しかし、そもそも以蔵はなぜ勝の護衛をしていたのか。

 以蔵といえば、武市半平太のもとで「天誅」と称して暗殺を繰り返したと知られる。武市は土佐勤王党の領袖であり、
尊王攘夷運動に邁進していた。つまり、幕府とは対立関係にあった。にもかかわらず、文久3年(1863)以降、以蔵が
勝を護衛する任に就いたのは坂本龍馬の仲介だったのかもしれない。

 この頃、土佐勤王党による「天誅」はひと段落していた。ならば、暗殺を主たる任務としていた以蔵はもはや
役に立たない。以蔵はそんな武市の考えを敏感に感じ取り、自分の行く末を思い悩み始めたのではないか――とは、
歴史家であり、「龍馬伝」の時代考証を務めた山村竜也氏の見立てだ(『歴史街道』2010年4月号)。

 龍馬と以蔵は、巷間いわれるような幼馴染ではなかった。しかし、若い頃からの知り合いであったのは間違いない。
こうした背景から、以蔵は勝の護衛に就いたものと思われる。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181218-00010000-php_r-pol