明応2年(1493)、将軍義材は、畠山基家(義就の子)を討伐するため、畠山政長とともに河内に出陣します。すると、細川勝元の子政元は、突然、将軍義材を廃し、
天竜寺の香厳院清晃を将軍に擁立しました。還俗して義遐(のち義高、義澄)と名乗った清晃は、堀越公方の足利政知の子です。政知は義政の兄弟なので、
清晃は義尚や義材の従兄弟になります。これを「明応の政変」と言います。
家臣によって将軍が廃され、別の者が擁立されるという衝撃的な事件でした。その前、清晃の出身である堀越公方家では、清晃の同母弟の潤童子と
その母・円満院が、異母兄の茶々丸に殺害されていました。
駿河に下り、今川家に寄宿していた伊勢盛時は、将軍の母と弟を殺した茶々丸を討つとして伊豆に攻め込み、関東を制圧していきます。
この伊勢盛時こそ、戦国大名第一号とされる北条早雲です。
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