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鎌倉幕府を興した源頼朝の異母弟である源義経は、父・義朝が平治の乱(1159〜60年)で殺害されたため、幼少期から逃亡生活を送った。
一時は京都の鞍馬寺に預けられていたが、僧になることを拒否して出奔。元服後には奥州藤原氏の3代・秀衡(ひでひら)の庇護(ひご)を受けて平泉で暮らした。
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1180年、流罪となっていた頼朝が平氏(へいし)打倒の兵を挙げると、義経は平泉から兄の元へ駆けつける。
本拠地の鎌倉で地盤固めに専念する兄の代わりに最前線で活躍し、壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏を滅亡させるなど軍功を上げた。
しかし、頼朝の許可を得ずに朝廷から官位を受けたことなどで怒りを買う。
義経は再び秀衡を頼り、平泉へと落ち延びた。
義経が秀衡から与えられた居館「衣川館(ころもがわのたち)」は、北上川に面した丘陵「高館(たかだち)」にあったといわれる。
1187年、秀衡は「源義経を大将とし、息子たちは力を合わせて源頼朝と戦いなさい」という言葉を残し、この世を去った。
しかし、その遺言が守られることはなかった。1189年、頼朝からの圧力に耐えられなくなった4代・泰衡(やすひら)は、この地で義経を襲撃し、妻子とともに自害に追い込んだ。
恭順の意を見せた奥州藤原氏だったが、頼朝の大軍が押し寄せた奥州合戦によって、同年に滅亡している。