壇ノ浦で平氏滅亡!とか言うが、完全消滅した訳じゃないからな。その後も平氏は幕府で働いてるし
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というか源氏はそもそも河内の国から出たのが
源流だってことすらアホは知らんしな(´・ω・`) 戦争で全滅はホントに全員死亡ってわけじゃないですし >>4
伊勢平氏の繁栄した清盛公の一族が平家
平氏は全国にいる平姓の一族
だったかな 北条も梶原も佐々木も畠山も安達も…、頼朝についた連中ほとんど平氏だろ。
源氏は武田と三浦くらいか? 平家集落があって、国道沿いでドライブインやってた
しかし、高速道路が出来て閑古鳥 まあでも、滅亡したと認識されてるから後世の平家の落人伝説に趣が加わるわけで
未だに全国津々浦々に残っているのはそれがあるからだろう 今名字で平さんはたまに聞くけど源さんはしずかちゃん以外聞いたこと無いな 徳川が上手くやりすぎたせいで鎌倉と室町の幕府システムがかなり誤解されやすくなってるよな
というか将軍・幕府システムで徳川があれだけ完璧な体制を構築できたのがちょっと異常w よくある話でうちも父方は大昔に平氏に関係する家で落人的な感じだったらしい
会津若松の山奥に本家があったと聞いたが父方の親戚みんな今は新潟で暮らしてる うちの平安京は、平均10〜12万ほどで最大13万人いるぽ
それでいて、マターリした雰囲気のいい首都
今でも平家続けてるのは、この平安京に入ったおかげだなと思う。
おかげで毎日仕事から帰って、インするのが楽しみでしょうがないw
おいら「おいすー^^
平氏A「あ、ぽこたんインしたお!」
一同「こんばんわ〜^^」
源氏A「よーし今日もどっかいくかー^^」
一同 「おー^^」 大学の時に平家の子孫と源家の子孫と同じゼミになった事があるわ。
どっちも自称だし本当か分からんけど。
源家はそのまま源さんだったな。 源氏と平氏の境目は曖昧だ
源頼朝の正室北条政子は平氏筋の家に生まれてるし 平家の落人集落て全国にあるよな、家の田舎じゃ奥州藤原の落人集落と言われている集落があった。 打ち首されたら首が空を飛ぶのは一子相伝ときいたんだが >>5
アホはおまえだ
摂津源氏の祖の源頼光の父の源満仲の地盤は摂津
頼光は長男としてそれを継いでいる
河内源氏の祖の頼信は満仲の三男だ 豊臣だと直系は無いけど完子系が今の陛下も流れて続いているか >>44
されてない
元々沈んだのもレプリカ(形代)で、その後また新しく形代をつくった
本物は熱田にある「らしい」(天皇陛下も見ちゃいけないのでだれも確認しようがない) 千葉行けばそのまま平姓の人ゴロゴロいるわな
モノホンに桓武天皇に直結しちゃう家柄
大抵農家地主だけど >>49
普通に平姓って平氏じゃないんじゃね?
藤原姓は藤原氏言ってるようなもんだぞ 驕り高ぶった北条政子が静御前を義経の妾として遇さず娼婦として扱い
「義経の愛人だった白拍子(娼婦)を捕らえたから、鶴岡八幡宮で頼朝を称える舞を踊らせてみよう」
と舞わせてみると
静御前は「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな。吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(頼朝の時代など終わって 私をしづ と繰り返し呼んでくれていた義経と過ごした時代がまた戻ってほしい。
逃げるために女人禁制の吉野山の雪道に入っていた義経の足跡が恋しい)
と即興的に歌ったので器の小さい源頼朝は激怒した
これは伊勢物語で男が過ぎた日の楽しかった思い出を懐かしんで詠んだ歌
「古(いにしへ)の 倭文(しづ)の苧環(をだまき) くりかへし むかしをいまに なすよしもがな」をアレンジしている 歴史の本読むと中国は王朝や権力者が変わると前の権力者一族郎党を根絶やしにするイメージだけど実際どの辺まで粛正してたのかな ウチも平家らしいけど何故か鎌倉幕府の重鎮だったらしいんだよなぁ 目的を果たしたそれ以上は根絶やしにしない。そこが隣国共との文化的にも民度の違いだな。 >>70
平家の鎧は沈んだからないんだよ
生き残らないと持ち帰れない >>63
同じ
北条家に滅ぼされて地方に逃げて豪農になった うちは田舎に土着荘園に土着して城持ち豪族だったが織田の侵略時に斉藤家に付いて負けて大農家に戻ったわ
一族が金森に養子に入って大名になったが結局だめだったし 姓と名字を混同してるやつが居るな
天皇からもらうのが姓で自分で旗揚げした時に名乗るのが名字だ
だから朝廷の公的な文書には源氏とか平氏で書かれた
北条政子だって平政子として書かれた
まあここで女性の北条政子を持ち出すのは適当ではないんだが、名字も姓も両方持ってると考えれば良い >>60
三族(三世代)ぐらいとはよく聞く。
その元支配者から数えて三世代だから孫の代まで(赤子も)
昔はそんな長生きしなかったからそんなもんで根絶やしに出来た。 >>60
北条氏は鎌倉幕府の執権として実質的な支配者になってから各地の源氏勢力を粛清(族滅)させている
その北条も最後は鎌倉幕府の滅亡と共に族滅。 >>5
源氏は色んな天皇から派生してるから源流は1つじゃないよ >60 根絶やしにしないで優遇したのが宋
沖縄に流したのが明 ぐらいだな
生かしておいたの
ぶっちゃけ生かしても大した勢力にはならない 松ケンの平清盛個人的には面白かったな
戦国時代物よりあの時代辺りの話の方がなんか分かりやすくて好きだわ >>82
ここで言う北条は後北条(戦国時代の北条)じゃないぞ?
因にウチは鎌倉末期の悪党の家柄 臣籍降下した天皇の子達はもれなく源氏や平氏などの姓を賜って名乗るのであって天皇の子の数が多ければ多いほど武家や公家にも源氏や平氏姓も多い。 うちの宗旨は曹洞宗なんだけど、平家士族=曹洞宗 源氏士族=臨済宗とザックリ聞いた事ある。
でも普通に鶴岡八幡宮も行くし、むしろ対立意識ある奴なんているのだろうか?? うちの親族も平家の落ち武者の子孫だと信じてるみたいだけど
山奥に住んでるとみんなそう思うのかな? >>60
中国って官僚制国家だから皇族を一族郎党殺してもガワを成り立たせる文官さえ生かして置けば成り立っちゃうからね…
特に科挙成立後はそう
家の世襲で成り立ってた日本では出来ない芸当 >90 友人の家今でも名家なんだが 戦国時代に近所のデカイ神社を根絶やしに近いぐらい弾圧したから未だに、彼の家は参拝禁止だわ >>94
今じゃ国内では日本国王号は使ってなかったから天皇に気を使ってた説が有力 平家パイって売ってるんだな
ググるまで知らなかったわw >>29
三河の源頼朝、三河の足利尊氏、三河の徳川家康が完成させた日本統治システムだわな
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 戦国の世では源平交代論なんてイミフな理論がまかり通ってたところをみると平氏が絶滅したわけじゃないのはあきらか >>91
山奥でも家が絶えずに住み続けられたって事はそれなりの根拠があるんだよ。
昔の豪族ってのは開墾や治水の技術があったし病気に対応する薬草や処置にも詳しかった。
山奥でも不自由無く暮らせていたと言うのがその証拠なんじゃないかな?
そう言う技術などが無ければ集落絶滅してたよ >>90
臨済宗は議論討論する宗派なので寺を都会に構えて、
曹洞宗は座禅しながら何も考えないので寺を山奥の静かな所に構えるので、
臨済宗は鎌倉時代の主流派、曹洞宗は平家の落人のイメージなんじゃないかな
実際には鎌倉時代に牛耳っていた北条、和田、三浦、みんな平氏の一族なので
そんなざっくりと言えない 日本てさ?中国みたいに国がいくつにもわかれた地図みたいなのを歴史であんまり習わないけどさ?
当然江戸以前は室町も鎌倉も平安も奈良時代もいくつかの国々に分かれてたわけだよな?
中国の歴史学ぶときによくみるような勢力分布図てなんであんまり見かけない習わないのかな?
学校の歴史の授業で教科書で?
日本がずっと一つの国だったて誤解しない? 大規模掃討作戦で地下に潜っただけでシンパはかなり居たぞ
児ポ法後のロリコンみたいなもん 絶滅させたって事にしないと、威厳が保てないからだろ
その時の権力者が歴史を都合よく書くのは当たり前 >>96
中学生のとき、本当は足利なのに明の前では源を僣称していたと教えられたが、
本姓は源だから正式な名乗りは源で正しいんだよな そう言えば光ゲンジが超人気の時にジャニにはもう一つ平家派っていうグループもいたよな? >>103
戦国時代の記述はそんな感じじゃないか? 平家の落人が住み着いたとか言う言い伝えが残ってる集落って全国にいったい何カ所有るんだろう >>103
豪族・大名同士の戦は所領のいざこざ扱いだからね。
中国の場合は異民族同士の戦争だからな。 嫁いだ先の家紋が揚羽蝶だったから、関係あるかわからんがとりあえず今度将門公に挨拶してくるわ >>4
平家限定でも頼盛の系統が生き残ってはいるし、五男保業が御家人になっているんだよな
>>10
佐々木は源氏、安達は藤原じゃなかったっけ? 片や清和、片や桓武、どっちも皇親の子孫でもとを辿れば皇室というね。 >>118
軍服着た長身のオッサンにつきまとわれてない? >>86
まあ後北条も平氏なんだけどね
その後北条と争った三浦氏も平氏だし上杉謙信の長尾氏も平氏
相模は平氏だらけ >>115
プロイセンとオーストリアみたいな感じで同じ民族でも違う国家に成りうるし、同じ民族だから日本は違う論はちょっと違うと思う >>110
戦国時代は有名だしゲームで覚えられるけどさ
それ以前てあんまりパッと思い浮かべられなくない? >>10
まとめといたよ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守) >>10
続き
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>125
これ面白いなお気に入りに登録しておいた
中国人も邪馬台国北九州説支持者かw >>126
確かに承久の乱とかもう幕府成立してるのに西国に支配広げるってなんやねんって成りがち 平家の中納言の人が戦に負けて、京都から能登に逃亡してる。
大きめの墓も能登にある。
子孫も能登に住んでる。
義経や弁慶が北陸を経由した理由の一つがこの人に会うため。 >>124
豪族だろうが何だろうが結局は天皇の臣下だからね。
でも南北朝みたいに別れた時期もあるぞい。
因にウチは南朝側だったから落ち延びて帰農。 将門の従兄弟貞盛の息子の一人が関東から伊勢を地盤に勢力拡大した伊勢平氏嫡流
が滅んだだけ >>101
福井県に平泉寺白山神社ていう平家にかかわる有名なところがあるんだけど
昔はよくなにもしらないままお参りにいってたけど
wikiで歴史を知ってからまた興味を持ったな
コケだらけの歴史ありそうなところでなんかお参りするとキリっと身が引き締まる気がする
『平家物語』にも平泉寺は登場するし
源頼朝に追われた源義経主従が、山伏に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている
たしかに平家の落ち武者伝説があながちウソではないかもしれん >>133
それを言ったらドイツも神聖ローマ皇帝が居たんだよなぁ…
南北朝の動乱だと後光厳天皇とか可哀想過ぎて涙出ますよ
やはり皇統の迭立はいけない 北条氏・・・桓武平氏維衝流
後北条氏・・・桓武平氏伊勢氏流
佐々木氏・・・宇和源氏扶義流
畠山氏・・・桓武平氏高望流・清和源氏
安達氏・・・藤原北家魚名流
武田氏・・・清和源氏義光流
三浦氏・・・桓武平氏良文流(坂東平氏)
足利氏・・・清和源氏義家流(河内源氏) >>10
北条氏・・・桓武平氏維衝流
後北条氏・・・桓武平氏伊勢氏流
佐々木氏・・・宇和源氏扶義流
畠山氏・・・桓武平氏高望流・清和源氏
安達氏・・・藤原北家魚名流
武田氏・・・清和源氏義光流
三浦氏・・・桓武平氏良文流(坂東平氏)
足利氏・・・清和源氏義家流(河内源氏) 藤原氏の末裔の方が、格高いし。
所詮は殿上人じゃないし。 幼少の頃から下関の赤間神宮に行ったり近くまで行くと頭が割れそうなくらいの頭痛に襲われる
多分俺の前世か祖先が平家落人狩りやってたやろな… 平泉寺白山神社wikiより
源平合戦時の行動として、『平家物語』には、寿永2年(1183年)4月に行われた
平家と木曾義仲方との火打城の戦いで、
平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。
斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、
一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。
この頃にはもうすでに有力な僧兵集団がいたことが知られる。
平家の落ち武者ていっても平家直属家系というより
平家側についた勢力の子孫じゃないかな?て思う
日本全国各地の平家の落ち武者伝説てそんな感じじゃない?
直系や近い一族は滅んでないのか?
四国辺りにもなんか平家の落ち武者伝説があり
同じ姓だらけの集落があるていうのテレビの番組かなにかで見た気がする 江戸時代
大名家で平氏は織田家を除くと
相馬家のみ。
(桓武平氏→千葉氏→相馬氏・相馬家のつながりも怪しいが絶対権力者の徳川氏に一応ながらも認知させた相馬家の手腕は評価)
旗本(万石以下)は掃いて捨てるほどいました。 >>147
そんなこといったら平泉寺白山神社に行くと身も心も引き締まるような気がする俺と
お前が出会ったら共鳴して頭が割れそうになるのか?w >>141
伊勢氏は違うぞ
三河にいた、藤原と称した藤原さんだ
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去 >>136
天武以降の天皇が5〜6代くらい馬子の子孫だもんなw >>141
安達氏は、三河にいた藤原と称した小野田さんだ
源頼朝の三河の叔父さん
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)→任憲(三河国滝山寺)
尊卑分脈の法眼範智の伝に「藤九郎盛長〃人云々」の記述がある
恐らくこれは安達盛長の事であり、三河祐範が頼朝に付けてやった侍従とは安達盛長の可能性が高い 全国各地にある平家落人伝説は正確には平氏落人伝説じゃないのか?と昔から疑問に思っているけど… 埋蔵金探しはするのに確実に存在する剣が放置されてるのは何故なのか
銅だから保存状態もかなり良い筈なのに やってることが悠長だよな
扇の的に当ててとか(´・ω・`) 足利だとか三浦だとか畠山は結構だが
鎌倉将軍家に嫁を出す家ほど、重要な家はない
つまり三河の名族、満政流足助氏だわな
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 うっとこも清和源氏の流れの末の末の端の端の末端の末端の旧旗本士族やけど三世代6人中旧帝ウチ含め4人排出してウチが30ちょっと前にしてなんとかモウモウこうたぐらいの別にどってことない平均的な一般家庭やしwwwwwww
平氏とかゆわれても今更ナンナンwwwwwwwかんけーあれへんwwwwwwwつか平家やのにけいよん!?そら滅亡するはwwwwwwwて感じやはwwwwwwwウケルwwwwwww >>149
旗本だけど忍者の服部半蔵は平氏やったと聞くな
対馬の宗氏が平氏を名乗ってる
清盛の子知盛が祖先と名乗ってるけど、もっと前から対馬で活動してたので怪しい >>115
>>124
シナなんて、つい半世紀前まで、
アヘン戦争敗戦での、ギガ重税、
インフレ激化のスタグフレーション慢性的構造不況激化から、
シナ南部での、太平天国の大乱での
国家破綻から、
義和団の大乱でも、さらに、大敗。
シナは、南北東西に、群雄割拠になり分裂。
日中太平洋戦争でも、軍閥だらけに。
シナ西部には、
イスラム教徒になった漢人の半国家があったしなw >>19
小学校のクラスに源さんがいた
高校のクラスに平さんがいた >>111
坂東武者って源氏なイメージだけど、ほんとは平氏なんだろうか >>115
まあそれは解るけど
毛人が東日本の大部分を支配してた時代の細かな勢力分布図とかわかってないからなあ…
日本の歴史ていまだわかってないことが多すぎ
邪馬台国の正確な場所だってまだ結論出てないしさ
昔の日本最古の古い地図だって伊能忠敬さんが測量するまでは
なんか席取りゲームみたいな感じの簡素な地図だったしw
日本列島ほぼ全域描く、最古級の地図発見
https://www.asahi.com/articles/ASL6H36LKL6HPTFC009.html >>175
平家だよ。
時代は違うが、鎌倉幕府を潰したのも関東の武士と武装農族。 全体主義者の手先、警察、消防は集団ストーカー(時間をかけた殺人)を先導しています。
消防署員は集団ストーカーに加担し、家宅侵入、窃盗、器物破損を繰り返す犯罪集団。
集団ストーカーの主犯は警察なのだが彼等は自ら手を汚さない。よって下部組織に汚れ役をやらせている。
家宅侵入などの悪質で危険な犯罪は一般人には依頼できない。もしミスすると警察が主犯であることが
ばれてしまう。だから税金で雇っていて警察よりはランクの低い組織である消防がその任務を負っている
ものと推測する。消防による救急車両の付きまといが集団ストーカー犯罪として有名なことは被害者なら
誰でも知っていること。厳しく訓練され結束力が強く(秘密を外部に漏らさない)地元地域に精通してい
る。且つ消防は暇で暇でしょうがない。警察の手下として汚れ役をさせるにはもってこいなのである。
この国は犯罪者に乗っ取られている・・基本的にこいつら(警察・消防)はカネさえ与えれば泥棒でも、
町荒らしでもなんでもする奴らです。 村田蔵六が長州藩に召し抱えられ、武士となり大村益次郎と名乗るようになるが
その時に平氏を選んだはず
横井小楠は鎌倉北条氏がわずかに残った系列で、戦国時代頃は尾張にいたらしく
近い系列で賤ヶ岳七本槍の平野長泰も、高倉健も別系統の鎌倉北条氏の末裔
鎌倉北条氏は怪しいけど、大名は少ないが個人で有名になった平氏は結構いそう 去年まで壇ノ浦のすぐ横通って出勤してたわ
ちなみにちょっと離れた平賀源内の生家らしきところの一方通行の道もよく通る 壇ノ浦で滅びた後、一緒にいた女官達が遊女に身をやつして・・・
女官と言えもともといいとこのお嬢様が百姓の嫁になったり・・・
山口あたりの人達って、何気に平家の血を引いてる人が多いのかも。
俺の田舎には、平家の落人の赤旗神社ってのが有る。 >>5
源氏は天皇の子か孫が臣籍降下した場合
ひ孫以降が平氏ってだけ
源氏も平氏も天皇を中心にした親戚 源氏って言ったら悪いけどアホ率高いよね(´・ω・`)
平氏は文明人だけども >>175
平氏の出自は上総
平氏を名乗った信長が上総介だったのはその為
あと関東は古くから馬の名産地
平安末期に騎馬で暴れていたのか坂東武者のスタートって感じ 家系はでっち上げが多いとは聞くけど、我が家は源氏の子孫を名乗るぞとか平氏を名乗るぞととかはどうやって決めてたの ウチの会社に「平◯◯」っていう、性格最低な奴がいて、まんま平家の末裔らしくて上級国民気取りに振る舞うもんで、周りの連中は影では「タイラ◯◯」ではなく「タイラの◯◯」って呼んでた。 うちの田舎にも平家の赤旗がある。
めっちゃ秘境やけど 平家の落ち武者伝説と信玄公のかくれ湯は大杉なんだよバカ観光屋 ! w 平家の落ち武者が大量に住み着いたのが、下関市彦島、巌流島に隣接する島だ 伊勢平氏の清盛一族の滅亡。東国は千葉氏も三浦氏も平氏。 >>186
おいでまい
壇ノ浦は素通りしてるからどんな感じか知らんけど
源内さんは資料館とかあるし
うどんや骨付き鶏もうまいし
でも今年は渇水に悩まされそうな悪寒 >>149
島津の軍門に降って家老格になった種子島氏が、平家末裔名乗ってた
家老なんで大名じゃないが2万石ぐらいあったはず >>188
血の気が多いイメージはあるな
八幡太郎は恐ろしやって言われるくらいだし 山間にあちこちから流れ者が寄り集まって集落が作られて
「うちらは落ち延びた平家の末裔です」って言えば、いろいろ面倒ごとが避けられたんじゃないだろうか 鎌倉や室町の弱体政府でもそれなりに長期政権築けたのになんで平氏や豊臣政権は一瞬で終わっちまったのか 源平の対立が鮮明化していなかった時代は政策で源平が混在していたっぽい
本来は平家の千葉一族がしれっと源氏側にいるのはその関連らしい >>178
違う、三河武士
新田義貞は中途半端で上洛した
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城 能登半島に時国家て庄屋さんがいて、平時忠の末裔名乗ってた 小学校の同級生に平くんがいた
あだ名はぼんぺいだった >>178
続き
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 でも前九年の役で源氏が滅ぼした筈の安倍氏が
日本の天下びとになってると頼朝知ったら
ビックリして落馬しちゃうよ
きっと 白村江の戦いで敗北した倭国は半島からの新羅人移住者を受け入れ関東に入植させたと言う。
それが平家の始まりである。 >>190
少しは関係あるな
源氏
↓
源氏を題材にした源氏物語
↓
貴族などに仕える女性が源氏物語の巻名を名乗るのが流行った
↓
風俗関係の女性が名乗るのが流行った
↓
源氏名
↓
風俗関係の女性の仮名を源氏名と呼ぶことになった 権勢誇った平家は滅亡した。次の最高権力者義経は勝手に自分だけ天皇から地位得て子分も引き立て地位与えた。長続きしたら清盛が義経に代わっただけの貴族化した源氏になってた。
鎌倉には別の構想あって義経派打倒、当時としては農民大事にした関東武士は新政権の中核だが平氏も含まれる。 >>223
ドラえもんの源静香ちゃんは源氏の末裔設定とかなかった?w 天皇家が増えすぎて武官の役職を与えたのが源氏平家
それが争ったけど天下を取ったのは源氏の嫁一族
源氏平家落ちぶれ各地に飛んだけど血筋多すぎなので誰でも末裔と名乗れる状態になったのが戦国時代 >>232
源静香ちゃんは源公暁の末裔であり、自称源氏長者を名乗ってる
公暁が討たれ源氏正嫡は絶えたと思われたが、そうではない
公暁は何とか逃げ延び、打倒北条氏へ捲土重来を期して山奥に隠れ住んだ
何度か打倒北条の挙兵しようと思うも、まだ早いと自重し月日が過ぎる
後醍醐天皇が先に兵を挙げ、遅れてはならぬと挙兵
しかしあまりにも山奥での挙兵で、北条氏は挙兵してる事さえ知らなかった
幾度待っても攻めて来ず、気が付けば北条氏は滅び南北朝時代に
南朝か北朝かどちらに付こうか?吾輩が付いた方が勝つと確信するも
自分が将軍を名乗り、新たに東朝をつくればいいのではと思い東朝が誕生した
東朝の朝は早い、ろくな家来がいないので公暁は朝から洗濯に朝食に忙しい
昼からは将軍の住む御所を一人で建設、思うように工事ははからどらない
そんな東朝を慕う家来が少しづつ増えた、家来といっても狸や狐や猪であるが
苦節100年ようやく御所が完成し、長年の夢であった将軍宣下を行う
周りは狸や狐や猪しかいないが、四代将軍公暁の誕生である
しかし時代は南北朝を終え、応仁の乱が始まっていた
南朝北朝から今度は東軍西軍の戦いである、もちろん公暁は北軍を名乗る
「いざ我北軍に集う兵は歓迎しようぞ!公暁将軍の元に集え兵どもよ!」
威勢の良い声が山奥で木霊する、そこに頭の良い狐が尋ねた
「源氏ってみんな義の付く名前が多いのに、なんでアンタ公暁なの?」
そうだ自分はまだ幼名を名乗っており、まだ元服してないんだ
公暁はようやくまだ自分が未成年だった事を自覚する >>44
『太平記』に浜辺に打ち上げられたという話がある。いつ頃かは忘れた >>223
細川護煕知ってる?
あれが戦国時代の当主だったら滅んでたな 親族一丸となるのが平家。
身内で殺し会うのが源氏。 うちも平家の子孫だけど親に聞いたら沢山居るよだってw >>5
清和源氏はそうだけど、源氏て清和源氏だけでなく天皇家から分家したら源氏を
名乗った 頼朝率いる鎌倉に従わなかった武士一族が九州とか全国の僻地に結構飛ばされてるからな。そこで没落した者は落人伝説に…力をつけて豪族になったものは後に戦国大名に…って流れだ >>134
長幼の序からいったら伊勢平氏が嫡流だけど
じいちゃん(平国香)の跡をついだのは常陸平氏なんだよねー >>5
バカ見っけ
源氏は二十一流有る
有名どころではでは村上、清和、宇多、嵯峨源氏 >>10
つい最近知ったんだがうちの家計は梶原氏の末裔らしい
戸籍で過去を遡ったら甑島の梶原氏に行き着いた
嘘か本当かは分からんが死んだ親父の話によると明治の頃は華族だったとか… >>237
滅ぶわけない
三河で徳川で繋がっている
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) 教養はあるが判断力が無い
これでは戦国の世で生き残れない
自分も生き残れないんだけどなw >>60
しないこともある
劉備の息子なんか、捨て扶持もらって優雅に暮らしてたぞ 嵯峨源氏は光源氏のモデル源融の子孫だから
さぞ美男美女なんだろうか 平氏に味方した源氏もいたりしてわけわかんねーよなw 壇ノ浦で入水したはずの人たちは実は生き延びて
四国の山ん中で暮らしてたんじゃないの? 東北の僻地とかにたまに平家の末裔自称するのが居るよな
いくら平家の落人でもそんなとこまで逃げねえよ >>265
北限は栃木の何とか温泉の辺りじゃない? 信長や猿吉が好きな間抜け程妄想しがちだが
物事は結果が大事だ
間抜けの信長や猿吉は歴史から抹殺されたが、細川は生き延びるのは結果をみても明らか
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>265
落人としての平氏なの?
普通に頼朝の奥州征伐後に恩賞としてもらった土地に入植した御家人の末裔とかじゃなくて?
平氏だと三浦系の葦名(これも相模の三浦の地名)氏とかが東北に定着してるが 実は私も平家一門の末裔なのです
平家でなけりゃ人じゃない >>264
爺ちゃんの生まれ故郷がそれ
山奥にも程がある 先祖は平家の落人で今住んでる山に平家の埋蔵金があるはずとじいちゃん言ってた 小沢チルドレンで衆議院議員になってた平ってのが京都市の選挙区にいたのだ >>265
平将門の残党の話と混ざっちゃったんじゃない?
相馬氏も自称将門の子孫ってことになっている
まあ平氏だし
清盛の長男の未亡人は今の茨城県城里町の小松寺に身を寄せた
常陸平氏を頼ったが頼朝に気兼ねして寺へ
源氏も深追いはしなかった
長男は合戦以前に病死だったが生きていれば平氏の総崩れは無かったかも知れないそうだ 徳島に落人の言い伝えがあるんだっけ
かずら橋に行ったときに色々あったな 平将門、平清盛、源頼朝の日本史の流れは面白いね。
うちの家系は遡ると平氏だそうだが >>286
それは言い換えれば日本人が細川程度の人間しか受け入れられなかっただけのこと やあやあやあ我こそは〜って名乗ってから戦い始めるんだっけ?
優雅で良いな >>18
いくらなんでも落人多過ぎだろと思う。
全国の集めたら当時ですら数十万人規模はあるはず。
逃げずに戦えば余裕で勝てるよなw 四十七士の吉良も平家の出だが
礼儀作法の師範で頭が固かった >>92
官僚組織を破壊すると全国統治出来なくなるからな。 日本中巻き込んでの戦いだから、平家側についた方はみんな落ち武者 >>287
吉良氏は足利氏の分家、つまりは源氏だろ 山奥の辺鄙なところの出身者は平家の末裔らしいでごまかす 群馬の西南の方では小柏さんが沢山住んでる地域あるわ
この人たちも平家の末裔とされてる >>115
まぁ、ざっくり言うとそうだろうな。
日本の場合、渡来系と言われる一族が、天皇と近い豪族、ついには天皇と血縁になり、
完全に朝廷を掌握したのが大化の改新と(一説では)言われ、
その朝廷の血が各地に散らばり、土着の豪族、さらには民と同化していって...。
だから、最近の、欧米的な感覚で日本の民族を捉える動きは違和感があるのは確か。 >>12
源平討魔伝ネタまで12レスか。
そんなものかお前ら。 >>290
ややこしいのは頼朝を坂東平氏が担いだり源氏の佐竹氏が頼朝と戦ったり
源平で分けられない うちの近所に「平家谷」って所があるけど、そんな名前着けたら隠れてる意味がないよね? >>48
この前、伊勢神宮に持って行ってたのは皆レプリカなの? くっそ山奥のなんでわざわざこんな所に住んだんだ?って所はだいたい平家の落人だな 陸奥の助力がなかったら源氏が勝ってたかどうかも怪しいしな うちは藤原秀郷の末裔の傍系の支流の分家だよ。
最早関係ないな。 うちのじーさんも三浦一族の末裔だって自称してたな
代々のめっちゃ古い墓あるからそうなのかもしれんが >>263
そりゃ、保元・平治の乱で勝ち上がって台頭した一族が偶々平姓で、
そいつらを追い落とした関東武家団の旗頭が偶々源姓だっただけで、
源氏一族VS平氏一族の戦いがあったわけじゃないからな 田舎の近所に平家の落ちの集落あるけど皆めちゃ金持ってるとか聞いたな
ゲンジバンザイ >>34
若松ってつけると会津若松市の山奥になる。
落人伝説のある檜枝岐村は会津地方の山奥、もしくは南会津の山奥と言わんと語弊がある 知り合いに男は平の字が入る一族がいる
宮島出身だし本当の落武者なんかな よく勘違いしてる人多いけど、平家と平氏はまったくの別物だから。源平当時も源氏配下の平氏はたくさんいたし >>313
そうだったのか、地元の人かな?教えてくれてありがとう
まだ小学生くらいの頃に聞いて両親が離婚したままそれきり父とは会うこともなく死別した
父方の親戚とも縁が切れたので誰にももう詳しく聞けなくなってしまった
その南会津が自分のルーツなんだろうか、どんな所か一度行ってみたいな ====================
|| 西宮神社 || /.: : : : : :ヽ 2004年偽一番福 消防士
==||⌒⌒⌒⌒ ワー ||== /.:::: ‐ ‐ ヽ 平慶彦が2ゲットだ
|| ○○○○ワー|| l ` ´ | >>3-6ブロック乙
||●BCDE●|| | ●● ノ >>7頭使えよ
||十青青青青┼|| >、 - 、`\ >>8無駄な努力ご苦労
||人人人人人人|| / __ /> ) >>9ねたみの声があるのでしょう
\ \(___) /(_/ >>10-1000今年は不幸
\ \ | /
\ | /\ \
\ | / ) )
\ ∪ ( \
\_) 貧乳の嫁に、真っ平氏とか以前言ったらアタマ割れるかと思うほどの一撃来たけどな。
土下座してそういう所も好きで愛してるんだと言って許してもらったが黒歴史だ >>321
ルーツが解らんのね
檜枝岐だと星姓が多いから父方の姓がそれなら可能性高いかな
檜枝岐が有名ってだけで他の山間の集落でも平家だと思ってるとこはあるかもしれんが >>284
優雅なのは平家だけ
源義経や源義仲など源氏は奇襲攻撃多い >>284
実際には矢の打ち合いメインで、そういうのは戦場から離れた場所で敵味方が
ばったり出くわしたときにお互い名乗りあうだけって聞いたぞ 名乗りを上げるのは手柄を味方に認知させるためやってるんであって自己紹介してるワケでは無いんよ うちは新田家と関係があるらしいが
詳しいことは知らんw
何せ新田氏自体が落ちぶれたからww 平家は源氏や藤原氏などの家臣も含めての総称。例えるなら平氏が平姓を持つ一族なら、平家は一部の平氏を中心とした派閥みたいな感じ。どのみち源平藤橘は臣籍降下なんだし意味はそこまでないよ。源流は同じ 平家は平氏に仕える人たちも混ざってる総称だからな
まぁうちの源氏も似たようなもんだがw 壇ノ浦海戦辺りは、もう水軍の戦いだから広島県民辺りだろうね、下関の平家の落ち武者は彦島に住み着いて海賊やってたらしいその後、貿易の荷役やってそのあとは造船の仕事って流れだ、俺はその子孫 源氏軍(半分平氏)ってことは
平家は身内に利権ばら蒔くべきだった? >>254
明治の頃なら戸籍遡れるし
先祖の名前が分かれば華族かどうかもすぐ分かるだろ 60
中央の貴族と官僚は奉公人含め根こそぎ死罪だね。最強軍は首都防衛の王護衛隊と皇太子率いる国境守備隊だか反乱謀反疑われ廃嫡も多い。 >>235の続き
確か年齢は170歳ぐらいだと思うが、ようやく元服した公暁
170歳だからといって年寄り扱いしないでくれ、とても若いのだ
なんたって元服したばかりの貴公子
若さの秘訣は仙人のように霞を食う事だと公暁は静かに語る
公暁170年間の経歴をまとめると
承久の乱は北条を倒す絶好のチャンスだったが、山奥に住んでるので情報不足で後から知った
元寇は日本のため北条と一時休戦し共に戦う決意をしたが、対馬での元の恐ろしい暴挙に怯え祈祷に専念する
南北朝は優柔不断さが災いし、これといった行動を行わなかった
しかし今度の公暁は違う、まず目つきが違う、元服しようやく武家の棟梁の風格が漂うようになった
いざ京へ公暁軍団の進軍である、多くの兵が集いこれまでにない大軍団である
狸や狐や猪しかいなかった公暁兵、さらに猿に犬に猫に豚に狼に鹿に牛が集う
さらに日本列島最強の戦士熊も参陣、熊は公暁に意気込みを語った
「ある日森の中♪熊さんに出会った♪花咲く森の中♪熊さんに出会った♪」
この熊は戦闘能力は低いが、とても美声で歌のうまい熊にようである
進軍する公暁軍がついに応仁の乱で荒れる京へ着いた
源氏長者は我ぞ!なぜ足利のような分家が長者を名乗ってるのか?
征夷大将軍は我ぞ!なぜ足利のような軟弱な武士が名乗ってるのか?
足利義政がいる花の御所へ、公暁軍が進軍する 平家一門は最後まで一族団結してたことに好感
親子兄弟で殺しあう源氏と大違い >>352
本流てのが何を指して言ってるのか知らんが
氏の長者なら代々村上源氏で、清和源氏が長者になるのは室町期(足利将軍が兼任)と江戸期(同じく徳川将軍)だけ
ちなみに徳川将軍家が清和源氏だっつーのもあくまで自称で実際は怪しいというかほぼ確実に嘘 流石は部外者だな
新田は三河国造家の血を引いてるからあり得ない話ではない
しかも松平郷土の加茂郡は南朝本拠だ
初代の母親が足利義氏の娘の大舘氏が室町幕府の幹部になれたように
本来なら、初代の嫁が足利義氏の娘の世良田氏も、許され幹部になれたはず
何らかの理由で隠さなければいけなかったんだろう
大舘氏を幹部にしたのは義満だが、義満が世良田を三河に呼び寄せた仮説は面白い
三河物部氏と言えば、三河と無縁と思われた義国流の新田義重の母方の祖母は三河国造家出身で
義重の孫は三河守護代、三河守だった世良田頼氏、世良田と言えば松平
三河国造家(物部氏)、興原氏
http://www.myj7000.j...n/02/021/02113c2.htm
系図に義国、義重あり
源義国→義重→得川義季→世良田頼氏(三河守護代) 父の実家(新田荘)だと
徳川が家系図をねつ造したのは有名
それに公家源氏と武家源氏は違うしな
現在も公家源氏筆頭はは旧清華家の久我家
(女優の久我美子が出た家) >>356
そういう説も一部であるようだが(おまえとか)、一般的には平安京の平らしい。 >>360
家康も最初は藤原氏名乗ってたしな
信長も最初藤原氏で途中から平氏を称した
俺の先祖も、歴史好きなら名前くらいは聞いたことがあるかもしれないとあるマイナー武将の家臣で、元は平氏を名乗る地方小領主だったが、主筋が武田信玄に負けてからあっさり源氏を称するようになった
もちろんどっちも自称だろう
摂関家とか清華家や守護大名家の中でも確実に中世以前に遡れる極一部の家(その久我家とか)は別として、戦国期以降の家の「氏」なんていいかげんなもんだ 日本武道館で初お披露目としてデビューイベントを開催し、地元三重からは、平家みちよ後援会100名が応援に駆け付けた。
ここでいつも泣きそうになる 三河守は藤原しかなっていないと言われたから、仕方なくだろ
家康はそうではないと知っていたが
三河国主、三河守について
1184年06月:源範頼(三河守)
1191年07年:九条兼実(知行国主)
1193年08年:吉田資経(三河守)、吉田経房(初代関東申次)の孫、室に藤原範季の娘
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守)
1200年02年:藤原親輔(三河守)、藤原顕季の息、姉妹に九条兼実室
1200年03月:七条院(分国主)
1207年01月:忠輔(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1212年12月:実茂(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1225年01月:藤原為綱(三河守)
1227年11月:七条院(分国主)
1228年12月:藤原経季(三河守)
1229年10月:藤原範房(三河守)、藤原範季の孫、叔母は吉田資経(三河守)室、姉妹に四条隆親室、忠成王(母親は三河の藤姓熱田大宮司、藤原清季の娘)妃
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1235年01年:藤原隆朝(三河守)、藤原隆季(四条家の祖)の曾孫、息が四条房名(三河守)に養子入り
1238年10年:卜部兼直(三河守)、兄弟の孫に吉田兼好
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の5世孫
1240年12月:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1200年12月:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息
1241年03月:清原教隆(三河守)、九条頼嗣の侍講
1242年03年:藤原定親(三河守)
1244年08年:世良田頼氏(三河守)、室は足利義氏(三河守護)の娘)
1248年01年:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息 >>365
松平家の先代は賀茂氏(賀茂朝臣)を称してたんじゃなかったか
なんにしてもなんちゃら家が「本当は」何氏か、なんてわからんしあんまし意味もないだろう
あんたの言うとおり、叙爵や任官といった目的のために氏を選んだんだろうから、そのとき何氏を称してたかを手がかりにその人物を研究するのには役に立つが 男系は新田で、女系が在原だとか鈴木だとかなんだろ
入り婿なんだからよ 実は、三河守は三河の源頼朝に近い公家がなっていた
驚き事に、関東申次は三河縁者ばかり
関東申次
吉田経房(三河国知行国主)
坊門信清(源実朝正室の父)
西園寺公経(母は一条全子(坊門姫の娘)、将軍九条頼経外祖父)
近衛家実
九条道家(祖父は九条兼実(三河国知行国主)、将軍九条頼経実父)
近衛兼経(道家の娘婿、道家の補佐役)
一条実経(道家の子、九条頼経の弟、道家の補佐役)
西園寺実氏(公経の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、実氏の孫、先に病死した父・公相に代わる)
西園寺公衡(実兼の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、公衡病死に伴い、復職)
西園寺実衡(三河国知行国主、実兼の孫、公衡の子) >>308
俵の藤太さんの末裔って色んなところで活躍しているんだよな
奥州藤原氏もそうだし >>371
平愛梨は沖永良部だから島津の政策で一文字姓
ホンジャマカ恵は鹿児島から奄美に渡って改名したのか母系の名前を受け継いだのかどっちか
恵の実家は大島紬を皇室に献上しているから奄美では支配者階級だったんだろうが一文字姓 蟹はゲンジもヘイケもいるのにホタルは平家ないんすねw >>373
ヒント Luciola lateralis 福岡だけど知り合いに千葉胤○さんとか千葉○胤さんという名前の人が複数人いるわ
元が平氏なんだそうだ >>375
市原市出身の平氏分家が千葉市に土着して千葉氏を名乗り
その後分家が九州に行ってますからね
逆に九州の菊池氏の一部が関東に残ってます 承久の乱で東国武者の西日本進出が行われたからな
それまでは幕府の力も西国にはそれほど及んでなかった >>4
公家の平家と武家の平家があって、壇ノ浦で滅んだのは武家の平家。
まあ、清盛の妻二位の尼は公家平家出身だけどね。 まあ秋田県に限らず東日本神宮に江戸時代より前の歴史を語るのは難しい
奥州藤原が外国人だから 1.スレタイ詐欺
2.滅亡したのは本家だから分家の落ち武者は日本中に居るのは有名
3.草薙の剣ってまだ沈んでるの?潜って探したら出て来る? 「とわずがたり」の中で主人公の二条(久我家、公家源氏筆頭)が
熱田神宮は父が治めてる国・・・云々記述があるから
源氏の領分じゃねーのけ? 合掌造りで有名ななんとか村は
平家の落人って伝説があった気がする 実は、徳川は源氏の子孫とか吹聴してきたけど、平家側の人間。
松平家だからな。平って苗字に入ってる人は特別な人だって聞いた。
平家=原始キリスト教=ゾロアスター教=ソロモンからアークを持ち出した人。
の可能性あるな。バカなチョンは、源氏の子孫だとかなのってアホまるだし。
おまえらエベンキチョンの末裔で高麗の子孫ですらないのに うちも平家、祖父の家に古い家系図と江戸時代に書き写した家系図あった、
天照大御神から天皇家から清盛直系だった、
母親の方だけど 松平家 = 平家の子孫で生き残るために源氏にカモフラージュ。
三種の神器 = 失われたアーク をもっているため、
明智光秀が天海に化けて生き残ったり、影武者徳川家康伝説ができたり、
日光東照宮に、その一部の宝と秘密を隠したため、見ざる言わざる聞かざるで封印され、
更に、かごめの歌に、古代の秘密を伝承として残し、上忍の松尾芭蕉が全国に広めた。
忍者=修験者=ユダヤ人=天狗。だから一日に今ほど道路が整備されてない野山を80kmも移動した。
当時ならツツガムシなどのダニの害も酷かったが、過酷な状況でも生き延びる知恵をもっていた >>391
父方は日本に最初にユダヤ教を持って来た忍者のトップ(ツクヨミ)の直系
母方は平将門の直系 平家は 平成 で元号の世界でも天下とったけど
源氏はどうなの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています