中国の歴史の本って2200年位前のが緻密に書いてて時代若くなればなるほどだらしなくなるよな
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文革如きの焚書坑儒はずっとやって来た事だ
王朝が変わるとその前の王朝の官僚は家族親戚含めて全員死刑、書物は全て燃やされるのがデフォ
生ぬるいレベルであの国土は治められない
だがそれでも奇跡的に場所を移されて破壊を免れた書物が少数存在するだけの事 >>154
大和からみたら、あれはほぼ拒絶やぞw
5ch(2ch)住民はやたら嫌うが、
大和の日常に、どれだけ仏教が浸透してると思ってるんだ…
大和の場合、死者儀礼すべてにおいて「坊主が主役」なんだからな。
喪主・施主すら脇役。坊主の指示に従い所作を行うだけ。
墓も、寺の敷地内にワンルームのアパートみたいな形で割り当てられる。
管理者はあくまで寺。
あまりにも寺が介入しすぎなので、公営墓地が作られたりするけれど、
結局、公営墓地だって寺ごとにエリアを決めるところすらあって、寺の支配権は絶対。 >>154
この一度はちょっとずれているが
恐らくは部落開放同盟の人
沖縄に2000年頃に部落開放同盟那覇支部が出来てからこんな分断工作ばかりしている(´・ω・`) アウグスティヌスの著作とか翻訳が堅いのか元々難解なのか理解にすごい手間取る
そしてすぐ忘れる 電脳化はよ 部落開放同盟が沖縄に来てからグダグダだよな(´・ω・`) >>1
宝島社あたりの中国史のムック本を読んで何やら触発された俄馬鹿
言う事言う事が、薄っぺらいんだよ糞秋田 いやいや、K認定は、東京五輪反対のレスを繰り返した時にさんざっぱらされたから慣れてるが、
(でも俺のほうが正しいという絶対の自信があった。俺の反対理由は「開催期間の気候」ただ1つだったから)
そっちに認定されたのは初めてだわww
笑っちまったわい。
つうかさ、沖縄社会には家制度も檀家制度もないんだぜ?宗教的枠組みが全く違う。
葬式には、もし必要ならその時だけ任意で好きな坊主を呼んでくればいい。呼んでこなくても良い。
普通は懇意の坊主なんていないから、都市部では葬儀屋が手配してくれると思うけど。
これは台湾や中国の葬儀と同じ。
大和と沖縄が不可分に日本なのは、宗教ではなく言語が完全に同系統だから。
いくら琉球語の独立性ガーという言語学者でも、日本語と完全同系を否定する人はいない。 >>153
供養という言葉自体の意味の理解が分かっていない
養うという言葉で分かるだろうが
御世話をするというのが本来の意味だ
死んだ後にするようなものじゃないぞ
経典をそこそこかじってればすぐに分かる >>164
日本の檀家制度は戸籍管理を寺がやったからで宗教的意味は無いよ
中学辺りで習うだろ(´・ω・`) 中国史を理解せずに明治以前の日本史を勉強したところで何も見えてこない
そして今後三十年はアメリカと中国の歴史が現代史の中心 >>165
>>166
もうそんな奴に構うなよ
まともな議論ができる相手じゃない
それよりスレタイに合った中国史の話しようや
中国では時の権力者が書く正史っていうものが近現代でもかなり重要だったりする
中華民国政府が命じて編纂させた清史稿は何故か清朝が正統で民国を賊軍として書いたから発禁処分になった
で満州国を独立させたい日本が満州民族意識を鼓舞するために発禁になった清史稿を流布させる工作もやってる >>169
中国では権力で歪まずに正しく書こうとした史書が出てくるからその影響だろうね >>168
民族性では無くて中国は共産主義だから共産党が詐欺師なんだよ(´・ω・`) >>15
楚鉄が有名だった2400年前は
楚は海沿いだから海路から鉄器が楚国に入ったんだよね
或いは楚国の王族が中東から逃れた技術者集団だったかだな
楚国ではヨーロッパ系白人のミイラ化した遺体が出ている
因みに鉄器の国の楚国を滅ぼした秦国は青銅器の国(´・ω・`) 先進国の世界史で良く言う鉄器の出現で鉄器の国が青銅器の国を滅ぼしたと言うのは嘘なんだよね
実際は後進国の青銅器の国が先進国である鉄器の国を滅ぼしたのが本当の話
だがテストで書くとXになる不思議な世界(´・ω・`) >>164
部落開放同盟の大阪は反撃しろよ
沖縄の部落開放同盟那覇支部も大阪人だろ
大阪の為に反撃しろよ >>164
散々沖縄バッシングをしてきた
部落開放同盟の疑似右翼の人間の屑は反論も無く消えるのか?(´・ω・`) >>164
それとも沖縄のマスコミは朝日新聞と北朝鮮寄り共同通信が情報を検閲していると言うおごりがあるのか部落開放同盟は(´・ω・`) >>171
清朝を持ち上げることが正しいとも思わんけどw
それはそうと歴史上ほかにそんな正義漢がいたの? >>178
いや暇だから
釣ろうかと思って(´・ω・`) >>179
君は知っているだろうが
史記がそうだろ
権力に寄って歪まない様に書いたと最初に書かれている >>179
今の中国共産党は歴史では嘘を多く言い過ぎだな(´・ω・`) >>185
まあ文革で学校を襲って校長や教師を殺して食ったのが中国だからな(´・ω・`) >>179
大阪の部落開放同盟系沖縄バッシングの否定をしてくれよ(´・ω・`) >>179
お前もふざけるなよ
もっと書き込めよ(´・ω・`) >>179
お前は大阪出身の部落開放同盟の人間じゃないのか?(´・ω・`) >>182
文化大革命でみんなぶっ壊しちゃったからなw
焚書も盛大にやらかしてたし マスコミは沖縄に対する部落開放同盟の浸透を報道しろよ
何も報道していないだろ(´・ω・`) >>179
お前は部落開放同盟が沖縄に支部を作り活動したのを認めるべきでは?(´・ω・`) 嘗ては当然の嗜みであった和歌や漢詩がここ100年で完全に廃れた日本も他人事じゃないけどね >>179
お前ら二人は大阪の人間で部落開放同盟だろ
本当にふざけるなよ(´・ω・`) >>179
返事がないのはyesなの?(´・ω・`) 知恵の館もそうだけど昔の文献って都合悪いのが多いんだろうな >>199
権力に左右されずに書いた史書でも本人の思想で歪むのが確認されているからトータルで研究するしか無いよね(´・ω・`) 日本なんか性別もぐちゃぐちゃにされてるからな
なんで織田ノブナガが男やねん >>15
いまでもお前より頭のいい人間なんて腐るほどいるだろ、お前は日本にも居場所ないじゃん 中国に良いことわざが沢山あるけど、現代で活用されてるように見えない >>68
まあ実際そういうスタンスでやってきて、それが見事に成立してたからなあ >>181
春秋時代にこういうエピソードがあるな
董狐の筆
権勢を恐れずに真実を書くこと。
ありのままの歴史を書き記すこと。
出典は春秋左氏伝の宣公二年。
主君の霊公を殺した趙穿ちょうせんを正卿である趙盾ちょうとんが取り締まらなかったので、
史官であった董狐は趙盾を以て「其の君を弑しいす」と記述した故事。
ちなみに趙盾は当初「自分が殺したわけではない」と反論したが、董狐の記述した理由を聞
くと自分の罪として受け入れたという。
これを評して孔子は「董狐こそ古の良史であり、趙盾こそ古の良大夫である」と述べている。
http://www.kokin.rr-livelife.net/koto/koto_to/koto_to_8.html
「崔杼弑君」[編集]
「弑」は逆臣が王を殺すことを意味する。『春秋左氏伝』には崔杼が荘公を殺害したのち、斉
国の太史(歴史記録官)と崔杼の間にあった出来事についての簡潔な記述がある[1]。
太史書曰 崔杼弑其君 崔子殺之 其弟嗣書 而死者二人 其弟又書 乃舎之 南史氏聞太史
盡死 執簡以往 聞既書矣 乃還
— 春秋左氏伝 襄公二十五年
(太史が『崔杼、其の君を弑す』と事実を史書に書いたので、崔杼はこれを殺した。後をついだ
太史の弟も同じことを書いたので、二人目も殺された。しかし彼らの弟はまた同じことを書き、
とうとうこれを舎(ゆる)した。太史兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は『崔杼其の君を弑す』
と書いた竹簡を持って駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて帰った)
崔杼と太史たちの故事は中国人が歴史を記すという行為にかける執念を表す例としてしばしば
引き合いに出され、また荘公が殺された後の晏嬰の行動が、これも晏嬰の義に対する一途さの
逸話として良く語られるために、崔杼は単なる逆臣とされるにとどまらず、一層悪名が強調され
後々まで語られることになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E6%9D%BC >>179
学者連中が政治の中枢と闘った事件だと
三国志直前の党錮の禁なんかもあるで 中国を中国たらしめるのは中つ国を収める者こそこの世界の覇者という中華思想
先代の文化を幾ら滅ぼそうがこの思想だけは数千年変わらない
名前が変わろうが民族が変わろうが全部飲み込んできたんだからこれはこれで脈々と続く一つの国なんだよ >>208
だとすると時代遅れも甚だしいクソ迷惑な国ということになるな
今どき世界の覇者とか正気を疑うワードだろ >>208
宋代から中華思想って存在するけど元はその辺特に影響受けなかったみたいよ
モンゴルはシナ制服以前に西域のイスラム国家を支配したから
シナ文化にさほど影響されなかったのだろう。 中華思想を打ち破った人
武霊王(ぶれいおう、? - 紀元前295年、在位紀元前326年 - 紀元前298年)は、中国戦国時代の趙の君主。
姓は嬴。氏は趙。諱は雍(『史記索隠』に拠る)。粛侯の子。胡服騎射を取り入れて趙を軍事大国とした。
紀元前307年、野望を達成するための準備として胡服騎射を取り入れることを考える。それまでの中華世界
の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、戈による白兵戦を分担する戦車戦だった。それ
に対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていた。胡服騎射とは、この
遊牧民族の戦法を真似ようというものであった。当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着て
いた。乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡
服)を着る必要がある。
これを下問した所、肥義はすぐに賛成したが、武霊王の叔父の公子成はこれに反対した。中華思想が強く、
遊牧民を「蛮夷」と呼んで見下し、直接馬に乗る事を蛮行と見なしていた当時では、肥義のように賛成する者
の方が珍しく、公子成が反対したのも無理はなかった。しかし、武霊王は「かつて舜は有苗に舞ひ、禹は裸
国に袒ぐ」(舜は有苗の風習にあわせて踊り、禹は裸国の風習にあわせて服を脱いだ)と粘り強く説得を続け、
胡服騎射を取り入れることに成功した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%9C%8A%E7%8E%8B ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています