戦時中の人って何を食べてたの?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
米は供出してたんで食えなかったが、農村部は芋やら豆やら食うものは豊富だったらしい。 大根めしって響きは美味そうだけど実際毎日はキツいんだろうな いやさ。
京都が戦火に包まれたのって、応仁の乱だろ?
京都の戦争孤児なら・・・。 >>4
うちは小作も十分米食えていた
米以外のうちで作っていないものは手に入らんかった
田螺とか泥鰌、カエルばかり毎日食っていたな 欲しがりませんカツまではだからカツ意外の物は大抵食ってたよ カエルの唐揚げとかご馳走やん?
居酒屋で食ったら普通に美味かったわ( ^ω^ ) サツマイモとかカボチャとか
あとそこらへんの草の茎とかな
そのせいで今でもサツマイモは見たくないって年寄りもいるんやで 砂糖の配給なんてレアだったからイナゴの甘露煮が神がかってうまく感じた 実際のところ地方の人間ってそんなにひもじくなかったんよ
そりゃ農作物を兵隊用として搾取されてたから平時とは異なるけどね
戦後の食糧難も基本大都市だけの話で地方の人間はそういう新聞記事を見て
「大都市の奴ら大変だな、コッチに来れば腹いっぱい食べさせてやれるのに・・・」と心配してた
今と違って流通が全然ダメだったから、恵まれない奴らに農作物贈ろうとしても物理的に無理 今みたいな
「はい勝手に山入ったー逮捕」
「はい勝手に魚釣ったー逮捕」
ってのがなければ米なくても食うには食えるんじゃね >>1
オマエら便所盗撮サイト乱立してるヌケサクシナチ●ン犯罪者集団は人糞食ってたんだろ
今とかわらんな 火垂るの墓とかあれ絶対魚獲って食ってたら死なんかったよな(´・ω・`) >>35
妹の死因は主に病気によるもの
兄は妹の死で生きる気がなくなっただけ 川魚、ウナギやスッポンを獲っても売って金にして、
鯉、鮒、タイワンドジョウ食ってたと聞いたな 戦時中ではないが戦後すぐ、学校から帰ると俺の可愛がっていた犬が近所の借家に皮だけぶら下がって乾かされていた
家にあった刀持って殴り込んだが追いかけてきた爺ちゃんに『こんなご時世だからしょうがない、人の家についてはいったあいつがわるい」って諭された
四年生の俺には刀が重すぎてそのままやっていてら俺が殺されていただろうな >>11
今なら低糖質ダイエットとしてまんさんに流行りそう >>49
ええええええええええええええええええええ 芋と大根じゃね?火垂るの墓でどっちか盗んでなかったか? 【1日のアルコール摂取量の目安】
・清酒:1合
・ビール:500ml缶1本
・ワイン:1/4本
・焼酎:0.6合(110ml)
・チューハイ:1.5缶(520ml)
・ウイスキー:ダブル1杯
↑これ絶対合計する奴がいる おいもはたいせつな主食物!
これまで おかずやおやつとしてたべて来たおいもは、お米にまけない大切な主食物です 戦時中:小麦や芋なんて貧乏人の飯!米食いたい!
現代:パンウマー、ラーメンウマー、蒸かし芋ウマー、米飽きたわ 祖母の話では
「戦時中は配給きちんとあるからまだよかった
弱ったのは戦後の欠配(多分片山政権)」 >>43
あの妹って栄養失調で亡くなったんじゃなかったの?ずっとそう思ってたわ あのアメリカですら砂糖不足だったんだぜい
その反動で戦後にシリアルにめちゃめちゃ砂糖かけて食っちゃってたしw 彼岸花の根っこを毒抜きしてデンプンにして食ってたとかも聞いたな 疎開先の田舎ではマクドナルドで三食を済ますなど劣悪な食糧事情が マジレスすると、米はもう戦地の兵隊さんに送る為、なかなか配給でしか手に入らなかったらしい。芋とかひえとかとうもろこしの粉とかを
主食とするときこれを「代用食」といった。かぼちゃなんかは畑で出来るつるの2番目の実いわゆる”うらなり”までありがたく
食べた。子供は川や山で食べられるカエルや希にウナギ等もとって食卓に上ったらしい。(今だと密漁だな)
父から聞いた話だけど ビーフストロガノフだって
死んだじいちゃんの友達の親戚の隣の家の娘のお婿さんがOBに聞いたって ちょっとの米に食える雑草混ぜて増やして食ってたんだろうな、ってのは想像出来るけど
魚とかタンパク源はどうしてたんだろう 農家なら庭に鶏小屋があるけど市内はどうしてたんだろうな 祖母の話では
「戦時中は配給はひとり当たり二合三勺(しゃく)
少ないけどきちんとあった」
3人家族だと一日7合(!)もあったが昔はおかずが少なくそれでも足りなかったそうだ >>43
ラストシーンでビルが浮き上がってくる演出は、「こういう悲しみを乗り越えた人たちによって日本は再生した」ってことの暗示だから兄貴のほうは生きてそれなりに大成したのだとオレは解釈してたが。。
野坂昭如の自伝的作品だし >>63
確か、どこかの工場からのガスだか化学物質だかでやられてたとか検証なかったっけ?
にげてるシーンで目が痒いみたいなとこあってそれがどうこう…みたいな… 太平洋戦争始まった頃はみんな普通に暮らしてたのに、ほんの数年で極貧生活に叩きこまれるんやで >>63
下痢してたし赤痢かなんかの感染症かと思ったけど。 爺さん婆さんの話だと食料自体よりも、煮炊きの燃料となる薪の確保が大変だったらしい
田舎だから山へ行けば調達可能だったそうだが、運搬するのに苦労したとの事だ 戦後の片山内閣は配給を一人当たり3合にすると息巻いて
それならやらしてみようと内閣作らせたが
遅配・欠配が相次ぎ玉蜀黍の粉、豆滓、が主食として配給される始末
いまも昔もヒダリは人を餓えさせる
「何を食べてたの?」はむしろこの時期だろう
祖母の父親もこの時期に始めて闇市に買い出しに出た
違法だから闇やらずに判事が飢え死にしたのもこの時期 >>24
茂吉の実家だか親戚だかの山形の農家で(かみのやま?)
北杜夫が白米の飯がうますぎてうますぎて、
それをしつこく日記に書いてるのを
後の北杜夫自身が「よほどうまかったものと見える」
と書いてたな
青春期だったかな バッタとかセミは焼くだけで今食っても結構美味いぞ
野草とかもあるだろうし、戦時中に餓死しそうになってる描写とか見てもあまり理解出来ない >>73
野坂昭如「ウソだと思うだろうけど、全部本当の作り話」 93年ぐらいの米騒動のときも年寄りほど白米に執着してた印象だな イモだろ
死んだうちの婆ちゃんがもう食べたくない言ってた気がするわ 冬は厳しいんじゃね
夏は獲って食うもんは幾らでもあるだろって感じ ばーちゃん干し柿大好きだけど多分戦時中にあんだけ甘いのは貴重だったから 戦後はピーマン食ってたって。
チコちゃんでやってた。 結局日本は、小さな島国で輸出入が止まればこうなることは今も同じ。
だから、よほどの覚悟がないと「戦争」に踏み切れない。兵隊だけでなく国全体が戦うことになるのだ。
だからこそ「戦争しないため」には、武器を持たないのではなく、敵がこちらを攻められない状況を常に作り出す必要がある。
こちらから仕掛けるようなことは愚の極みだって昔の人だってわかってたのさ >>22
ウチの1945年ギリギリ戦中生まれのジジィも豆芋類を貧乏くさいと言って異様に嫌ってたな
子供の頃、何で芋が貧乏くさいのか謎すぎたがそういうトラウマ的な理由もあるのかね
今は健康の為に仕方なく食っている感じだが >>1
よおこの手の話で昭和天皇は天ぷら食べてたゆうてイキッてる子おるけど天ぷらぐらい士族のじいさん家庭でもたべたはったからwwwwwww
さすがに今みたいなエビカニ魚シラコメインちごて野菜中心 やったみたいやけどwwwwwwwウケルwwwwwww 当時のサツマイモって農林1号とかいう品種で、生産効率優先で味は非常に不味く
戦後に普及した甘くてホクホクしてる優良品種とはまるで別物だったそうだね ほとんど芋ばっか食ってるアフリカの原住民もいるんだから大丈夫じゃね 米なんか大事にしても緊急時には役に立たない
植えて半年待たなければ食料にならん
日本人はそういう時はいつもサツマイモ
米なんか全部輸入でいい
農地は太陽光発電にして
いざとなったらそれどけてイモ植える >>87
親父の実家がその近所だけど
都会の人間が高級な反物とかを持ってきて米と交換を要求されたんだけど
みんな価値がわからなくて、とりあえず米俵持って行って貰ってたみたい
結構みんな無造作に反物を使いまくってたら、後で金持ち達から「貴重品をモンペにすんじゃねー」とか罵られたそうだよ >>99
麦飯も貧乏くさいと言って嫌うな
牛タンには麦トロだろうが >>90
今と違って情報ないからなあ
何が食べられて何が食べられないのかなんて
地域に伝わってるとか新聞ラジオで教えてもらわないとわからないだろ
食べられる虫かとか食べられるキノコかとか >>73
野坂昭如の娘が学校で火垂るの墓の感想文で「作者はどういう気持でこの作品を
書いたのでしょう?」という宿題を貰って父親に聞いたら「締め切りに追われてヒイヒイ
言いながら書いた」というのでその通りに書いたら先生に?を貰った。
これは野坂本人がテレビ番組で語ったことだけど野坂の性格を考えると真意は・・・w >>24
それな
東京山の手に住んでた大正生まれの祖母は、着物と物々交換しに汽車に何度も乗った、って言ってたわ
父親が海軍省の軍医だったけど、配給じゃ全然足りなかつたって
だから、戦前戦中戦後生まれの娘いたけど、戦中生まれが一番身体小さかった そういえば、藤村俊二の疎開の話が面白かった
親父は徴兵検査の度に引きつけ起こして、返って来ちゃうし
金持ちだったから疎開先でT型フォード乗り回しちゃうしでかなり非国民だったんだよねーとかいってた >>109
キリスト教徒だとローマ法王に褒められる
魂が肉にインカネーション(託身)してるだけだから
魂が昇天すればただの肉だという思想 マジレスすると、食糧難は戦後がやばい
大量の兵隊上がり、中国からの引揚者、ベビーブームだったから
復員兵ですらろくな配給や手当なかった
都会にいた戦災孤児は本当に悲惨だったと思うよ 戦前生まれのばぁちゃんは、さつまいものつるを甘じょっぱく煮付けていたな。
あれは美味しかった。 インパールとかパプアニューギニアに出征した兵士は人肉食って生き延びてた 明治になってから戦争で負けるまで70年くらい
戦争で負けてから今までも70年くらい
思えば大日本帝国の時代ってそんなに長くはなかったよな 貧農出で、口減らしで奉公出された戦前生まれの祖母(父方)は、ふかし芋ですら有難がって食ってたよ
苦労したんだろうね・・・
おっさんみたいなごつい指してたし、漢字もろくに書けなかった 中には山賊化した部隊もあって同じ日本の部隊を襲って皆殺しにして食料を奪い、殺した兵隊の肉も食った >>109
陸軍には「兵站」の概念なかったからね
基本的に食糧は「現地調達」
食糧も補給してやれば、あんな大量には死ななかっただろうよ 皆んながお腹いっぱい食えるようになったのは割と最近の話
戦前だって飢饉とかあったし 死んだ婆ちゃんの口癖は「腹は空かせないで一杯食え」だった
戦時中は何食ってたのかな すいとん、お麩
と思われがちだが、田舎(疎開先)ではしっかり野菜食ってたと言ってたよ(´・ω・`) 戦時中から戦後の物資不足の悲惨さは東京視点でしか語らない
ガード下の闇市とか高価な着物を米と交換とかな
うちの実家は内陸部の田舎だけど毎日刺身食って白飯にも困らなかった
砂糖もふんだんに有って和菓子やが繁盛 >>129
集団疎開だとまともに食わせて貰えなくて、お手玉の中の小豆や大豆かじってたって話聞いたことがある
集団疎開した子が戦災孤児になるケースが多かった
都市は焼け野原にされたからね… ぶっちゃけると、
戦時中徴兵された諸君は毎日、鮭缶を
もう食えん。ぐらい食わされていたんだよ
そして、太った奴は駆り出される。そんな感じ。
兵隊の食生活は飽きるだろうけど、クソ不味いものは食っていなかった
親父が言ってたよ うちのじいさんは「小麦なんて貧乏人の食うもの」ってバカにしてんな
その割に朝はお気に入りの店のデニッシュとカフェオレがないと始まらないが
グランパ、パンは粉モンやで >>127
寒冷地でも育つ米の品質改良が効いてるとか >>63
医者の見立てでは栄養失調って言ってたけどな
疥癬が出来たのは体力も精も落ちて虫などからウイルスを貰った内臓疾患だろうか >>132
のらくろでよく食ってるのは牛の缶詰だな 空襲された都市部、港を機雷封鎖されたり空襲で鉄道とかのインフラ破壊された地方は飢餓やべえことに
それほどでもない地域は普通に飯食っていた
ある兄弟は別々の地域に疎開したが、片方はこの飢餓状態に陥り、もう片方は被害殆ど無くてふつうに食えた
戦後、かろうじて餓死せずに済んだけどがっりがりになったのと、疎開前より肥えて帰ってきた兄弟、当然関係は険悪になってしまったとか >>116
アンデスの聖餐のことを言ってるのならバチカンでは慎重な見解を表明してた
筈。 >>114
いつもじゃない時々、鰻が川で取れるらしいんだけど、おばあちゃんが獲った子供の前に
並べてくれても、家長のおじいの手が横から出てきて、父(子供)は一度も食べたことなかったって。 戦争の悲惨さを語るためにやたらと誇張されてる話が多い
WGIFによる操作でもあり本当に悲惨だった人たちのゴリゴリ感でもあろう
ウチのほうは平気だったよ
は日本人の感覚では大っぴらには言えない >>141
「楡家の人々」で、
ひもじい毎日の食うや食わずの「憂行」マンボウ、
片や出征して南方で米軍の捕虜になって以来、
米軍供出のリッチな食事を食べて肥えて戻ってきたモタさん
人相が一変、太ってしまった厳格な兄を見て
玄関で思わず笑うマンボウ氏の下りがあるね 都会の人は食料確保のために田舎に買い出しに行ってたけど当然現金では
売ってもらえず貴重な衣類と交換する「竹の子生活」をしていた。
その際に足元を見られて交換レートが悪かったことが多かったので田舎の
人に悪い印象を抱く都会人が多かった。 >>49
戦時中の話しありがとうございます
参考になります >>4
農村部でも引上げや住込み人で食べ物が豊富ってわけでもなかったらしいけどな
うちは麦とヤギ乳だったらしい >>150
でもあれやで
飢餓なら麦が金より高価になるのは当然のことだし、何とかの書とかどこそこの壺とか誰それの刀で腹がふくれるのかって話だもんなー 山田風太郎が戦前?戦後の日記を書籍化してるんだけどそれ読むといろいろ東京での日常が書いてあるよ アメリカ人のおじいちゃんは毎日肉が入ったサンドウィッチとアイスクリーム食べてたって。 日本兵に強奪されて餓死したよ
かんだばーって葉っぱを食べた 高価な着物や骨董品かついで汽車に乗り
田舎で二束三文で米と交換してもらって
帰りの汽車で闇物資だからと官憲に没収
戦後甘いものがなくて米兵にギブミーチョコレートとかいってアメ公が撒いた菓子を拾って帰ったらオヤジに死ぬほど殴られた
これ東京や横浜を代表とする都市住民のうらみつらみであってローカルな話でしかない >>22
沖縄ではかぼちゃが食えない人がいるらしい
戦闘が終わって畑の中に戦死者の死体があちこちに転がってる中で、
かぼちゃが今まで見たことがないくらい丸々と大きく実っていて吐き気がしたらしい 俺んとこの戦中を生きた爺さん婆さんは戦中のことはあんまり話したがらなかったな
ド田舎で米作ってて供出させられてたとは聞いた
鉄のものも出さないといけなかったとか このスレの平均年齢、歴代でも1、2を争いそうな勢いだな。 >>159
豊かと思われていた米国国内でも菓子用の砂糖が不足していたので砂糖を使わない
菓子ポテトチップスが作られた。 >>165
俺らがオヤジやジジイの戦争話を直接聴いた最後の世代だからな
本当は語りたがらなかった本人たちの書き込みがほしいところだが 戦時中のカロリー見たけど軍人が1500kcal
一般市民が1000kcalしかないよ
よくこれで戦えるほど日本人は頑張れたな 駅前でアコーデオン引いてた傷痍軍人ってほとんど偽物らしいな。
本当に戦争で障害残る怪我した人は十分生活できる給付金もらってたんだって。 皮膚や爪、チンカス耳カス鼻くそフケうんこ小便なんでも
シラミが沸いたらごちそう気分でルンルン ガ島などの最前線の島に行かされた兵隊は
動くものなら何でも口に入れたらしい。
アメリカ兵の死体は太もものみ食すことが許された。
もちろん同軍の死体を食料にする事は公式には不可。
とにかく餓えや下痢と病気で戦闘どころじゃない状態。 バッタの食べ方をばあちゃんから教えてもらったぞー。 >>62
そう食糧事情が悪くなったのは戦後
母方が旧華族なんだけど夕食にカレーライスを出した
こんな一皿の食事しか出来ない家になったのかと曾祖母が嘆いたそうだがw
むしろ、戦中でさえ。それなり嗜好品が手に入った >>15
タニシ、どじょうときて、なんでカエルだけ蛙じゃないんだよ
82歳とか嘘だろ http://mangadojyo.doorblog.jp/archives/11190195.html
どこかで読んだなと思って探したら、すぐ見つけた。
これだ。
節子の死因は栄養失調ではなく、軍需工場から出た有害物質 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:f2c519fe5384e767e1c9e99abdcfc293) ウチの祖父母は芋を嫌がる。
戦時を思い出すからと言ってた。
芋しか食えないからイヤイヤ食ってたらしい。もう80過ぎだが好き嫌いが激しくて美味いモンしか食わない。孫を連れて都内中を食べ歩くもんだからガキの舌が肥えて困るわ すげー貧しい生活かと思ったら、あるとこにはあるんだよな おからはいつもあったらしい
爺さんはおからだけは金輪際いらんと言ってた >>187
まあゆるしてやれ
あと何回食えるかいつ医者からストップがかかるかとおもえば
今更昔の不味いもんなんか食いたくないんだよ 鰻を釣って食ってたと聞いたな
釣れる量が一晩にバケツ一杯ほどは釣れてたみたい >>189
てことはお豆腐も普通に売られてたって事か当時はおからはタダでもらえてただろうけど 配給でウイスキーが貰えたらしいが
ひいじいさんは下戸なので配給後に呼んでも居ないのに遊びに来る酒カスが多かったみたい 松茸なんか裏山で死ぬほど採れてたんで今そんなに食いたいと思わんていうてるうちのばっちゃ
海に行けば貝も沢山採れたし魚もようけ釣れたとか結構贅沢
芋のツルは去年か一昨年だったか農家の人にもらって「懐かしいわあ」て言いながら料理してた
思い出にも個人差があるもんだな 東京でも案外色々なもの食ってるよ
山田風太郎が日記に書いてる 大根めしはいつでも白いご飯が食べられる状況だからこそ美味そうに感じるのかな 酷かったのは東京大空襲とかの大規模無差別空襲後だろ
物流が絶たれれば流通が滞るのは当たり前の事
自然災害と一緒だよ アメリカ人に納豆や牛蒡を食べさせると、虐待の罪で絞首刑になるから、絶対食べさせてはいけない。
東京裁判で判例がある。 >>169
それを「よく頑張った」と言いたくねえな 嫌になるほど芋食ってたらしいな
戦前戦中世代の芋嫌いは以外と多い オーストラリア人やアメリカ人に食べさせてはいけないもの
牛蒡 オックステールまたは木の根を食べさた罪で絞首刑または銃殺刑
豆腐 ロットンビーン(腐った豆)を食べさた罪で絞首刑
鰹節 得たいの知れない木の屑の食べさた罪で銃殺刑
何れも戦犯裁判で判例がある。 >>198
横のつながり強い連中は、焼け野原でもなんとかかんとか釣ったりほったりして食料確保してみんなで酒盛りしてたらしいのう
お上に見つかったらどやされるの覚悟らしいが
配給しかあてのないのは悲惨この上ないっぽいな 親に「ヒエとかアワ食ってたの?」って聞いたら
「たまに麦飯はあったけど普通に米だった」と言ってた
麦飯は嫌だったらしい >>207
嫌になると言う事は、それ以前にそれ以外の味を知ってたって事だ
知らなきゃ苦にならんだろ うちのじいちゃんは躾のときは農家が頑張って作ったんだから残さず食べなさいだったけど
実際のところは百姓のことを死ぬほど嫌ってたわ
戦中・戦後に食料交換で散々ボラれたらしい >>109
それ有名な捏造放送な
台湾の人がネズミを食べたとインタビューに答えたら
字幕で人を食べた事になっていた
放送後にそれを知って本人が猛抗議してる >>217
ぐにゃぐにゃでブヨブヨだから一口で捨てられるな 昔の人がファミチキ食ったら腐ってるかタチの悪い冗談だと思われて一口で捨てられそう 農家からしてみれば、一般的には判で押したように押し入れの奥から
反物とか着物洋服ばかり持ってこられても、一定量以上は捌ききれないし
農村で都市の奴らが着るような服着ても馬鹿にされるだけなので実用的でもない
なので不要物貰っても意味ないので徐々に交換レートが上がっても仕方ないね 農家は勝ち組なんだよ戦後に農家をバカにする教育をされたがそれでも
農家は強いサラリーマンなんて会社がなけりゃ何もできんから 小松左京はザー汁焼いて食べてたって、とりみきの本で読んだ 満州や朝鮮に居た人達は食べ物あったから
本国の子供達と比べて体格差があったそうだね
食べられる物は何でも食べた
雑草、虫、犬、猫
明治以前の飢饉は旅人とか・・・ うちの爺さんが言ってたのは芋がメインだったって言ってた
米も食ってたけど芋は手入れとか水やらなくても勝手に育つから楽だったと言ってたな うちのじいさんは軍属で海軍の物資輸送をやってて給与代わりに缶詰めとかもらって食うには困らなかったと言ってたな。困ったのは戦後で、仕事は無くなり缶詰めはもらえない、ものはないで困ったと言ってたな。 >>169
陸軍の作成したメニューでは、作戦時は5000キロカロリー。
建前上はね。 伊東四朗さんはいまだにサツマイモが嫌いで食べられないって言ってた
よほどマズいイモを我慢して食べてたんだろうね 横須賀に戦前から住んでた顧客のお爺ちゃんは農林1号っていうサツマイモ食べてたと言ってた。クソマズでサツマイモ嫌いになったと >>49
うちの親も80代だがスマホで日々5ちゃんやようつべを巡回していますよ
米はなくて芋とかあと海が近いのでイワシもよく食べたらしい >>84
恒例の学校の宿題で、
「戦争を体験した祖父祖母に話を聞こう」
てのがあって、祖母に聞きに行った。
そしたら、
「あんまり、思い出したくなかねぇ…」
と辛そうだった。
それでも私の為に語ってくれた。
その様子を教師にレポートしたら、その宿題は次の代から無くなった。
色んな体験談や手記に残してる人々は、辛い中、頑張って残してるんだと思う。 >>23
俺も子供の頃ばあさんに食わされたww
意外と旨かったな 小学生のとき友達の爺さんが戦争中に人を食ったことがあるって噂があった
当時は冗談としか思ってなかったけど案外本当かもな 人肉を食うのはいいとして生で食ってたのか焼いて食ってたのかが気になる 牟田口は芸者とすき焼き
兵士は仲間の肉と雑草
で良いんだよね? たしか現代の女子高生の方が摂取カロリー少ないんだよな コンビニ弁当食ってる派遣とかフリーターのが食糧事情悪いらしいな 北杜夫が書いていたが終戦後でもカレーライスが食えたらしい
米では無くコーリャンの硬い飯だったそうだが 犬
犬肉を売りにくる韓国人がいたそうだ(今は亡き祖父談)
日本人は誰も買わなかったとさ 肉と乳製品がなかったくらいで今とほとんど変わらんってばあちゃんが言ってた 干し芋とカボチャが今も好きじゃないらしい
戦時中に散々食べたからもういらないんだってさ 終戦直後は芋の蔓を齧ってたそうだ
カーチャンの実家は農家だったので
すぐ上の姉ちゃん(伯母)が闇米背負って
東京に行って駅前で薄っいお粥作って売ったら
飛ぶように売れたらしい 米と野菜と魚をフツーに食ってたそうです
たまに広島や岡山から買出しにくる人もいたとか。瀬戸内海を渡って。 瀬戸内海はクソ貧乏だったからな
食い物あったの一部の農家だけだろうに >>156
そういう戦場もあった
あと基本的に現地住民か
そして白黒豚が彼らなんだけど
やっぱり食うと色々問題あるから
実は野豚を食った >>239
尻の肉から削いで焼いて食うんだよ
一応豚肉ってていで仲間に出す 普通に米食ってた。タンパク源は池の鯉やフナや食用カエルや蛇食ってた
と、爺さんから聞いたよ。 トウモロコシとジャガイモばっかり
今では嫌いな食い物になった 俺も疎開の時散々食ったから未だにカボチャが苦手だわ うちのトーチャンは陸軍の兵隊で行ってて
班長に気に入られて流水で冷した野菜をよく食わせてもらったらしい 家の農作物食ってたってばあちゃんから聞いた
近所とかに分けてたって 戦時中は塩、味噌、醤油とか調味料類は満足するくらいあったんかな? >>264
味噌・醤油は原料の大豆がすでに不足していたし塩も不足し始めていて20年秋
以降は家畜の斃死が始まると予測されていた。 ナニが配給されるかだな
サツマイモ、かぼちゃ、とうもろこしは喰い飽きた
今でも天ぷらにサツマイモとかぼちゃがあると避けてしまうわ
ザラメ(茶色の砂糖)や小麦粉が配給になると
カルメ焼き機やパン焼き機が流行った
学校の給食はアメリカから援助の小麦粉と脱脂粉乳 東北の米農家は百円札の札束たっぷりと持っていた
前の晩から並んで満員の汽車にやっとこさ乗って
延々歩いて米を売ってもらって
皆んなにコメのご飯を食べさせることを思い浮かべて
降りる駅の近くで警察の検閲に会い
コメ全部を有無を言わさず取り上げられて
お腹すかしてやせ衰えた子供たちに泣いて謝ったお母さんのコメは
警察のなかで分けられ帰りはニコニコと帰っていく
警察官官僚の姿がありました >>98
日本の国土は10本の指に入るほど広いんだが何言ってんだ?
単純に重工業偏重で農業政策がしょぼいだけ チョンはコーリャンを食ってた。
ジャポニカ米が食えるようになったのは日韓併合から 出兵して現地で食うもん無いから野草とか人肉食ったとよ。
そんな爺さんだから
生前は小さいながらもスズメバチの巣に
キンチョールスプレー持って特攻。
片手で穴にティッシュ詰めて、もぎ取った後レンジでチンにしてた。
俺には出兵で弾ごめ係やってたと話してたが
間違いなく前線で撃ちまくってる。 スズメバチの巣に特攻したの見て
爺さん頭大丈夫か?と当時は思ったが
一段落して電子レンジ見たらスズメバチの巣が入ってるから再度ビビッた。
蜂の巣をレンジでチンとか常人の発想じゃない。 最近俺も思うが、不幸は人を狂気に導く。
爺さんは戦争を経験してネジが一本外れてたと思う。 うちの親は畑に捨ててある小さいさつまいもをもらって来てたらしい。あとは麦飯だって。
靴も無いから下駄を履いてたってさ。 戦争中のほうが豊かだった
樺太から引き揚げてきてからが地獄だった 母方の婆さんは満州まで行って
タイプライターのタイピングして収入得ていた。
当時はちょっとしたスキルだったみたいだ。
引き上げの際はロシアが来るから自決用の短刀渡されたらしい。
とりあえず何事も無く帰国した。
食生活までは聞いていない。 大根をね、「これは梨。これは梨。これは梨」と自己暗示かけて食うと意外に美味いんだぞって、それが父の教えです なしか
鳥取の親戚からナシ送られるけど
多すぎてもういらねで送られてきてもよそに配ってるなぁ
ナシですらそうなったし、蒸かしただけのうまくもない芋とかそりゃ食いたくなくなるか >>22
芋系のスイーツを期間限定で出したら
「戦後を思い出しました…」って投書が来て皆困惑した思い出 芋と麦飯
爺ちゃんと飯食いに行って麦飯とろろ頼むとガチギレされるから気をつけろよ >>290
ヤカンでお湯湧いて蓋がカタカタ鳴ると、敵の銃声だと勘違いする爺さんの話小学校の国語の教科書似合った気がする 戦時中はまだよかった
敗戦から数年後、兵隊が引き上げてきてから飢餓地獄になった 亡くなった爺さんが戦時中は満州にいたらしいが、そのときの記憶について親族の誰にも喋っていないんだ。
小学生の頃の宿題で年寄りから戦争の記憶についてまとめた作文を書けと言われたけど、なにも書くことがなくて困った。 ウチの死んだ婆ちゃんは田舎の生まれで戦争時は疎開してたらしいけど
食べ物にはそんなに困ってなかったってよ
むしろ戦争終わってからが大変だったと
空襲のときに嫁ぎ先の家の方が空襲されてたのを見て「あ〜よう燃えてるわ〜」
って思ってまだ赤ん坊の親父を抱きながら見てたって
やっぱあの世代は強いわ 民間人の事なら普通に食ってただろ
単に配給制だったから、余剰な食品は無かっただろうけど
前線で兵站が破綻した戦線にいた軍人さん達は大変だっただろうけど、ちゃんと兵站が生きてた戦線なら、終戦まで飯の問題は無かったみたいだよ 爺ちゃん90過ぎてまだ生きてるけど戦中戦後の辛い話あんまり聞いたことないな
編成地で機銃掃射にあったって話くらいか
どこか派遣される前に終戦して命拾い
食事も割と食えてて拍子抜けした記憶がある
元気なうちにもっと聞いとかんとな >>304
昭和20年にもなると都市部ではマトモな配給なんてめったに無くて
その日は米の配給のはずが一人芋2個とか下手するとなかったり
あと、配給だけじゃどう考えても栄養不足カロリー不足だったから他に食料調達してた状態 NHKの「ドキュメント太平洋戦争」で俺が驚いたのは
昭和19年までドイツ国民は戦前と同じカロリーを
摂取していたというんだよ。
それでもドイツは負けたのに、国民にサツマイモや
カボチャばかり食わせて戦争していた
日本の軍部や政府は何を考えていたんだろうね。 火垂るの墓で飢えてるのって一部の話だって理解してない人多いな 戦中戦後でも田舎の方は普通に飯食ってたよ
当たり前の話だけど
ときどき都市部の人がやってきて高値で食い物買っていってたけど
疎開もできず都市部に残ってた貧乏な一般人はだいぶ苦労してたみたいだな >>300
おれの親父も満州(奉天)にいたって言ってた 寒くて外で兵隊が死んでたって事しか話してくれなかった 戦後うん十年経って、戦争より長い期間戦争時は食べ物がなかったと言って無理やり嫌な物を給食で食わされた思い出 >>52
お粥に刻んだ大根入れてるだけだから全く低糖質じゃない >>319
不味そうだな…
レンコンみたいな味がしそうだ 第二次世界大戦中の本土のアメリカ人ってどんな生活してたんだろ 戦場の最前線でアイスクリーム食ってるくらいだから推して知るべし 配給でもらった、油を搾った後の大豆カス食べていたと聞いた。 >>308
都市部以外は普通にたらふく食ってたが? あと、ばあ様は配給で一人1/4の林檎もらうのに半日並んだとか >>322
砂糖は前線の兵士優先とされたので国内では甘味が不足していた。 当時、京大で科学を学んでいた知り合の爺様は
兵役を免除され、実験室でサッカリンを合成し、料亭に売り歩いていた。
893に目をつけられ、やめたと言っていた。 サツマイモは良く聞いたな 今は亡き婆ちゃんが終戦記念日にすいとん作ってたなぁ
もう何年もすいとん食べてないわ チーズ一切れビスケット3枚 湯だけはたっぷりと飲む 当時の日本の野菜がうまくて戦後アメリカ人がビックリしたらしい。
さらに肥料が人間の人糞&人尿と聞いて二度ビックリ
そして嘔吐&気絶w
日本の農民が一矢報いてくれたなw >>48
ムツゴロウさんが東大の寮で飼ってた犬食われた話か? 戦後すぐウンコを運ぶことで東京の衛生の危機と経営危機を乗り越えたのが西武鉄道である。 百姓だけどばあちゃんが若い頃は家に農作業手伝う人が何人もいたから裕福ではなかったみたいだけど食べ物に困ったって話は聞かなかったな
作物は育てれば良いだけだけど物はお金で買うしかないからそれは困ってたみたいだ
頭のいい人だったけど金の問題と兄弟多すぎたから女学校にも入れて貰えなかったって死ぬまで親を恨んでたな >>22
うちのかあちゃんも未だにサツマイモは食わないわ
あんなもんは金出して食うもんじゃないだと 食料が足りなかったのは都市部だけだってよ
山梨の疎開先にはたくさん食べ物があったとうちのばあさんが言っていた 大阪と京都の中間辺りでは祖母曰く戦後の方が数段キツかったらしい 死んだバアさんが、戦時中はよく食べたと言って、スイトンを作ってくれたことがあるが、
不味くてとても食えたものでは無かった。 このスレで爺さんがネットを使いこなしてるのが面白い でも、当時の貴重な意見は聞けるからな いいんじゃなーの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています