(前略)
ロシアと日本の公式な関係が初めて樹立されたのは1855年の下田条約(日露和親条約)によってである。この条約でイトゥルプ島(択捉島)、クナシル島(国後島)、
シコタン島(色丹島)と小クリル群島の島々(歯舞群島)が日本のものとなった。ほかのクリル諸島はロシアのものと認められ、サハリンは共有とされた。
1875年、両国は領土交換に関するサンクトペテルブルグ条約(樺太千島交換条約)を締結した。この条約に従って、ロシア帝国は日本にすべてのクリル諸島を渡し、
日本はサハリンを放棄した。
日露戦争後、クリル諸島全島に加えてサハリンの南半分が日本のものになった。
第二次世界大戦中の8月6日、米国は広島に原爆を投下。 その2日後の8日、ソ連は日本に対して宣戦布告した。翌9日、 長崎に原爆が投下された。
これにより日本は14日にポツダム宣言を受諾することになった。 同宣言の条項により、日本の主権は本州、九州、四国、北海道( および、連合国が決定する日本
列島の小さな島々)に限定された。 そしてソ連軍はクリル諸島とサハリンを占領した。
1951年、対ヒトラー連合国と日本の間に和平が結ばれた。そのサンフランシスコ条約に従って、日本はクリル諸島とサハリンに対する権利を放棄した。しかし、ソ連は、
日本が放棄するこれらの領土が誰のものになるのかが記されていなかったため、この条約に署名しなかった。
1956年になってやっと、ソ連と日本は戦争状態の終結と国交回復に関する宣言に署名した。ソ連は、平和条約が締結された場合に日本にシコタン島(色丹島)と
小クリル群島の島々(歯舞群島)を引き渡すことに同意した。しかし、1960年、日本はアメリカと安全保障条約を締結した。それに対して、ソ連は自らが負った義務を
取り消し、日本の領土から外国軍が撤退するよう要求した。
ペレストロイカが始まるまで、ソ連は領土問題の存在を認めていなかった。1990年代になってやっと、両国の対話が活発化した。しかし、今でも両国はコンセンサスに達することができないでいる。
(後略)
https://jp.sputniknews.com/opinion/201901305868786/