鉄道不信、遺族今も 余部鉄橋・列車転落事故32年 尼崎脱線、のぞみ台車亀裂に憤り
12/23(日) 17:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181223-00000018-kobenext-l28
事故現場に建てられた慰霊の観音像に手を合わす北村忠久さん。周辺の清掃を地元の遺族らと協力して続けている=兵庫県香美町香住区余部
 国鉄(現JR)の山陰線余部鉄橋(兵庫県香美町香住区余部)で、突風にあおられた回送列車が転落して6人が死亡した事故から、28日で32年となる。
事故を契機に、鉄橋は2010年にコンクリート橋に架け替えられた。現場の光景は様変わりし、痛ましい事故の記憶を知る住民も減っているが、遺族らは無念さや寂しさを今なお抱き続けている。(金海隆至)


 事故は1986(昭和61)年12月28日に発生。午後1時25分ごろ、回送列車の客車7両が鉄橋から転落し、真下にあったカニ加工工場を押しつぶした。作業中の地元の女性従業員5人と車掌1人が亡くなった。

 「玄関先で『行ってくるわ』『行ってらっしゃい』とあいさつを交わしたのが最後。普段と変わらない、いつも通りの朝でした」。妻加代子さん=当時(38)=を亡くした北村忠久さん(74)はそう振り返る。

 あの日、加代子さんは日曜で自宅にいたが、加工工場の同僚から大掃除の手伝いを電話で頼まれ、昼から出掛けた直後、事故に遭った。「妻から数歩離れた場所にいて、車両の下敷きにならずに命を失わなかった人もいる。紙一重の差だったそうです」と寂しさをかみしめるように話す。

 後に残された小学生の子ども3人を育てるために、北村さんは懸命に働いた。朝晩の食事を作り、勤め先の県漁業無線局では夜勤もこなした。「夜中に一番下の次男が熱を出したときはつらかった。上の娘が薬を飲ませてよく面倒をみてくれた」。その3人も結婚して家庭を築き、今では孫が7人になった。

 事故当日は、山口沖の漁船から「経験したことのない強風が吹いて転覆しそうになった。いかりを下ろして静まるのを待つ」と無線局に連絡が入ったのを覚えている。
「警報が2度作動したにもかかわらず、列車を止められなかったのは国鉄の判断ミス。明らかな人災だ」と憤りは消えない。