Sはサディスト、Mはマゾヒストの頭文字をとって使われている。
究極のSは究極のMである。「究極の」まで行くと少し怖いように思えるかもしれないが究極のSは優しいから心配はない。
究極のSは相手の気持ちをよく考える想像力が強い。Sというのは相手の気持ちも考えずに、好き勝手にS的なことをするというイメージが強うそうだがそれではまだSの味見程度しかできていない。
究極のSというのは想像力が抜群に良い。相手がこんなことをされたらどんな気持ちになるのか、これをハッキリとイメージできる。ハッキリとイメージができることで
相手の気持ちも考えずにやってる味見程度のSよりも、快感度というかリアル感が半端じゃなく実感できる。
究極のSはMの気持ちがハッキリと手に取るようにわかる。相手はここまで求めているとか、ここでこういうギャップを作ったら喜ぶだろうとかそういうのがリアルにわかる。それが震えるほど楽しいのです。
だから究極のSはそのrealisticを十分に楽しめるし、相手のことを考えているから相手も十分に満足できるのである。味見程度のSは相手の気持ちもよく想像できず、自分勝手にやってしまうから震えるようなリアル感も味わえず
相手がまったく求めてない余計なことまでしてしまうので、相手も期待はずれな気持ちになってしまい満足感は多く見積もっても究極のSの100分の1くらいしか味わえない。
究極のSはS的なことをした後に必ず優しく包み込んであげる。そして、またS的→優しさ→S的→優しさといった具合でギャップを作る。それがあることで相手も楽しめるのだ。
要するに、「え!?」というビックリを感じさせてあげなければならない。そこでギャップは必要なのです。究極のSというのはそういったコントロールができる人である。また、究極のSというのは、
恐ろしいことに相手の気持ちをハッキリと想像できてしまうため、自分自身も究極のMになれる。究極のMの気持ちがわかってしまうが故に究極のMにもなれてしまうのである。しかし、
Mは、いくらドMでも究極のSにはなることが出来ない。S的なことをされる側のMは自分からは何もしないからである。だから、自分は悪いことをしていない、全く罪悪感が残らない側であり、
自分は何もしなくても相手が勝手にやってくれるという気持ちでいて、相手の気持ちを考える努力をしないのでMは究極のSには残念ながらなれません。ましてそういうバカなMやらドMやらはS側が今どれだけ自分の気持ちを考えながら、
S的な行為をしてくれているかなんて微塵も考えていない。やつらは所詮、あなたは私をペットにしたいだけでしょ?くらいにしか思っていない。MやドMには受け取るばかりで与える精神性は持ち合わせていない。
中途半端なSはバカなのだけれども、究極のSはというものは優秀なのです。つまり究極のSというのはすべての行為を自分の手の中で思い通りにコントロールできる
超優秀な人間なのである。
書き手おちんちん
ソース
https://www.nna.jp/news/show/1798803