戊辰戦争の時秋田藩は仙台藩の使者全員の首を見返り橋ではねたので裏切り者とされている
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観光の都合におもねって圧政を敷いていた会津藩の宣伝をそのまんま受け入れてる会津庶民はマジアホ。 >>86
戦国時代の武士は上はともかくとしても、
足軽とか下っ端はソマリアの民兵なんかとほとんど同レベルだしな。 原敬の汚職政治
改軌を潰して、とうほぐ赤字ローカル線建設推進など
とうほぐ政治家、とうほぐ官僚、とうほぐ軍人の害毒は凄まじい >>112
歴史はポジショントークの積み重ねですよ 行ってすぐ首だけになって帰ってくる使者とか
こいつらの人生なんやってんて思うよあな >>111
むしろ太平洋戦争は福岡の黒龍会とか薩長の末裔が満州でユーラシア利権を独占して覇権国家になろうとしたのが近因だろ?
岸信介が満州の母で、当の岸信介は後の首相になってる。
そして、東北出身の東條英機は処刑。 >>107
龍角散のCMは本人が出てたよな
ゴルフ行ったお陰でCM中止って書いてある
https://youtu.be/fR9vKVRQ2z8 >>54
鎮西藩藩主林忠崇「なかなかやりおる」
自ら脱藩して戊辰戦争を転戦した殿様かこいい >>104
会津から沿岸部に行くには白河や郡山通過しなきゃならんやんけ
手薄になった白河攻めるのは援護にはなるだろ >>55
真田信繁の子孫は伊達藩家臣で戊辰でも派手に一暴れしとるぞ。 >>58
宇和島は名前は伊達だけど早い段階で男児が無くて徳川光國の子供が養子に入ってるから実質は徳川の血筋。 >>59
当時の人も馬鹿じゃないからな。
時代の趨勢はわかってたでしょ。
でもいきなり薩摩長州に頭下げろやコラァ!て言われたら納得できんでしょ。
その後の立ち位置を有利にするための交渉が必要だった。
そうは言っても殺し合いしてまでやる?ていうのもありグダグダになった。 >>96
なら仙台が先祖の立ち位置に反して会津擁護に走った裏切り者だね
温度差というのは気候の話じゃなく同盟への熱の入れ方が違うということだよ
単に東北だからお前も賛成するのが当然というのは可怪しいと思うけどね >>86
そりゃ南北戦争のお古が流れてきてるからなあ。
大量殺戮時代の幕開け的兵器を揃えられたらそんなもんでしょ。
逆に数揃えても兵器を買う金がないし、補給もおぼつかない。
死人の数が山積みになるだけ。 >>130
有力外様故に生き残りの為に徳川の縁者と婚姻関係結んで来た歴史も有るんだがな。
伊達正宗や真田信之がただ長生きした訳じゃ無いんだぞ。死ぬに死ねなかったんだからな。 https://i.imgur.com/I6h2dwo.jpg
アホやな注目すべきはこっちやろ、間抜けは目の付け所がなぁ
黒砂糖ならまだしも白砂糖1トン弱渡してるのが面白い、幻の仙台糒も渡してるしな
道明寺糒くらいでしか現存してないし、糒も干しただけの米と思ってる間抜けしかいないしな まあ久保田と津軽を寝返らせた薩長の勝ち
中央から遠いとこは蝦夷地の労役や参勤交代の負担が高く幕府から見返りなんてなかったからな >>133
もっと後に、黒田清隆が榎本軍にマグロ2頭渡してるんだけど、どこで獲ったやつなんだろう >>58
宇和島藩は幕末四賢侯の伊達宗城の功績が大きいから 戊辰戦争に関しては、ガチ徳川の会津&庄内を除けば、「情報の差」に尽きるんだよね。
東北の太平洋側は歴史を通じて、西日本の正確な情勢が伝わるのが遅く、これでいつも辛酸を嘗める。
戊辰戦争の場合、仙台藩の碩学ブレーン大槻磐渓の脳内情勢が、
王政復古号令が発せられた段階になっても、まだ1860年ぐらいのままでアップデートされていなかった。
「未だにXPを使っていたので、脆弱性をつかれてボコボコにされた」というような話。
これがほとんど唯一の理由と考えていい。
秋田は日本海側だったので上方の情報が伝わりやすく、情報アップデートが迅速だった。
だから徳川に利なしと決断するのが容易だった。 自分が聞いた話の範囲で申し訳ないけれど、秋田藩が奥羽越列藩同盟を抜けて幕府や幕府側の諸藩と対立する道を取ったのは、秋田藩出身の国学者で神道学者の平田篤胤の影響が大きかったからだそうだ。
篤胤は尊皇を説いていたから、それに影響された秋田藩では尊皇運動が盛んになり、新政府側に着いたという話。
それに加えて迫る脅威、特にロシアの脅威に対抗するには日本を新たな体制にすべき、という考えもあったと。 >>140
戊辰戦争の影に隠れてるけど、勤王VS佐幕で内ゲバ状態になった藩は結構多いよ。
いち早く政府軍についた尾張藩も青松葉事件という佐幕派粛清事件が起きてる。 >>125
珍説だな
宇和島伊達家は途中で途絶えて
仙台伊達家から養子迎えてる
何処で水戸光圀の血が入るんだ?
高松藩以外に誰が入ったんだ??? >>140
通説では、もちろんそれで正解。100点満点。
ただ、18世紀末ぐらいから70年以上、伝統的にロシア研究が一番盛んだったのは、
ぶっちぎりで仙台藩で、その「開明的意識」が、幕末にはむしろ仇になってる点を考えれば、
秋田の郷土史としてはそれで正解でも、日本史全体としてみればやや違う話になるように思う。
>>141も指摘してくれてるけど、実際には国学の影響を被った藩は藩論が荒れる傾向が強い。
イデオロギー論争には常にまともな正解がないので、闘争のための闘争になってしまう。
秋田の藩論が比較的荒れなかったのは、
つまるところ、西日本のリアルタイムの情勢を的確に把握していたからなんじゃないかなあ。 >>123
逆だ
白河周辺で戦闘していたんだ
その敵が一部を棚倉方面へ向かったのだから本来なら
棚倉へ向かった敵軍を攻撃すべき
しかし会津藩は棚倉や湯長谷などを見殺しにしても
会津防衛の要である白河を取ることを優先した
会津を助けようとした海岸部の諸藩は会津から
恩を仇で返された事になる >>47
いちいち朝鮮人なんて言葉を使うなよ
糞サヨクの「ヒットラー」となんらかわらん 明治政府から唯一改易された
殿様自身が脱藩した
請西藩 政治同盟だったのに、仙台藩の急進派が新政府軍幹部を殺して秋田藩を引きずり込んだだけ
悪いのは仙台藩と米沢藩 戊辰戦争のちょっと前、
今の岩手県三陸海岸の領民達が、
南部盛岡藩のどうしようもないバカ殿に重税を課されて虐められるから、
数万人規模の一揆起こして、名君として有名だった隣の宮城の伊達藩の殿様にどうか助けてくれ、オラ達も伊達藩に入れてくれって陳情しに行ったんだよな
伊達藩に保護された一揆の参加者達は、南部盛岡藩との話し合いの末に、今後は重税を課さない、首謀者を処罰しないって協定結んだのに、首謀者達が故郷に帰ったら速攻で盛岡から刺客送られて惨殺された。 戊辰戦争は人気ないなあ
関ヶ原と同じく天下分け目なんやけどね
まだ時間が経ってなくて生々しいからか >>31
紀州は吉宗が八代将軍になったしご丁寧に御三卿まで創設してるだろ
十四代家茂も紀州の人間だし十五代慶喜も形式的には紀州系(一橋家) >>146
会津から白河を攻めてる会津藩がどうして白河を放置して棚倉に転戦するんだよ
退路断たれて終わりじゃねえか
それで沿岸諸般を見殺しにしたとか単なる結果論だろ 佐竹家が、インチキ源氏の徳川なんぞに忠義を尽くす義理はないしな。 >>124
ちょっと調べた
外国からじゃ無くてアメリカの船で津軽入りした、西館平馬という京都から来た人が情報で、悩んでいた津軽藩を官軍側に決めて、その後信頼回復や忠誠心のために野辺地に攻めたんだってさ
真田を持ってきたのは茶番の戦争をしたから、幸村じゃなく兄の信之の方だけど 福島原発を爆破したテロリスト連中の同族が何とNHK大河ドラマ
「八重の桜」の戊辰戦争で日本人同士を殺させてボロ儲けしていた!
戊辰戦争を振り返って見れば、偽ユダヤの英のロスチャイルド家と
仏のロスチャイルド家が二手に別れ、薩長倒幕勢力と江戸幕府の
両方を資金と武器で支援します。その後、両者を戦わせて、どちら
が勝っても支配権と利益を手に入れます。 その頃うちのご先祖が南部藩の使者切っちゃったみたいな話と槍?が家に伝わってるが
詳細は全く分からない 何気に盟主?の仙台と米沢もハシゴ外してるような気がするし、結構ひどいよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています