>>136
なかなか説明は難しいんだけど、デフォルメをかければ、基本はこんな感じだと思う。
・遺族が、故人の霊を哀れんで救おうと思うのが先祖供養
・遺族が、故人の霊にひれ伏して拝むのが祖先崇拝

意外なんだけど、少なくとも大和の仏教徒は、別に抽象的な祖先霊にひれ伏しているわけじゃない。
施餓鬼の宗教観念はずいぶん薄れたけど、それでも具体的な故人がイメージされる点は変わらない。
「あの世に行った具体的な故人」に、仏前や墓前で思いを馳せている。

だから、大和の年忌は基本的に死後34年(三十三回忌)で終わる。
これは、34年も経つと、普通の場合、故人の生前をよく知る遺族がいなくなってくるから。
「偲べなくなったら終わり」この意味で生者優先。


ただ、沖縄がどうかはわからない。
というのは、沖縄の祖先崇拝にどれだけ(儒教ではなく)道教が関わっているか俺はよくわからないから。
具体的な故人の「個別の行く末」にフォーカスを当てるのは、
儒教とはまったく異なるが、道教では普通に行われる。
道教を排斥した朝鮮では死者儀礼はすべて世俗でやるが、中華では葬儀や年忌に道士が呼ばれるのはこのため。
というか、東アジア仏教そのものが道教と混淆している。この点は全く否定しない。