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中国の歴史の本って2200年位前のが緻密に書いてて時代若くなればなるほどだらしなくなるよな
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0210名無しさん@涙目です。(兵庫県) [US]
垢版 |
2018/12/10(月) 19:59:13.41ID:Q+K/Df5o0
>>208
宋代から中華思想って存在するけど元はその辺特に影響受けなかったみたいよ
モンゴルはシナ制服以前に西域のイスラム国家を支配したから
シナ文化にさほど影響されなかったのだろう。
0211名無しさん@涙目です。(大阪府) [US]
垢版 |
2018/12/10(月) 20:25:43.78ID:w8T7Myqi0
中華思想を打ち破った人

武霊王(ぶれいおう、? - 紀元前295年、在位紀元前326年 - 紀元前298年)は、中国戦国時代の趙の君主。
姓は嬴。氏は趙。諱は雍(『史記索隠』に拠る)。粛侯の子。胡服騎射を取り入れて趙を軍事大国とした。

紀元前307年、野望を達成するための準備として胡服騎射を取り入れることを考える。それまでの中華世界
の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、戈による白兵戦を分担する戦車戦だった。それ
に対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていた。胡服騎射とは、この
遊牧民族の戦法を真似ようというものであった。当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着て
いた。乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡
服)を着る必要がある。
これを下問した所、肥義はすぐに賛成したが、武霊王の叔父の公子成はこれに反対した。中華思想が強く、
遊牧民を「蛮夷」と呼んで見下し、直接馬に乗る事を蛮行と見なしていた当時では、肥義のように賛成する者
の方が珍しく、公子成が反対したのも無理はなかった。しかし、武霊王は「かつて舜は有苗に舞ひ、禹は裸
国に袒ぐ」(舜は有苗の風習にあわせて踊り、禹は裸国の風習にあわせて服を脱いだ)と粘り強く説得を続け、
胡服騎射を取り入れることに成功した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%9C%8A%E7%8E%8B
0212名無しさん@涙目です。(庭) [NC]
垢版 |
2018/12/10(月) 21:32:56.56ID:jlF3/nmi0
>>133
校長より元気やな
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