柴田勝家、明智光秀の居場所がわからず右往左往と判明 専門家「なぜ秀吉は素早く動けたんだ…?」
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「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に
宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から
大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は
「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。
今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、
織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。
郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。
書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の
驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の
大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。
調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは
初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことが
うかがえます。
調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。
今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」
と話しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html そら毛利に放った使者が秀吉勢にとっつかまったからだろ むしろ京都に急いで行くのが柴田の役割でしょ
情報収集は行軍中に出来る 本能寺の変の時点で勝家は魚津城を落した直後
変を知って全力で引き返したけど近江辺りで山崎の合戦の結果を知ったんだったろ 新発田市は城下町のくせにまともな歴史資料館が一つも無い 官兵衛の「天下が取れるよ!やったね秀ちゃん!」が無ければ秀吉も似たようなもんだったと思う 家康も怪しいしなこの件
しかも家康には信長をやる理由はある
どっちかが黒幕だ
で、どっちが黒幕かで歴史解釈はかなり変わってくる 北陸と瀬戸内ってのも大きいんだろうな
郵便とEmailくらい伝達速度に差があるだろ 勝家ほどの重臣がお市を貰う前まで独身とかガチホモなの? 光秀「やったよ秀吉くん!え。。。秀吉くん。。。?嘘だろ?。。。」 秀吉の当時の居城は姫路だから上方の情報は北の庄の勝家とは比較にならんぐらい有利 でも居場所が掴めようが掴めまいが、それなりの軍容を整えるのにそりゃ時間はかかるよ
秀吉が異常だっただけで 秀吉「光秀いいぞー!じゃあ手筈通り俺が討ち取った事にするからしばらく隠れててねー」
光秀「はーい」
光秀「と、言うわけで全ては計画通りで御座います家康様...」 秀吉は小早川か吉川毛利勢に行くはずだった書状をゲットしてるから場所も状況も分かったんだよ
まさに天運 >>24
陰謀論がウソだとして
その書状が予定通り毛利に届いて
秀吉が挟み撃ちされてたら歴史がどう変わったか実に興味深い 頭が悪いくせにセオリーのみ重視して考えすぎて動かなかったのが裏目に出まくった人だよな もう室町以前の史料なんか新しく見つからんと思ってたが、色々出てくるんだな
家康が伊賀越にビビってたのとか、"ビビってる"ってことにしとかなきゃいけない理由があったとしか思えん
古参の服部保俊いるし、長男が伊賀治めてるしでほぼ自分の領地通るに等しいやんけ >>25
そもそも毛利は動かんでしょ
先に秀吉が同盟結んでるだろ?
あと、機内より九州の方が彼らにとって魅力的だったのは間違いない
後方の脅威が無くなれば、北側から九州制圧できるからな >>16
命がけで鬼のような織田信長を撃ったのに、
秀吉に裏切られたので、西軍を根絶やしにしようとした天海(明智光秀)。
そういう事だろうな >>30
小早川隆景の存在が
秀吉に勇気が足りないって言われてたが
彼に勇気があったら秀吉の命はない 明智光秀は色々有るよね
バックに天皇家がいた説(信長が飢饉の責任とって代替わりしろって迫ってた)
キリシタン説、秀吉説、公家説など盛りだくさん
普通に信長に着いて行けず謀反の可能性が高いけどな 当時の公家の日記にも「信長は殺されちゃうよ」ってのが色々残ってる
信長はそこら中で恨みかってたから当時色々噂が立ってたんだよ
まぁ面と向かって信長に「あんた殺されるって噂されてるよ」と言える人間はいないから、信長は知らなかったんだろうけど秀吉は知ってただろうな。 別に秀吉が本能寺の黒幕なんて話じゃなくて、秀吉ほどの諜報と、先読みに長けた人間なら「滝川は関東、柴田は北陸にそれぞれ織田家から大人数を割いて、自分の所にも
何万、さらに、光秀が大軍団を擁して、近畿に。で上様親子は少人数の護衛だけで京都にいる」って情勢下でさらに「光秀が上様に対して非常な憤りをもっている」という情勢を分析すれば「あっ、上様、王手だ。光秀がその気になれば親子ともどもお陀仏だ」
ぐらいの結論は出ていただろう。
秀吉にすれば光秀が信長討伐の決断をしないならそれはそれで良し、自分は粛々と毛利攻めを続けるだけ。ただ、万一、光秀が決断した場合(実際そうなった)は、即時対応できるように準備をしておけばいい。って事だったんじゃないかあ。
柴田勝家という人は諜報活動も政治活動も情勢分析も苦手だから、本能寺の変はね耳に水で本当にパニックになっただけでしょうね。
要するに本能寺の変は、秀吉にすれば「想定内」勝家にすれば「想定外」だったということね [ ::━◎]ノ 新発田駅前の定食屋の焼売がめちゃめちゃデカかった. >>31
普通はそうだよな
どんな手柄を挙げても、全領地取られ
「じゃ次アッチな」
の無限ループに耐えられる人間なんていないよ
「結局どこまやらねばならないのですか?」の疑問に
地球儀見せられたて
「生涯だぎゃ!」って言われたら普通はおかしくもなるよ
実際、占領政策とか面倒なこと全部部下にさせて、
美味しいところは全部、織田一族がもらってる
そういうとこは信長は思ったより古いタイプの大名なんだよな >>37
記録では発狂しかかってたからそれは無いだろ
官兵衛の「あーもうすぐのぶーの天下かー・・・え?あいつが死んだ?ふーん、おーい秀吉、天下取れるぞー」って発想がぶっ飛んでる
勝家と秀吉の差は人間じゃない思考パターン持ってるナンバー2を手に入れたかどうかの差だわ >>12
最近じゃ信康がとんでもないバカ息子で家康が信康に困って
新で貰ったとテレビでやってた。
んで新でもらう前に信長に相談したら、そうか好きにしろと言われただけとの話らしいぞ? >>21
上杉とやりあってたとこだから大軍率いてたよ
情報が取れてなくて遅れたのが主因 毛利と和睦折衝で仲介役の安国寺恵は先見力が凄まじく
信長終了と秀吉の躍進を予言してた
だからこそ毛利との和睦もスムーズに終え大返しも出来た
のちのち大名まで取立てたことでも安国寺恵瓊の秀吉与力は大きい >>45
その割には後の関ヶ原や大坂の陣の時に「(アホの秀忠じゃなく)信康が生きていれば
この老骨にムチを打ってわざわざ戦になんか行かなくてもいいのに」と愚痴ってたって記録が
あるらしいよ >今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか
秀吉陣営が、明智光秀の謀叛を予め知っていたから
秀吉はおそらくは知らなかっただろうが、確実に黒田官兵衛は知っていた
秀吉の中国大返しも、裁量したのは官兵衛で予め知っていたからこそ、不測の事態ではあるが、黒田官兵衛にとっては予測できていただろう事態に備える事が、可能だった
故に、秀吉は官兵衛を警戒し九州に飛ばした どこにいようがとりあえず姫路や尼崎ぐらいまでは帰ってくるだろ こういう資料ってまだまだあるもんだねえ。
戦災で焼けたりしなきゃもっとたくさん残ってたんだろうな 織田軍団は、信長直轄の将兵を、方面軍団長が寄騎として借りていくってシステムだったから
北陸や関東、四国方面、山陽・山陰地方などにあちこちに貸し出したら、信長・信忠親子を守る為の
将兵がほとんどいなくなった。信長という人はひどくケチで、将兵を遊ばせておくのを嫌ったから、
そうなったわけで、本能寺の変の三ヶ月前に、長年の敵だった武田を滅ぼして多少気が抜けていたのか・・ >>48
愚痴るのは仕方ないけど
当時の信康は自惚れてしまい、とんでもなかったらしい。
罪のない人を頃してしまったりとかそんなことしたら親はみっともなくてたまったもんじゃない。 >>35
知ってただろ。
信長は生涯で50回も暗殺されかけてるのに 信長の死によって甲斐信濃を獲れた家康も怪しいわ
まさに変の起こる前後、京大坂にいたわけだしな >>1
マジレスすると帰京ルートの問題。
北陸に展開する柴田勝家からすれば、明智光秀が京都にいるか本拠地坂本にいるか、あるいは安土城にいるかで進軍ルートは出発点から変わってしまう。
しかもそのルート全てが山道。抜け道は無いので途中で「やっぱ違いました」と言っても簡単にコース変更は出来ない。
例えルート変更出来ても、それは先行させている情報収集部隊と連絡が出来なくなるという事、
つまりルート変更すると益々正確な最新情報が手に入らなくなってしまうワケだ。
一方の秀吉はとりあえず自分の本拠地である姫路城までは同じルートで構わない。
秀吉のルート上は味方も多く兵が集めやすい状況で、わざわざ情報収集の為の部隊を先行させなくても、周辺の味方から勝手にドンドン情報が入ってくる。
それらの情報をシッカリ管理すれば明智光秀の現在地など簡単に分析できてしまうワケだ。
そもそも、彼らの戦っていた敵勢力、秀吉は毛利、柴田の相手は上杉景勝。
この二勢力からしても、その情報収集能力には大きな差があったハズ。
毛利側は以前同盟を結んでいた本願寺や京都に派遣していた政治僧・安国寺恵瓊、その他瀬戸内の海開運業者から織田家の正確な戦力を把握できていただろう。
だからこそ、本能寺の変をキッカケに一気に和平に舵を切ろうと思えたのだ。
このまま戦い続けてもいつか力負け、経済力負けするのはかなり前から判っていて、
何らかのキッカケで織田と和平し、その軍門に降るのもやむ無しとタイミングを計っていたのだろう。
一方の上杉は柴田軍の戦力は判っていただろうが、その後ろの織田家の総戦力は正確には把握していなかっただろう。
柴田勝家がかなり陰湿な陰謀戦を仕掛けてきたせいもあり徹底抗戦、勝たなければ武田家同様玉砕。
これが上杉の方針だったハズ。
実際、本能寺の変後、滝川一益が撤退すると対柴田戦線を放ったらかしてスグに北関東に進出している。
織田(柴田勝家)と和平という選択肢は全く考えていない動きだ。
当時の日本では西と東、海沿いと山向こうでは情報収集能力に大きな差があったというのが真相だろう。 家康、秀吉、光秀のコラボ
信長がなぜ本能寺にいたのか?
秀吉早すぎ、家康お忍びで堺?
光秀何者かに殺害で天海登場、家光の乳母にお福とおかしなことばかり
唯一の誤算は淀が秀頼ご懐妊で秀吉〜家康へのバトンが狂った。 突き詰めると「光秀の悩乱による単独犯行説」と「綿密な計画に裏付けされた光秀と協力者による複数犯行説」
って事に集約されるのかなあ。 戦国時代は資料が少ないからな
一級史料の信長公記も秀吉が作らせた物だし秀吉の意図を反映して書かせてるはず
こんな感じでどこかで眠ってる手紙やらを見つけていけば正確な歴史がわかるかも知れない >>48>>45
どっちも間違ってない。
秀忠は関ヶ原21歳で初陣という当時としてはあり得ないぐらいの戦争オンチ、しかも小勢の真田に負けた挙句に大遅刻。
記録には残っていないが、近年調べられた秀忠の遺骨には大腿骨にまで達する傷があったそうだ。
おそらく生死に関わる重傷だったハズ。しかし秀忠が参加した戦争は関ヶ原と大阪冬の陣夏の陣の3つのみ。
つまりそのどらかでその傷を負ったワケで、怪しいのは大遅刻した挙句に1ヶ月以上家康に面会謝絶された関ヶ原だろう。
遅刻も面会謝絶も怪我の治療期間だったワケだ。
真田昌幸が許されなかった理由もソレだと考えれば納得がいく。
家康がボヤく理由もわかるだろう。
一方の信康は気が強すぎてよく家康に逆らった。
ある時、信康に与えていた岡崎城内で家康と信康は大ゲンカをした。
信康は怒って城を出て行ってしまい、家康は慌てて自分の城から大軍勢を呼び寄せて岡崎城を警備させた。
つまり信康が急襲してくる可能性があったワケだ。
それぐらい家康と長男・信康との関係は悪化していた。
しかも親子の不仲の原因、信康の母・築山殿は既に武田に内通済み。
信康は織田信長との同盟を維持するには邪魔な存在になっていたのは事実だろう。
それでも家康は信康を死なせなくはなかった。
信康切腹の最終的な原因になった酒井忠次が、晩年家康に
「自分もそろそろ寿命で、子供達に財産を残したいので領地を増やして欲しい」
と願いでたトコロ
「オマエでも子は可愛いか」と家康に恨み言を言われたという。 勝家はどの創作物でも脳筋なせいで情報戦に疎いイメージしかない >>68
秀忠は1579年生まれだから
戦争がなかった
朝鮮は徳川戦ってないし >>51
しかも信長を呼んだ理由は「敵城の水攻め」を見せたいから。
この意味と価値を一番理解していたのは明智光秀だっただろう。
明智光秀は信長から「秀吉の水攻め見に行くわ。オマエも来い」と言われた時、
『織田家中における秀吉との出世争いに完敗した』コトを確信した事だろう。 光秀が実行犯で、秀吉がサウジの王子でって感じですか? まあ今みたいに電話があるわけじゃないから
人に聞くしかなかったわけだよな >>25
宇喜多直家が抑えに居たからそれなりに時間は掛かると思う >>73
>>74
グルなら直接対決のときにでも、明智光秀が裏切者と責めてると思うんだけど
それに、細川らを味方につけるとき、秀吉も仲間だと言いふらすと思うんだけど
何で柴田と秀吉の能力・勢力の差だと思えないの? 柴田勝家…脳筋、勇猛だが突撃馬鹿
羽柴秀吉…情報戦に強い
そんなわけでゴリラのような男に力ずくで蹂躙されるのが夢だったお市の方は
勝家の嫁になり、初めて性の悦びを知ったという そもそもの話、仮に間に合ったとして柴田勝家って明智光秀に勝てたの? 秀吉黒幕なら同時代でもっと世相に反映されるだろう
それにちょっとでも疑いがあったのなら大義名分にこだわる家康がそれを利用しない手はない
方広寺みたいないいがかりこさえるよかよっぽど宣伝になる >>81
多少の時間があれば勝てたよ。上杉への抑えを残しても3万は自力で動員出来たし畿内の織田方を動かせば5万は動員できたはず。明智は動員してもせいぜい2万足らず。秀吉の中国大返しは当時の動員や補給の常識を覆したから可能だった >秀吉の大返し
秀吉は若い時からそういう人がびっくりすることをやってのけるのが
好きだったからな・・だからそんなに驚かない・・ なんだかんだで柴田勝家は古いタイプだよな、本能寺が突発的すぎるのと秀吉が柔軟すぎたのかもしれんけど。 信忠がいた 二条新御所に皇太子誠仁親王がいたのも逃げるタイミングを無くしたと思うが >>81
「間に合う」の前提をどこにおくか?によるけど
秀吉の前に勝家が光秀と対峙したとすれば 織田軍vs明智軍の構図になるから万が一にも光秀に勝ち目はないかと… >>33
天下を取りたかっただけだと思う
チャンスだったし >>23
面白いけど官兵衛がいてそこまで自由に動けるかな?その可能性踏まえて自由を奪いそうだけど
そこ見越して官兵衛を隠居させたなら家康の勝ちだけど 信長は天皇制を廃止しようとしてたからな。秀吉も家康も天皇制廃止は一切考えていなかった。全員グルだった。 >>93
天皇にはかなり気を使ってる信長
足利義満なんてどうなるんだw 黒幕が秀吉というのはあり得ないよ
当時光秀は秀吉の最大のライバルで、もし光秀の謀反が成功して権力を掌握できていたとしたら、もっとも窮地に陥るのは他ならぬ秀吉だから
しかも光秀は秀吉の織田家中におけるライバルだったけど、信長が常に傍に置いて重要な内政事業を任せていた光秀に対し、実力を評価してはいたが常に遠隔地の遠征に出されていた秀吉では、
力量の評価はともかく信長の信頼という点では光秀のほうがより信長から信頼されていたことは間違いない
その光秀を秀吉がコントロールできるわけが無い
秀吉にとってはリスクが大きすぎるし、光秀には何のメリットも無いのだから 本能寺が京都で勝家が福井、長秀が大阪
こいつらすぐ行けるのになんで秀吉に先越されてんの
勝家は上杉と対峙してたのかもしれんが長秀フリーじゃん ただたんに秀吉のほうが勝家よりは情報収集能力に優れていたってだけでしょ
勝家は猛将タイプだし仕方ない
秀吉も京に近づくにしたがって行進速度が極端に遅くなってたはずだが
秀吉とて情報収集しながら進んでいたんだよ この資料をもって秀吉が黒幕だと疑うような論調にもって行こうとするのは強引過ぎるし明らかにわざとやってるレベルのミスリードだわ
秀吉を黒幕に仕立て上げたい勢力が居るとしか思えないな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています