「今日から田んぼに行かなくていいよ」。手記の具体的な描写は、終戦3日前の1945(昭和20)年8月12日、両親の言葉で始まる。
小池さんは当時14歳。空襲を避けて神戸から和歌山県御坊町(現御坊市)に家族で疎開し、慣れない農作業を手伝っていた。田植え後の草取りで忙しい時期だったため、両親の指示がうれしくもあり、不思議でもあったという。
2日後の14日夜、突然、憲兵が家に上がり込み、父を蹴り上げると、母とともに車で連れ去った。小池さんは、4人の妹と共に途方に暮れた。翌15日の終戦も、戸惑いと不安で確かな記憶がない。
16日朝、両親が帰ってきた。父の顔は、包帯でぐるぐる巻き。母に外傷はなかったが、声が出ず、ただ妹たちを抱きしめていた。
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手記は、両親が明かしてくれた経緯へと続く。小池さんに農作業の手伝いを不要と伝えた前日、両親は近くの山桃の木に引っかかるパラシュートと3人の米軍兵を見つけたという。
日本を空襲し、撃墜されたとみられる米軍機の搭乗員で、2人は既に亡くなっていたが、19歳の少年兵が生きていた。
リンゴやミカンの木箱を壊してひつぎを作り、ヤマユリが咲く池のそばに2人の遺体を埋葬した。
さらに、少年兵を農作業用の小屋にかくまうと、ヨードチンキなどでけがの手当をした。父は10〜20代の頃、米国で暮らしており、英語が話せたという。
日本国民に「鬼畜米英」がたたき込まれていた時代。両親は、少年兵の存在を2人だけの秘密とし、手作りのオートミールをこっそり運んで与えた。少年兵にも「外に出てはいけない」と厳命していたが、
小屋の横を流れる川で体を洗っているところを近くの女性に発見されてしまう。
少年兵は確保され、両親は連れ去られた。
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この経緯を両親から聞いたのは1度きり。小池さんは、「戦争は終わったけど、敵国の兵隊を助けた話をしたら『国賊』扱いされる」と信じ、両親に聞き直すことも、他人に明かすこともなかった。
今春、「命」がテーマのエッセーコンクールを知り、題材を考えていたところ、両親の体験が浮かんだ。「今なら語り継ぐ意義がある」と机に向かい、一晩で書き上げた。
両親の優しさと勇気を実感する一方で、戦時下の異様な雰囲気を思い起こした。「目の前に傷ついた人がいたら、相手が誰であれ、助けてあげるのが当たり前でしょう。
当時は、そんなことすら一大事になる。国民全員がよろいかぶとを着込んで構えているような、おぞましい時代だったわね」