戦時中の人って何を食べてたの?
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うちのトーチャンは陸軍の兵隊で行ってて
班長に気に入られて流水で冷した野菜をよく食わせてもらったらしい 家の農作物食ってたってばあちゃんから聞いた
近所とかに分けてたって 戦時中は塩、味噌、醤油とか調味料類は満足するくらいあったんかな? >>264
味噌・醤油は原料の大豆がすでに不足していたし塩も不足し始めていて20年秋
以降は家畜の斃死が始まると予測されていた。 ナニが配給されるかだな
サツマイモ、かぼちゃ、とうもろこしは喰い飽きた
今でも天ぷらにサツマイモとかぼちゃがあると避けてしまうわ
ザラメ(茶色の砂糖)や小麦粉が配給になると
カルメ焼き機やパン焼き機が流行った
学校の給食はアメリカから援助の小麦粉と脱脂粉乳 東北の米農家は百円札の札束たっぷりと持っていた
前の晩から並んで満員の汽車にやっとこさ乗って
延々歩いて米を売ってもらって
皆んなにコメのご飯を食べさせることを思い浮かべて
降りる駅の近くで警察の検閲に会い
コメ全部を有無を言わさず取り上げられて
お腹すかしてやせ衰えた子供たちに泣いて謝ったお母さんのコメは
警察のなかで分けられ帰りはニコニコと帰っていく
警察官官僚の姿がありました >>98
日本の国土は10本の指に入るほど広いんだが何言ってんだ?
単純に重工業偏重で農業政策がしょぼいだけ チョンはコーリャンを食ってた。
ジャポニカ米が食えるようになったのは日韓併合から 出兵して現地で食うもん無いから野草とか人肉食ったとよ。
そんな爺さんだから
生前は小さいながらもスズメバチの巣に
キンチョールスプレー持って特攻。
片手で穴にティッシュ詰めて、もぎ取った後レンジでチンにしてた。
俺には出兵で弾ごめ係やってたと話してたが
間違いなく前線で撃ちまくってる。 スズメバチの巣に特攻したの見て
爺さん頭大丈夫か?と当時は思ったが
一段落して電子レンジ見たらスズメバチの巣が入ってるから再度ビビッた。
蜂の巣をレンジでチンとか常人の発想じゃない。 最近俺も思うが、不幸は人を狂気に導く。
爺さんは戦争を経験してネジが一本外れてたと思う。 うちの親は畑に捨ててある小さいさつまいもをもらって来てたらしい。あとは麦飯だって。
靴も無いから下駄を履いてたってさ。 戦争中のほうが豊かだった
樺太から引き揚げてきてからが地獄だった 母方の婆さんは満州まで行って
タイプライターのタイピングして収入得ていた。
当時はちょっとしたスキルだったみたいだ。
引き上げの際はロシアが来るから自決用の短刀渡されたらしい。
とりあえず何事も無く帰国した。
食生活までは聞いていない。 大根をね、「これは梨。これは梨。これは梨」と自己暗示かけて食うと意外に美味いんだぞって、それが父の教えです なしか
鳥取の親戚からナシ送られるけど
多すぎてもういらねで送られてきてもよそに配ってるなぁ
ナシですらそうなったし、蒸かしただけのうまくもない芋とかそりゃ食いたくなくなるか >>22
芋系のスイーツを期間限定で出したら
「戦後を思い出しました…」って投書が来て皆困惑した思い出 芋と麦飯
爺ちゃんと飯食いに行って麦飯とろろ頼むとガチギレされるから気をつけろよ >>290
ヤカンでお湯湧いて蓋がカタカタ鳴ると、敵の銃声だと勘違いする爺さんの話小学校の国語の教科書似合った気がする 戦時中はまだよかった
敗戦から数年後、兵隊が引き上げてきてから飢餓地獄になった 亡くなった爺さんが戦時中は満州にいたらしいが、そのときの記憶について親族の誰にも喋っていないんだ。
小学生の頃の宿題で年寄りから戦争の記憶についてまとめた作文を書けと言われたけど、なにも書くことがなくて困った。 ウチの死んだ婆ちゃんは田舎の生まれで戦争時は疎開してたらしいけど
食べ物にはそんなに困ってなかったってよ
むしろ戦争終わってからが大変だったと
空襲のときに嫁ぎ先の家の方が空襲されてたのを見て「あ〜よう燃えてるわ〜」
って思ってまだ赤ん坊の親父を抱きながら見てたって
やっぱあの世代は強いわ 民間人の事なら普通に食ってただろ
単に配給制だったから、余剰な食品は無かっただろうけど
前線で兵站が破綻した戦線にいた軍人さん達は大変だっただろうけど、ちゃんと兵站が生きてた戦線なら、終戦まで飯の問題は無かったみたいだよ 爺ちゃん90過ぎてまだ生きてるけど戦中戦後の辛い話あんまり聞いたことないな
編成地で機銃掃射にあったって話くらいか
どこか派遣される前に終戦して命拾い
食事も割と食えてて拍子抜けした記憶がある
元気なうちにもっと聞いとかんとな >>304
昭和20年にもなると都市部ではマトモな配給なんてめったに無くて
その日は米の配給のはずが一人芋2個とか下手するとなかったり
あと、配給だけじゃどう考えても栄養不足カロリー不足だったから他に食料調達してた状態 NHKの「ドキュメント太平洋戦争」で俺が驚いたのは
昭和19年までドイツ国民は戦前と同じカロリーを
摂取していたというんだよ。
それでもドイツは負けたのに、国民にサツマイモや
カボチャばかり食わせて戦争していた
日本の軍部や政府は何を考えていたんだろうね。 火垂るの墓で飢えてるのって一部の話だって理解してない人多いな 戦中戦後でも田舎の方は普通に飯食ってたよ
当たり前の話だけど
ときどき都市部の人がやってきて高値で食い物買っていってたけど
疎開もできず都市部に残ってた貧乏な一般人はだいぶ苦労してたみたいだな >>300
おれの親父も満州(奉天)にいたって言ってた 寒くて外で兵隊が死んでたって事しか話してくれなかった 戦後うん十年経って、戦争より長い期間戦争時は食べ物がなかったと言って無理やり嫌な物を給食で食わされた思い出 >>52
お粥に刻んだ大根入れてるだけだから全く低糖質じゃない >>319
不味そうだな…
レンコンみたいな味がしそうだ 第二次世界大戦中の本土のアメリカ人ってどんな生活してたんだろ 戦場の最前線でアイスクリーム食ってるくらいだから推して知るべし 配給でもらった、油を搾った後の大豆カス食べていたと聞いた。 >>308
都市部以外は普通にたらふく食ってたが? あと、ばあ様は配給で一人1/4の林檎もらうのに半日並んだとか >>322
砂糖は前線の兵士優先とされたので国内では甘味が不足していた。 当時、京大で科学を学んでいた知り合の爺様は
兵役を免除され、実験室でサッカリンを合成し、料亭に売り歩いていた。
893に目をつけられ、やめたと言っていた。 サツマイモは良く聞いたな 今は亡き婆ちゃんが終戦記念日にすいとん作ってたなぁ
もう何年もすいとん食べてないわ チーズ一切れビスケット3枚 湯だけはたっぷりと飲む 当時の日本の野菜がうまくて戦後アメリカ人がビックリしたらしい。
さらに肥料が人間の人糞&人尿と聞いて二度ビックリ
そして嘔吐&気絶w
日本の農民が一矢報いてくれたなw >>48
ムツゴロウさんが東大の寮で飼ってた犬食われた話か? 戦後すぐウンコを運ぶことで東京の衛生の危機と経営危機を乗り越えたのが西武鉄道である。 百姓だけどばあちゃんが若い頃は家に農作業手伝う人が何人もいたから裕福ではなかったみたいだけど食べ物に困ったって話は聞かなかったな
作物は育てれば良いだけだけど物はお金で買うしかないからそれは困ってたみたいだ
頭のいい人だったけど金の問題と兄弟多すぎたから女学校にも入れて貰えなかったって死ぬまで親を恨んでたな >>22
うちのかあちゃんも未だにサツマイモは食わないわ
あんなもんは金出して食うもんじゃないだと 食料が足りなかったのは都市部だけだってよ
山梨の疎開先にはたくさん食べ物があったとうちのばあさんが言っていた 大阪と京都の中間辺りでは祖母曰く戦後の方が数段キツかったらしい 死んだバアさんが、戦時中はよく食べたと言って、スイトンを作ってくれたことがあるが、
不味くてとても食えたものでは無かった。 このスレで爺さんがネットを使いこなしてるのが面白い でも、当時の貴重な意見は聞けるからな いいんじゃなーの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています