そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
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空襲や学童疎開、シベリア抑留など栃木市民らが経験した戦争体験を聞く会が22日に同市西方町の真名子夢ホールで、8月12日に同市旭町の栃木文化会館でそれぞれ開かれる。
戦争体験を風化させることなく、後世に伝えるための試みとして同市が2011年から開いており、今年で8回目。22日には同市野中町、山口スミさん(82)が「宇都宮空襲体験談」
▽同市柳橋町、阿部洋子さん(79)が「集団学童疎開を体験して」と題して講演。8月12日には、さくら市喜連川、秋元武夫さん(94)が「ソ連抑留と帰国後の生活」
▽栃木市片柳町、梁島宏光さん(76)が「宇都宮空襲とその後」をテーマに話す。
https://mainichi.jp/articles/20180720/ddl/k09/040/167000c 俺のじいちゃん一式陸攻の整備してたから戦地に行かなくて助かった 死ぬ前に敵に国旗を取られない為に腹切ってその中に突っ込んでたとか 死んだじいちゃん…いっつもニコニコして優しいのに戦争の話聞いたら顔がひきつって「そのことは聞くな」と怒られた。今考えると悪いことしたよ… 彰義隊で上野に最後まで籠城してたって聞いた
親藩の方に投降したら丁寧に扱って貰えたらしい 叔父の実家の近所の若い衆は皆南方に行く途中でボカチンでしんだらしい 俺の爺ちゃんは空襲があると高射砲撃ってたけどB29の飛行高度が高過ぎて全然当たらねぇって言ってた 祖父は軍曹だった
前線に出ず、東京で主計みたいなことをやっていたらしい
終戦後も、何かの事務があったらしくしばらくは残ったそうだ
かなりの少食で、あまり食べなかった
若い頃も同じだったらしい
戦時中、配膳の兵士に対して自分は少食だから盛り付けを減らすように言った
事情を知らない他の人間が上官の飯を少なくするは何事だと兵士を殴ったことがあったそうな >>5
うちの爺さんは「支那では、ロシアでは」が口癖だったなぁ
戦地の話ばかりしてた 空襲のときは家の縁の下に潜ったと言ってたな
食べ物がなくてモグラも食べたと >>8
俺のじいちゃんも同じこと言ってたわwww
旧型の高射砲だから高度6500までしか対応してないから言い訳程度に撃ったら即退避してたらしい ジープやヘリコプターで拉致されて、慰安婦にさせられました 近所のおじいちゃんの話だけど、宇品の工場で働いてた時に原爆が落ちて、でっかい機械の下敷きになって自分だけ助かったみたい。どうしたらいいのかわからず焼け野原の中、広島駅まで走って行ったんだって。 うちの爺様は運送会社やってたんで、物資運搬やってたらしい
んで、後方担当だったからか無事生き残って帰還したんだけど、ヘビースモーカーだったから肺ガンで直後に死んじまった
そんで婆様「せっかく帰れたのに意味ない」とキレるという 身内や知人じゃないけど、子供の頃近所のじいさんが庭先で何かを燃やしているので近づいてみると、部隊の集合写真とかだった
一枚くれといったらもらえたが、親には気味が悪いと捨てられてしまったな
あれは一体なんだったんだろうとたまに思い出す 俺のじいちゃん近衛兵
今上天皇が、まだ皇太子で車から敬礼してくれたもんだって 母ちゃんから聞いたが晩年も夢で見てうなされて起きることがあったらしい…怖い思いしたんだろうな… じいちゃんが満州に居た
終戦後にソ連が攻めて来て捕虜になりシベリア抑留で8年間ロシアで強制労働させられてた
労働中に事故で死んだ人も多かったそうだ
脱走しようとした人も居たが、すべて捕まり見せしめで仲間の前で銃殺されたそうだ うちのじーちゃんは海軍の偉い人だったんだけど神風特攻隊に行く直前で戦争が終わった
よかった、本当によかった
じーちゃん大好きだよ 女性や子供を逃げられないようにしてから徹底的に焼き殺してきたらしい
キリスト教徒ってどうして焼き殺すのが好きなの? >>22
戦争行った爺さんがいる世代はおっさんだろ スズメ>メジロ>ロシヤ>野蛮国>クロパトキン>金玉>マカロフ>ふんどししめた>たかしゃっぽ>ぽん槍>陸軍の乃木さんが凱旋す
って歌が、死んだじーさんが子供の頃はやったらしい
俺はそれ聞かされていまだにそらで歌える… シベリアに抑留された軍医。日本人を診るのが仕事。嘘の診断をして早く帰国できるようにした。帰国後、先に戻した兵隊にお礼として京都のど真ん中に一軒家をもらった。 >>5
おれのじいちゃんも一緒だな。
戦争の話は絶対にしないし、戦争のニュースとか話題ですごい怒る。
普段は超優しいのに、戦争の話題になると人が変わる。
でも自衛隊や米軍の救助活動には好感度高いから、純粋に反戦意識だけみたい。 まだ満州にいる筈だった一部の官僚が何故か戻ってきてたりしてたらしいね
名古屋市に勤務してた祖父の義理の兄が中央からもうすぐ終わり みたいに10日ぐらいの時点で連絡あったって言ってたそうな 婆ちゃんは遠くからきのこ雲を見てたよ
爺ちゃんは原爆投下後の街を走ってたよ 暗闇に飛び込む怖さを語る友人がいた
何度飛んでも慣れないそうだ いいからさっさと死ね新宿古着屋ワタナベダイバクショウ 神風特攻隊の淡谷のりこが語った体験はなかなか興味深い話だったな ライターと言われた一式陸攻実は重武装で意外にしぶとかったそうな もっと生きてるうちに色々聞いときゃ良かったよ、じいちゃん。この歳になってそう思ってももう遅いんだなあ 生まれる前にいた親戚で、戦争での死亡は一名のみ
出撃しようとする飛行機のプロペラにぶつかって死んでしまった。
実家の親せきがそれを知ってるんだから戦死扱いにすらならなかったんだと思う。
でも俺は忘れないぜ。会ったこともないけど >>24
いても2ちゃんでベラベラ喋るわけないじゃん 大陸に出瓶後すぐ休戦
どさくさに紛れて結構な価値がある壺を持って帰ってきた
とは聞いたのだけど
相続したその壺は80センチくらいあるデカい壺で
終戦のどさくさて持って帰ってこれる大きさじゃない
鑑定の結果は結構なお値段が付くそうだけど
あと小銃も隠し持っていやがった 原爆落ちた後は凄まじ過ぎて
思い出したくないって言ってたな >>33
淡谷先生は兵隊さんの前で恋の歌を歌ったり
アメリカ人捕虜の前でジャズを歌ってみたりと
当時から気骨のある人物 >>40
今そういう骨のある人っていないよねw
というか、淡谷先生が特別だったのかw >>38
刀もって帰ってきた兵隊が戦後、生死を共にしただいじな刀を隠し続けて、時間がたってそろそろ死にそうになったので警察に行って「戦争中持っていた刀を今も家に持っている」と言った。
そしたら警官がちょっと考えて「美術品の所持許可の申請ですね、書類はこちらです」ととぼけて、美術品としての刀の所持申請書みたいなのを出してきた
って話なにかで聞いた
死んだ爺ちゃんは腐った甲板で脚を怪我して帰ってくる事ができた うちの爺さんは戦争もの大好きだったな
ドラマやドキュメンタリーは欠かさず見るし本も大量、月刊丸定期講読
零戦や大和のプラモ作ったり
ギブミーチョコレートとかふざけて言ってた
職業軍人だったからかな >>42
あの時代の歌手は皆プライドがあるよ
東海林太郎先生も憲兵に燕尾服を批判されたわけだけど、「西洋でいう紋付袴だろう」と言い返したそうな 祖父母でさえ戦争体験ないのに体験談をインタービューしてこいと夏休みの宿題が出た
あのときの小学校担任はクズ 何年か前のスレにも書いたけどね
父方の伯父 ミャンマーで戦死 遺骨も戻らず
母方の祖父 満洲で戦死 以下同文
母方の大叔父 硫黄島で以下同文
全員民間徴用だ
負ける戦争はしちゃいかん うちの死んだばあさまは広島で看護婦をやってたから、グロ耐性がスゴイの。
後に小学生相手の語り部をやってたんだけど、余りに生生しすぎて途中で終わらされる事もあったw
「あんなのまだまだ生ぬるいのに」って怒ってたな。
そんな経験してきたばあさまだったけど。
一番辛かったのは、優しかったお兄さんが戦争でサイパンに行ったら人が変わってしまい。
最期は狂ってしまって事件を起こして警察に射殺されてしまったらしい。
ほとんど闇に葬られて、家族にも口外するなと圧力をかけられておしまい。
死ぬまで「兄さんにあの世で謝らないと」と、引きづっていたな。 修学旅行で沖縄の防空壕跡地に行ったが怖かったなあ… 親の仲人やってた近所の爺ちゃんが元日本軍特殊部隊
潜水艦でアメリカに上陸し破壊工作を行う部隊に所属していたが、訓練中に終戦
今年で確か93歳だが、こないだも畑を手押し耕運機で耕してた
背筋も全く曲がってない
特殊部隊に選ばれるフィジカルエリートってスゲーわ 大工だった祖父ちゃんは東南アジアのどこぞの戦地で、ネコ車を作らされてたそうだ 修学旅行で広島に行った晩に
被爆体験者からの公演が組み込まれていたわ
話が単調で寝てしまったのは悪かったけど、
寝っ屁を会場に響かせたのは、もっと悪かったわ 終戦直前に大陸から半島経由で日本に帰ってきた祖母が言っていたこと
・半島では日本人はかたまってないと命を取られた、かたまってても金目の物を取られた
・中国人は日本と戦ってたのに残留孤児を預かってくれて心が広い、
半島にも残留孤児が多くてもおかしくないけど朝鮮人に預けると子供が殺される
今の反日教育された中国人は別物だろうけどな 小笠原補給部隊にいた爺さんが夜航行中に、硫黄島方面を見たら艦砲射撃が凄まじく、そこだけ昼みたいに明るかったと言っていた。 ちょーせんちょーせん バカニスルナ
冷飯ってもぬくいクソ出る
じっちゃが歌ってた。 戦後まもなく新任の教師が
教室の床がピカピカで素晴らしいと
誉めたら古株の教師に
空襲後の遺体の仮霊安室で
遺体の脂のせいでピカピカなのだと
教えられその場で気絶した >>57
中高生に聞かせる学校が悪い、あの話は大人になってから聞くべき 婆ちゃんの弟は特攻隊員で知覧で終戦を迎えて、
歩いて群馬県まで帰って来たと言ってた 都バスにいた爺さんの話だと、東京大空襲の翌日に座席を取っ払ったバスで死体さらいに数寄屋橋行けと指示されて、積み込むだけ積んで木場の車庫まで運んだとさ。報酬は白米。 >>65
一晩で8万人が生きたまま焼け死んだんだよな
想像もつかんわ・・・ 母親が青森は油川の見晴台から白旗を揚げた青函連絡船らしき船に米戦闘機が容赦なく
爆撃を加え沈めるまでの一部始終を見たんだそうだ 戦後直後の歌で有名なリンゴの唄、これが収録されたのが東京大空襲の翌日
並木路子は自身の家が空襲で燃えたのを知りながら収録に臨んだ シベリアで狼に囲まれて生きた心地がしなかったとか抑留の話なら学生の時住んでたボロアパートの大屋によく聞かされた >>62
かもねw
でも左翼的な教師が多かったんだよ…
高校生なんか良いターゲットだったんだろね
過去の日本は悪だったから、原爆を落とされたみたいな論調だったし
辟易としていたけど、毎年、原爆投下の日には黙祷しているわ >>29
まじだけど殺したの三万人ぐらいじゃないかと陸軍少尉だった大叔父が言ってた
てか何十万なんてのは中共の捏造に決まってると戦後の県議時代に議会で発言して問題発言扱いになってた ばあさんは広島で日産か何かの工場の倉庫にいるときに原爆落ちたと言ってたな
凄惨な光景だったらしい
皮ビローンとか川に死体の山とか
じいさんは被爆者の遺体の片づけ 父方祖父:満鉄事務員だったけど終戦間際に再招集。あちこち移動してるうちにソ連兵と日本兵がごっちゃになって歩いてる行列に合流してそのままシベリア送り。伐採地や炭鉱を転々とした挙句アクチブの新聞発行の下働きになって足掛け4年でダモイ 大学の警備員の爺さんと雑談してたら元零戦乗りで赤城がやられる直前に甲板から離陸したとか言ってた
当時から嘘くせえと思ってたけど未だちゃんと調べたことが無い 俺の爺さんも戦争に行ったって話は聞いたな
俺が高校生の時に亡くなった
戦争について聞くことも無かったんだよなぁ だいたい喋らないんだよ
喋りたくないんだよ
だからべらべら喋ってる年寄りの戦争話は
話半分で聞いたほうが良い 傷痍軍人で天皇から賞状もらって凄いんだぞとか言ってたけど、
これって本当にすごいの? 末期は海軍も金曜にカレーを食ってる余裕は無かった。 >>80
だよな
俺の爺さんも無口なタイプだったし
自分からはまず戦争の話なんかしなかったよ
婆ちゃんから聞いたくらいだし オレが引き継ぐはずだったじいさまの掛け軸を
借金のカタに黙って売り払った親戚マジ許さん うちのじーちゃんは弱視だから令状が来なかった
それで良かったのか悪かったのか答えが出ないと言っていたな
肩身が狭かったようだ 俺のじいちゃんは、戦争に行きたくないので、醤油を一気飲みしたらしい。
で、樺太から孤児を連れ帰って、育ててたらしい。
婆ちゃんに聞いた話。 昭和一桁生まれの祖母なんかは学校で竹槍持たされて「ヤーッ!!」って叫びながら突く練習したとか笑いながら言ってたな 考えると、爺さんが戦死してたら俺は存在しないんだよなぁ じいちゃんがシベリア行ってたけど、ほとんど話してくれなかった
ロスケは雑で労働なんかしなくて隠れててもバレなかったと聞いた 船に牛牛詰に去れて
戦地にGO!GO!
疲れたて効いた >>92
うん。うちのじーちゃんは戦争に行かなかったが、その前のご先祖様は旅順で散っている
国からもらった掛け軸とメダルと記録が仏壇に大切にしまってある 爺ちゃんのふくらはぎには弾が入ってたので、ぎゅっとへこんでた
かそうしたら出てきたよ弾丸 >>80
本当にこれ。
普段ものすごい優しくて近所でも慕われてるじいちゃんなのに、戦争の話題だけは禁句だった。
一切口にしなかったし、そういった類の映画もテレビのドキュメンタリーも嫌った。
泣きそうな顔で怒ってるのも見た。
ばあちゃんの話だと何処か戦地に行ってたことは確かなんだけど、ばあちゃんも詳しくは教えてくれない。
じいちゃんはどんだけ地獄を見たのか親父も孫にも語らない。
墓まで独りで持って行くつもりだ。 うちの爺さんは石垣島に行った
そこで建物の壁越しに機銃で撃たれたが、板壁とくるまっていた毛布のため痣ができる程度で済み、その弾丸をお守りとして持っていた 俺のひい爺さんは日露戦争に参加して旅順まで行ってたそうな
おかげで勲章まで貰って、村ではヒーロー扱いされてたって言ってたな 今年も815は靖国に行こうか
午後は【やかましい】から午前中にね
今年もコスプレオヤジ達はいるかね〜 婆ちゃんが飼ってた犬を畳と交換したとか言ってたかなあ
供出って奴だったのかな 死んだ爺さんは小学生の俺が聞くとノリノリで話してたな。
夜襲にあって逃げるときに後ろから撃たれる弾が赤く焼けてるから
飛んでくるのが見えるとか、その弾が地面に刺さるときに草が
チリっと燃えるとか。
スゲーリアルな話を聞かせてもらったわ。 うちの曾祖父は終戦の玉音放送後すぐ朝鮮国旗掲げて俺は戦勝国民だって近所の日本人罵倒してた うちのじいさんは学徒動員でア・バオア・クーでゲルググに乗ってたって
んで、ザクに乗ってた上官に無理やり出陣させられたんだけど、その直後に上官のザクにミサイルが直撃して吹っ飛んだらしい >>98
そうだね
うちんとこの身内だと大正生まれの祖母が存命してる
いろいろ今のうちに聞きたいこともあるのだけど近年受け答えが全然できない・・・ うちの爺ちゃん中国から帰ってきて九州防衛に行く途中で
原爆落ちて大阪で足止め食らってそのまま終戦
弟が名古屋空襲で死んでるのに死亡フラグ全部回避する強運
生き残るやつはこういうやつなんだよな うちの爺さんは特攻の生き残りだったな
待ってる間に終戦だったが、今よく言われてるような無理矢理だったりパワハラ的に志願したわけでもなく、単に兄弟多かったから俺が行くのが役目だと思ってただけで、そういう時代だっただけなんだと言ってたな。
死んでから千人針やら署名入り国旗やら出て来て処分に困ったわw 新撰組に入って朝敵行為やりまくった
その後の歴史では悪人呼ばわりされている >>66
これ見ながら質問は出来そうだけど
返事が中国語ならわからないよね ウリのハルモニは1948年頃に日帝手先のチャンニョ宿の楼主にさらわれてドラマ缶に詰められてヘリコプターで豪勢な館に連れて行かれたニダヨ。
日本兵のズボンとブリーフを下ろしてデカいけどフニャフニャのを咥えるとOh,Jesusって切なそうにしているのを楽しんだらしいニダヨ。
日曜日は休息日とかで正装して教会でパンを恵んでもらって嬉しかったらしいニダヨ。
クリスマスにはケーキを食べてプレゼントを毎年貰ってたニダヨ。
悲しい戦争の思い出ニダヨ。 うちの爺さんは山奥の田舎だから、戦時中野良仕事しかなかったが
若いのは皆兵隊に出された。
隣家は兄妹で結婚して家庭を強制的に持たされた結果、子どもが出来ず断絶してもうた… >>80
いやそれは間違いじゃないんだが、死期が近付くからなのか弱りだしてからはベラベラ話すようになったわ
自分がした悪事は言わないんだろうけどw >>5
ウチの爺様と親戚の爺様は懐かしそうに語ってくれたな
親戚の爺様は満州事変の時に満州に居たそうで
深夜藪の中を行軍してた時に敵味方入り交じる型で遭遇、初めは双方ただ怒鳴って威嚇してるだけだったが
そのうち戦闘に発展、味方撃っちまうから銃は使えず混戦過ぎて銃剣すら振れない状況だったらしい
どう戦ったの?と聞いたら笑いながら一言「目ん玉と金玉だよ」と >>92
まあ生き残りと言えばそうだけど
母親は爺様が戦死する前に生まれてたし ちなみにうちの田舎は山奥にあって人気が無いので10年に一度の割合で死体遺棄が見つかる
何件かは未解決事件になってるそうだけど うちの爺さんは飛行機運転してたらしくて家にプロペラあったで
ただ爺さんから戦争関連で何か聞いた記憶は無い 呉から武蔵の出航を見送った将校の爺さんがいたな
3年ぐらい前に亡くなったが
戦争終わってどうだった?って聞いたら、いきなり平民となってホッとしたやら、どうしたらいいやらで、何とも言えんなって言ってたわ >>51
サイパンはなあ
狂うだろうな。気の毒に
俺のじいちゃんの弟は広島の原爆投下時に爆心地近くの病院にいたけど
階段の踊り場にいたから放射線をほぼ浴びずに済んだ
見てきたものは悲惨極まりないものだったからか、決して語ろうとはしなかったけれど 関西なんだけど終戦直後に畑仕事してたばあちゃんが米軍プロペラ機の機銃に追われたと言ってたけど、信憑性はいかほど? 爺さんの葬式のときに初めてシベリア抑留されたことを知った
優しいが口数の少ない人だからあまりそういう話はしなかったな >>1
翁長知事と琉球独立論と中国共産党の深〜い関係〈青山繁晴〉
https://www.youtube.com/watch?v=c5MXH6D7Xfw
【緊急特番】沖縄が危ない!沖縄慰霊の日、沖縄サヨクの欺瞞を暴く[桜H30/6/30]
https://youtu.be/5U3TJJOsux0 ばあちゃんが朝から蕎麦を食ってたらピカドンが落ちて
衝撃で丼が頭に帽子みたいな感じで被さってきてコントのような状況になったらしい
そのまま蕎麦まみれで逃げたけど、おかげで食後の楽しみにしていた羊羹が食えなくなった
それ以降、ばあちゃんは死ぬまでデザートを真っ先に食べる習慣を続けたそうな >>131
うちの地元小学校の正門に機銃掃射跡がある
それで小学生が亡くなった記録あるレベルで情け容赦ないまさに鬼畜米英だった訳で
実際あったんじゃね? >>103
は?死ねよ
キリスト教徒による民間人大虐殺だと認められない人か? ジーちゃんの持ちネタで戦争中零戦で立ち寄ったナントカ島で現地のネーチャンと記念写真撮ってる最中に玉音ww >>131
事実なんじゃね
アメリカ人は子供を狙って遊びで殺してたし
いまだに中東でも子供を殺すわレイプするわしまくってる
先住民の一億人大虐殺から何一つ変わってない うちのじいちゃん13人兄妹の長男やったらしいんやけど
13人のうち下の4人は戦時中の爆撃で死んで
一番優秀だった次男が飛行機乗りになったと思ったら
零戦で突撃して死んだらしい
じいちゃんは地主の長男だったからその辺勘案されて戦地に飛ばされなかったけど
自分が戦地に行くべきやったといっつも相撲見ながら晩酌しつつわいに話し取ったわ ウチのじいちゃんは体弱かったらしく徴兵検査受からなかった
じいちゃんの弟さんはフィリピンに行く途中の船が沈められてそれっきり
うちの墓に日付あるけど調べた所その日沈んだ船ないんだよなw
墓建てたの戦後二十年経ってからなんでテキトーかもしれんw うちのじぃさんは満州から南方かシベリアか選ぶときバナナがくえるからと南方ミンダナオ島へいったらしい
アメリカとゲリラもさることながら餓えと渇きと病気でみんな死んでいったといってたわ じいさんはフィリピンだかで通信兵やっててその辺になってる果物食いまくってたら終戦時ふつうに太ってたらしい 小学校に爆弾直撃して偶々休んでいた叔母さん以外全滅したそうな
熱田大空襲 南方は悲惨だけど
満州に行ってた重爆乗りの近所爺はシナ人殺して遊んでたそうな 近所のじいちゃん、普段は寡黙。ちっちゃくてかわいいじいちゃんだった。
20年前の町内会のどぶ掃除。終わった後の慰労会。
ムッちゃんそーいや、南方行ってたんだよな。どんなだったの?
命がらがらだよ。俺の乗ってた艦か沈んでなァ、俺ァ隊長についてったから助かった。でも、同じ隊長についてったヤツも鉄兜脱がなかったヤツぁひとり、また、ひとりと暗い海に沈んでなァ。
穏やかな表情で淡々と語る爺さんの迫力にその場の皆、なんも言えなかった。 じいちゃんは満州で海軍に所属してたくらいしか話聞かなかったな
在日芸人がテレビ映ると「チョンが!」って怒鳴ってたな
婆ちゃんも満州にいて、戦後引き上げで子供は1人以外は置いていけっていう指示があったが
長女を引き連れながら、まだ当時赤子だったおじさんを腹に隠して日本まで連れて帰ってきたと うちのじいさんは日中戦争で撃たれて弾が下腹を貫通した
運良く死ななかったけど、歩くと下腹が痛むみたいで、体を揺するようにして歩いてた
下腹にはいつもさらし布を巻いていた
じいさんが死んだとき、その布を形見としてもらった 曾祖父さんは8町歩の田を持つ豪農だっが、農地解放で1町2反歩に減らされ終戦後に帰ってくるなり分家を集めて軍刀振り回して怒り暴れ回ったと聞いた。
あと、床下から戊辰戦争時の日本刀が10振り出てきて警察に没収されたよ。 二回目の召集のときは南方のジャングルにいたらしいけど夜中一人で小便に行った戦友が虎に食われたり渡河中にワニに襲われたりしたらしいけどどこの戦場なんだろう 特攻隊に配属されたけど
燃料不足で練習もままならず
北海道の空港の守備隊に回されて
敵なんか来ないから平和に過ごしてたら
終戦間際に2機の米戦闘機が襲撃に来て
対空機銃で撃ち返したら猛反撃されて
徹底的に銃座破壊されて複数人死んだらしい
戦闘らしい戦闘はそれだけだって言ってた うちの親父は戦後世代だけどじゃがいもばっか食わされて嫌いになったって言ってた
その子供の俺は親父の好きなカボチャばっか食わされて嫌いになった ひい爺ちゃんは日露戦争で大陸と東京の方で事務かなんかをやってたらしい
忙しいときは両手書きで書類を書いてたとかなんとかまあ話半分に聞いてたけど
戦死した戦友たちに申し訳ないって軍人恩給は生涯もらわなかったのはマジな話 ばあちゃん、原爆の翌日、浦上天主堂の方向へピアノの先生の様子を見に行ったらしい
戦後しばらくは貧血が酷かったって 結構話してくれてたはずだけどしっかり話聞いとけばよかったなぁ
じいちゃんは軍基地かなんかでいたらしい
服とか自分で洗濯して干すけど何故か無くなる、無いと言ったら上官に無い人が怒られるから取り合いだ、盗人とか言ってられんって笑ってた
ミサイルあたって右腕無くしたけど何とか帰ってきた後は仕事も見つからなくて大変だったみたいだけど起業した
ほんとガッツあるわ 祖母は戊辰戦争の会津藩の生き残りのひとたちに囲まれて子供時代を過ごした
前にも書いたかもしれないが…
亡父はあと一年、いや半年戦争が続いたら赤紙が届く年齢だった
十代の半ばから軍馬で下働きし、戦況悪化の中、大人達と上海まで軍の偉い人が乗る馬を届けるために汽車と船で乗り継いで日本列島が空襲で焼かれた焼け野原を見ながら馬と向かった
大陸に着くと煌びやかな女たちがたくさんいたというから歓楽街か
その夜、旅館のようなところに泊まり、初めて寝台(ベッド)で寝るも布団も枕もノミだらけで一睡も出来ないまま一晩を過ごす
翌日も汽車で馬と移動し、何日かして軍の偉い人がいる場所に到着
今度はちょっと立派な旅館に泊まり、ご馳走になったという
終始緊張感で詳しいことは忘れたと言っていた
その頃、母は学校で薙刀の練習とガラス工場で勤労奉仕
鬼畜米英に犯されるからと薙刀の練習を頑張るも戦中戦後も米衛兵は町に現れずに終わる
二人が四十代の時、忘れた頃に出来た末っ子が私であるw
戦後、町で朝鮮人が暴れて大変だったとか、そういう話はたくさん聞いた 習字の先生が大陸に行ってた。絵が趣味で一人でスケッチしてたら近くの村人がぞくぞくやってきた。便衣かもしれないから驚いてそそくさと軍まで逃げ帰ったって言ってたな。 じいちゃんばあちゃん戦後生まれなので戦争体験誰も知らない 昔は赤紙が来ただの防空頭巾だのドラマとかやってたけど最近は全くやらんけ戦争がとんなものか知らんじゃないか 武将がーとか大河とかより
戦争は絶対に忘れてはいかんことよ 岸信介と板垣英憲
こいつらの名前は死んでも忘れるな 検査直前の醤油点眼で徴兵忌避したウチの爺さんは非国民 右翼団体が何故チョン安倍を非難しないか
わかっとろうね? >>1
海沿いの軍需工場がある町に住んでいたら
沖合にアメリカ?の戦艦が来て辺り一面に艦砲射撃をかけた
撃ち込まれる砲弾がはっきり目視できる事が逆に恐怖だったと言う
着弾した地点はまるで神様が地面を手で掬ったかのようにごっそり抉れていた
建物が爆発して燃える、というような事は殆ど無く
大きな建屋なども巨大な鎌で雑草を刈るが如く
瞬時に砕けて吹き飛ぶ光景は今も忘れないという
今年92になるひいばあちゃんの話 じいちゃん
シベリア抑留の体験談
担当が配膳
少しだけつまみ食いしたみたい 東北の海員学校を出た後、すぐに大東亜戦争が始まった。
軍に徴用された貨物船の乗組員として、
米軍の潜水艦がウヨウヨしている台湾やフィリピンと本土の危険な航路を幾度も往来した。
10数隻の輸送船団の中で自分の船だけ助かった事もあった。
戦後、今度は復員船の乗組員として、トラック島、ニューギニア、フィリピン、南洋各地に取り残されている兵隊さん達を迎えに行った。日本の船が迎えに来た!って男泣きしているガリガリに痩せこけた骸骨みたいな兵隊さん達を見て、幾度ももらい泣きをした。
帰国途上の船の上で亡くなる兵隊さんも沢山いた。安心感からか皆穏やかな死に顔だったという。
高度成長期からはタンカーの船長を勤めたが、戦争で多くの日本の船が沈んだ海域を通過する時には、花束を捧げる事を忘れなかった。昨年97歳で他界。本当に尊敬できる爺ちゃんだった。 伯父は翼を組み立て工場に運ぶ時に
ガタガタ道で揺れまくるからこんなんじゃぁ勝てる訳がないと思っていたと聞いた
父親の従兄弟が南方へ移送中に輸送船で沈んでいる 私の祖父は、大戦前、大陸や半島で手広く商売をしていました。
日本人にもシナ人にも顔の効く祖父は身元保証人になる事も多く、
憲兵とかに捕まった人物の引受人みたいなこともやっていた様です。
終戦まで大陸で商売をつづけ、明日はいよいよ引き揚げとなった日、
雇っていた朝鮮人達がやって来て、略奪をしまくった挙句、
祖父を他の経営者と共に拉致同然で連れ去り、
新六軍(国府軍)へ引き渡そうとしました。
祖父を連れ去った朝鮮人の中には、保証人として助けた者も多くいて
中には十年以上付き合いのある者もいたのですが・・・・。
この時ばかりは流石の祖父も死を覚悟したそうです、ところが、
対面した新六軍の将校は、かつて身元引受人として助けた人物だったのです。
祖父は即日釈放され、なんとか無事に家族と合流できました。
引き揚げ後、祖父は再び商売を始めましたが、
その新六軍が揚子江越えで全滅したとの報を受けたのは、
国共内戦が再び激化した頃だったと言います
祖父はその後リタイアすると新六軍の将校の行方を捜して
中国へ行ったり、世界各地を旅行したりして悠々自適の暮らしを続け
やがて亡くなりましたが、
それでも、あれほど親交のあった半島の地には
二度と足を踏み入れることはありませんでした。 もう亡くなったけど、母方の叔父さん(昭和二年生まれ)が海軍の予科練に入った。
山形県出身だが、なぜか島根県の美保基地で訓練を受けることに。しかし、戦争も末期で訓練用の飛行機に乗ることもままならず、船に乗って朝鮮半島へ。
行った先から「もう帰れない」と手紙を送って来たが、戦闘に参加しないうちに八月十五日に。
無傷で帰ってきましたとさ。 ひい祖父さんがなんかの艦長だったらしいが親は興味ないらしく聞いたけど覚えてないと
あと入院中同室の90過ぎのじい様が向こうのレーダーがとか基地の上を敵機がとかそんな話してた サイパン島や硫黄島の飛行場から本土空襲に来るB29は、南から富士山を目標にして侵入してくるんだと。
ちょうど、俺の実家がある神奈川の相模原市青根と言う集落の上空で東京方面、関西方面にB29の編隊が分かれて行くので、
24時間監視するための軍の施設が設置され、電話で東京の司令部や迎撃にあたる航空隊におよそのB29の機数や高度を報告していたそうだ。
婆ちゃんが当時飯炊き係として出入りしてたから、色々知っていた。
曇りや雨の日は目視不能だったそうだが、音で機数や高度を判断していたみたい。ほとんど適当だろうけどw 南京大虐殺できるほど現地の日本兵は武器を持っていなかった 自分の祖父は徴兵されるのを回避する狙いがあったのか師範学校などの
文系ではなく理系に進んで平塚の高工に進学して厚木で勤労学生してたらしい
横浜大空襲も今でも憶えているらしく
今みたいに高層ビルなんてないので
厚木のほうから横浜方面の煙が見えたらしい >>170
祖父も勝てるわけないって思ってたってさ石油を禁輸されたから
松の油を無理くり抽出したりしてたと
ブラック企業の社員みたいなもんだね
こんなやり方で潰れるぞって思っても
上官に殴られるだけだという 祖父はサヨクとか反戦主義とかじゃなく現実的にアメリカに勝てると
思ってなかったらしく軍国少年にはなれなかったので修身の科目だけは
他の科目より常に低かったんだと
そのせいで旧帝大には進まず学生改革直後の明治大に進学してその学費の
おかげで祖父の兄弟は湘南高校まで進学したのに高卒だとか というより基本的にある程度高等教育具体的に言えば旧制中学まで
進んだ人は勝てると思ってる人はあまりいなかったらしい雰囲気としては
まさにブラック企業の社員のようだと >>131
おそらく事実だよ
父方の祖母も当時3歳の叔父が道端で1人遊びをしてた時グラマンに狙われているのを気づいて慌てて庇って道に倒れこんだ
その両脇を機銃掃射されたんだと。祖母はグラマンのパイロットが笑っていたって怒ってたな 母方の祖父母は満州引き揚げ組で
命からがら、死ぬかと思った、本当に怖かった
というようなことを話してたが、あんま詳しくは語らなかったなぁ
近所の友達の家の爺さんは、首に深い窪みがあって
戦争で撃たれたと自慢気だった 徴兵にはやはり優先順位はあったみたい
まずは農家や商家の家督を継ぐ立場の者は基本的に外されてる
それから理系の学生で軍需工場で働いてたりする者も優先順位は低い
逆に文系だと容赦なく学徒動員なぜか知らないけど師範学校の学生などは
むしろ赤紙が届きやすいという都市伝説もあるとかないとか 昭和元年生まれの祖母の話では18年あたりから本気で勝てると思ってる奴なんて誰もいなかったらしい 生き残っだ人間や徴兵されなかった人間はやはり上流にいる人たち
そしてそういう人たちは徴兵の優先順位を当然察知してたので師範学校などに
進まず高工とか理系を選択して軍需工場に働いている人が多い うちの爺さんは頭に榴弾が被弾して軍医が諦めて放置したら奇跡的に意識が戻った。
しかし、榴弾の破片が脳内に残っていた為に色んな後遺症で苦しんだ。
数年前死去した際に、息子達が火葬した後残っていた榴弾の破片を拾って、[これでやっと頭痛から解放されるね]って聞いて泣いた >>185
生きてる間に何とかしてやれよw
最後のセリフ酷すぎw 横浜大空襲の際、アメリカ軍はアメリカ資本のホテル周辺には爆弾を投下しなかったそうで、たまたまそのホテルの近くにいて助かったと聞いた。
名前は失念したが今もそのホテルはあるらしい。 あと都市部に住んでる人間は今も昔も実は弱者なんだよ
都会とかいうけど都会の人間ってのは田舎で土地を相続できないとか
家業を持たない小作農出身が多く
地主階級の人間は長男長女でなくとも養子として有力な家に
嫁ぐから東京に出たりしない >>187
そういうのってかなり計算尽くでやってたみたいよ爆撃しないところは
戦後に残したいところそして当然上流国民はそれを知ってるからね
結局そういう時も死ぬのは何も知らない弱者なんだよね >>189
昭和一桁つまり学生改革までの世の中を知ってる人の話は本当に貴重だと思ってる
特に自分の祖父などは高工出身つまりその当時の上流階級だからねそして今そういう
階級の子孫は実はあまり学歴に熱心でない事もいろいろ察するところがある 南チョン:今こそ日本を侵略してチョッパリ達をウリ達の奴隷にするニダ
全軍、独島に集結ニダ‼
北チョン:何故か38度線が、がら空きになったニダ?
今こそ南北統一のチャンス!全軍南侵せよニダ‼
南チョン:アイゴーwww
これが朝鮮戦争の発端であったw 昔も今もそうだけど東京や横浜でも東側の住宅地やドヤ街は意図的に
貧民が集まるように都市設計されてるとしか思えないんだよないろんな意味で
日本の都市計画ってかなり社会主義的だね 結構お偉いで満州ですごい金持ちだったけど引き上げの時に資産全部取られたと聞いた
勲章沢山あったけど死んだとき捨てたのかな >>192
朝鮮戦争ってさ米英のユダ金資本が北朝鮮製と韓国両建てで支援してるんだぜ
それが戦後の日本にも影を落とすことになった在日コリアンはネトウヨ系で
反共の盾にされて逆に朝鮮系はサヨクの盾にされたユダ金は日本が共産化しても
逆に反共化しても儲かるんだ
ユダ金は悪魔だ 大陸から引き揚げてきた若い娘は皆丸刈りで顔を墨で汚して帰って来たそうだ つまりGHQは日本国内の在日コリアンには反共利権を
在日朝鮮人にはサヨク利権を与えて戦後の日本を思想的な
分断国家として統治したんだよ
占領政策を考えたGHQは基本的に共産主義者だがあえて日本を
共産化させないでそのかわりコリアンと朝鮮人に特権を与えて
日本を混乱させたんだ >>184
上流とは程遠いが職選びの嗅覚は大事だな
うちは父方→製紙工場で軍用の紙作り
母方→石炭掘り
で農家の生まれで長男でも無いのに両方兵隊に取られなかった 婆さんがB29に日本の戦闘機が突っ込んでいくのを見ていたと言ってた
B29は煙を吐きながら海の方に逃げて行き
戦闘機は墜落しないで基地の方に飛んでいったと婆さんは言ってた >>198
そうだねなんだかんだであの時とった行動はかなり運命を分けたな
だから今生きてる自分たちは本当にご先祖様には感謝しなきゃ
進学や職業選択一つ間違えたら赤紙が来てあぼーんだろ それにしても徴兵された組みも結局は選別されたみたい
それに徴兵期間が終わって戻った人がまた徴兵されたりとか
明らかに徴兵されやすい条件というものもあったと 沖縄在だけど、太平洋戦争末期に敗走する日本軍が住人から食料を略奪し婦女子を暴行する話しを何百回も聞かされたニダ。 >>202
それ団塊世代に対する皮肉だね団塊サヨクのバカっぷりを嘲笑った曲
まあ団塊世代も被害者ではあるんだが
学制改革が完了して
一番濃いサヨクの洗脳を受けてるから
教育はもちろんマスコミもナベツネや正力などのGHQの残した
負の遺産にどっぷり浸かってたし ガキの頃、爺さんの村にB29が落ちて搭乗員がパラシュートで降りてきたって聞かされた。
村人総出で山刈りして竹槍で突いて殺して川に流したそうで戦後MPが村に調査に来たそうだが知らぬ存ぜぬで通したとかいってた。
大人になってB29の喪失記録調べたが
爺さんの村周辺にそんな記録はなかった。 うちは軍人家系でひいじいちゃんは陸軍中将で近衛師団長だった。 うちの爺さんは舞鶴で待機中に終戦
血の繋がりはないが親せきに特攻隊長がいた それにしても戦争を知ってる世代ってその世代をくぐり抜けてさらに
子孫まで残しただけあって本当に賢い人が多いんだよね祖父のように
高等教育を受けた人間はもちろん義務教育までの人もすごく頭がいい
偏差値云々じゃなくて生き残る力というか
サバイバル的な生き方というかな でも団塊世代はマジでひどい昭和一桁の世代の人と同じ人種と思えない
世代間闘争とかそういうのは韓国を見ればわかる通り分断工作だとわかってるが
それにしても団塊世代とか団塊ジュニアの人材のなさは
GHQの制定した教育基本法と学制改革は本当に日本を壊したね じっちゃんが中国戦線に出兵してた
現在の中国共産党にあたる中国軍が野党化して中国の村を襲ってたので
村をなぜか日本軍が警護してた
中国軍野党はひどく残酷で子供でも平気で殺すから許せないってじっちゃん言ってた 戦争体験のあるおじさんに聞いたけど
銃を持って突撃した時、周りの仲間がバッタバッタ撃たれて倒れるらしい
悔しくて悔しくて泣きながらワーッ!って叫びながら走って突っ込んで行ったって 親父は20年4月の最後の予科練だった。
練習機も無くて本土決戦用に塹壕掘ってたと。 親父の田舎が高知県の足摺岬に近い田舎の漁村で空襲、偵察に行く戦闘機の航空ルート上だった。
田舎の漁村だから直接被害を受けることは無く、終戦時10才の子供だった親父は、他の子供といっしょに、偵察に行く戦闘機を地上から煽っていた。
でも偵察の帰りにはやらなかった、機銃の残弾打って来るから。追いかけられた子供もいたとのこと。(でも死者出てないらしいからたぶんからかい。)
子供心に、大本営発表はあっても戦局が芳しくないことは解っていた。広島に向こう50年草木も生えないものすごい爆弾が落とされたと伝わって来て怖かったらしい。
アメリカよりロシアを憎んでいて、北の国のやつらは信用するな、って言ってた。
戦後進駐軍が来たとき、英語喋れて通訳できた親父の兄はチョコレート貰えたが、他の子供はガムしかくれんかったらしい。 >>213
チョコとガム一緒に食うとガム溶けるらしいな じいちゃん
満州行く→一端帰国→帰宅3日後ばあちゃんと結婚
→更に3日後ビルマに出兵→数年後帰国→マラリア発症→胃潰瘍手術の輸血で肝炎→肝硬変→肝臓癌で80歳で逝去
曾祖父の兄弟→旅順で戦死
じいちゃん、口下手で結婚式でばあちゃんに銃の使い方とか話してドン引きされる
戦地では死んだ馬でも、蛇でもなんでも食べたって言ってた 子供の頃もう少し詳しく聞けばよかったと思うけど、喋りたくなさそうで子供心にも聞けなかったんだよな
後々聞いたらじいちゃんは戦争行ってなかったw
兄弟は南方で戦死したらしく、上司からお手紙来てた 親父はチビのとき、爺ちゃんに布団にくるまれて爆撃から逃げたってさ
兵庫の明石だけど マジ焼夷弾はやばかったよ
一瞬で周りは火の海
目の前で頭に直撃したおっさんにはちょっと笑ったけどねw
いやー、戦争はもういいわー うちの死んだ爺さんは掃海艇に乗っていたみたい
よく中国と往来してたみたなこと言ってた 満州で上官が捕まえた満州人の首を日本刀で切り落としてて、
お前もやれって言われて足が震えた思い出。
その先は知らん。 >>186
当然色んな病院にあったがリスクが高すぎて本人が承諾しなかった。
手術しなくても発作的な痛みが軽減出来るように色々尽力したが効果的な治療が無かった ばあちゃん
じいちゃんと結婚→3日後じいちゃん出兵
→じいちゃん不在の嫁ぎ先で家事から農作業、機織りまでこき使われる
→市街地から来る人間に高額で米や野菜を売って一家を養う
→じいちゃん帰ってきたけど顔忘れてて出迎えしなくて義母に怒られる
→93歳老衰で逝去 じいちゃんと持ち場を変わった瞬間、相手方の立ち位置が銃撃されて、その人ケツを被弾した 昭和19年の年の瀬ぐらいから海軍で台湾に配属された以外は言わなかったし聞けなかった
ここら辺じゃ台湾行くだけでも危険極まりないけど実際何があったのか今になって気になるようになった うちのじいちゃんはかなりの数の日本兵を殺ったって自慢してたわ
弾がなくなって突っ込んでくるだけだから簡単だったとか 抗がん剤でボケた爺さんに泣かれた
ガリガリの体見ると戦争思い出しちゃうらしい 祖父は嘘かほんとか痔持ちで徴兵免れたとか言ってたわ いつもこの季節にこんなスレ立つけど、田舎の農家に食べ物がいっぱいあるってのは珍しいと亡くなった両親が言ってた
二人とも農家の生まれで丁稚奉公までいた大農家だったけど、戦時中は食糧難だったので兄弟が何人か幼いうちに栄養失調で亡くなっている
畑の作物は根こそぎ軍に取られてしまうため、家族の食べるものはほとんどなかったそうです
買い出しに来る人が行き倒れて、近くの空き地に埋葬したこともあったとか うちのじいちゃんが9歳のとき空襲で殺された
B29マジ許さん 母親が爺さんから聞いたと言う歌
てれつくつくつくぴやどんどん
インドの土人は色黒く
シナのチャンチャンコは毛が長い
日本人は桜色
爺さんは高級官僚でほとんど戦争の被害はなかったとか。 >>230
オマイ、婆ちゃんの浮気の子で良かったなw 死んだばあちゃん(昭和10年1月生まれ葛飾国民学校)は疎開先の福島で苛められたってずっと福島を嫌ってた >>228
当時は痔を装って徴兵逃れする奴がいたそうだが
それか? 婆さんたち婦人会の奉仕作業で松根油を採りに山へ登ったが「こんなので飛行機が飛ぶわけない、もう日本はおしまいだ」って言いだして松茸狩りになった 戦後体験だけど
GHQの車にひき殺されそうになって田んぼに飛び込んだってキレてた リスポンした直後にヘッドショットで即退場した経験は何度もある うちのばぁさん100歳越えてるけどどの戦争の話が聞きたい? おれ40歳の団塊ジュニアのちょい下なんだが、団塊世代の母親が壮絶な幼少期だったな
まずサハリンで生まれて帰国事業で船の中でバタバタと死ぬ中やっとのことで北海道にたどり着く
生き残った家族5人で北海道の未開の森の中に斧一本で住み始める
父親(俺の祖父)が木を切り倒して家を作る
森以外を知らないで育ったが、そこが村になり町になった
今は廃れた町だが当時は遊園地もあってバブルのように発展した町だったらしい どうやらうちの爺様は
軽空母龍驤の乗組員で
沈没した際泳いで逃げたらしい
まぁ最寄の救難艇に拾われたんだろうが
ぶっちゃけ
じいちゃん、乗ってた空母の名前は?ん?りゅうじょう!
ってだけのやり取りだったからもうちょい詳しく話し聞いとけばよかったと
ちょいと後悔 父方の爺さんは農業や精米やっててなんか赤紙は来なかったみたい、謎
母方は海軍に入るも錦江湾で訓練してた頃に終戦で実戦経験なし 中国の餃子はデカイ
中国ではコックと仲が良かったからトンカツは3センチの厚みが有ったやつを食っていた
卵焼きは黄身だけのやつを食っていた じいちゃんがビルマに行ったけど戦争の事は全然話そうとはしなかったらしい 山形の田舎だけど伊達の家臣だった武家の子孫の豪農の蔵に憲兵が供出
(金属をかき集める)にきて蔵の武具を根こそぎ持っていったんだって。
蔵の金庫には門外不出の妖刀が眠ってたんだとさ。
伊達家の側近で罪人の首を跳ねる役回りや戦では先陣を切るような武士
の家に伝わる妖刀で憲兵がその刀をもって引き上げたあとに事件が起こ
った。
その刀を手にした憲兵の一人の気が触れて同僚を2人斬り殺して射殺さ
れたそうだ。
刀身6尺の斬首刑に使われた刀は今もその屋敷の蔵に眠っているそうだ。
夏の夜にじぃちゃんが毎年はなしてくれた。 曾祖父が町の名士で、業績を祝して銅像が建てられたのだが、戦争中に金属供出で撤去され、代わりに軍が金を出して石碑が建てられた。
そのせいか知らんが、戦後しばらくは博多大空襲の日にその石碑の前で慰霊祭が行われていたそうだ。
曾祖父は農業関連で財を成した人なんだけどね。 うちのじいちゃんノモンハン帰りだけど
大和ホテルの周りでロシア女買いまくった話ししかしなかったなー 亡くなった親方が、千葉から出撃で飛立つと同時に終戦
最後の最後まで日本は闘おうとしてたんだな
その後浅草寺を作ったり大臣賞を取って痛風だかで永眠 >>131
数年前に亡くなったおかんが、女子高生の時、学校から帰るのに、空襲警報で電車が止まってたので、仕方ないから線路を歩いてたら、機銃で狙われたと言うてた。鉄橋の下に逃げて逃れたとか。楽しそうに喋ってたな。 中国で戦闘後に喉が渇き
水の音がする方向へ行くと
死んだ人々の流血でできた
川の音だった
ニューギニアの山を越えてく途中
登り道から下を見ると先導してた
仲間が多数滑落し折り重なって
積もっていた ひいじいちゃんが24歳の時(1943年秋)に召集が来た。
妻と幼い長女を残して向かった先は、水戸にある歩兵第二連隊。
いまのひたちなか海浜公園あたりにあった練兵場で訓練を受け、
その後に北支戦線に投入、戦車に乗って八路軍と戦った。
(歩兵第二連隊の中でもペリリューに送られた部隊は悲惨だったと聞いた)
妻と子の写真をいつも胸ポケットに入れていたらしい。
北方防備のため転進した満州で終戦を迎え、侵攻してきたソ連軍につかまり、
現カザフスタンにある精錬所で過酷な労働を強いられた。
食事が少ししか与えられずみんな死んでいって、ひいじいさんは
捨ててあったアミを精錬所の厨房裏にあった排水溝の出口に設置しておいて、
流れてくるコメ粒、肉の切れ端や野菜くずを集めて食べていたらしい。
本当にみじめだったと言っていた。
何年か経った後、帰国の命が下り、輸送船で祖国・舞鶴の地を踏み、
実家で家族と涙の再会を果たしたそうだ。
このスレに来て思ったけど、もっと多くの話を聞いておけばよかった。 母方の爺さんは昭和元年生まれ、召集直後に終戦したので戦地には行ってない
‥という話だったんだが、亡くなった後大正13年生まれと判明
あれ?これ戦争行ってね?と思ったが、生前俺や親がいくら聞いてものらりくらりで詳しく聞けなかったので真相は藪の中
ただ父方の祖母が遊びに来た時は夜中まで2人で話し込んでたな 南極観測船の宗谷って船底が平らだから魚雷が当たりにくかったらしい。
他の船が魚雷で水柱を上げて沈んだ時、爺さんが乗っていた宗谷は無事だった。
あと、東北出身の兵隊は気性が荒かったとか、千葉出身はのんびりしてるからいじめられたとか。 >>256
帰ってこれてよかったなあ
ウチのジイさんは中央アジア方面に連れていかれた後、北朝鮮に送られた
1947年に亡くなったそうだよ ガ島で韓国人と台湾人に日本軍の
食料運びをやらせたら
韓国人は途中で荷物を開けてしまい
前線まで届かなかった
台湾人はまじめに届けていた
沖縄特攻警護飛行で九州を出たのに
途中から韓国の島へ飛び
戦後まで逃げ続けた人がいた
NHKの沖縄戦関係の特集などで
節子みたいな子供がぶるぶると
震えてるのが映るがあれは
沖縄ではなくサイパンの子供 『夏休み』
なんかへんな中学生右翼みたいなのが出没して
ホントの事を書いても、中学生の気に召さないと、嘘ツキとか
左翼扱いされるからシンドイです……
とにかく、態度が悪いし無礼だし、極力関わりたくないタイプだわ 家のかーちゃんは末っ子で、南の堺に住んでて大阪が空襲でやられた特
爺ちゃんに抱かれて逃げて爺ちゃんの背中越しに大阪が真っ赤に焼けてのが忘れられないって
長男は戦争から無事で帰ってきたけど、半年ほど誰とも何も喋らなかったらしい 母方祖父:工場奨学生の広大夜学卒でその工場に御礼奉公中召集。あんな厚メガネのモッサリが大丈夫なのかと周りに心配されつつバリ島方面へ。終戦後しばらくは同郷の仲間とジャングル生活(デンパサールってとこらしい)。
ある明け方海岸に出て魚とってるところをアメリカ軍に見つかってホールドアップ。収容所では学があるってことで運営事務に抜てきされて厚遇。帰国は他の人より遅れたけどアメリカ軍の余剰品をお土産に帰ってきてみんなビックリ。 慰安婦問題あるでしょ。韓国人女性はいたのは事実でもね日本人女性もかなりいたんだよ。家が貧乏で仕方がなく慰安婦になった人達がいる。戦争てさ何も良いものを生まないし残さない。今後日本は絶対に戦争に参加してはいけない。戦争が世の中の一番の悪だよ 爺さんが駆逐艦の艦長やってて戦死した
本家に飾ってあった二種軍装の写真りりしかったなあ
海軍制服の写真しかなかった気がする 軍医だったうちのじいちゃんは給料代わりにモルヒネ持って帰ってきて
終戦後届出しなかったから全部没収されたという話 >>244 当時は家の制度が有ったから長男は最期の最期まで徴兵されなかったらしいな >>265 保健婦の主たる募集先で在った花街の女性に為る境遇の人は日華事変以後には軍需特需で寧ろ減ってたんじゃ無いかな
だからあんなに高給だったんでしょ >>265 明治維新以来に於ける日本の農村の悲惨度は日清戦争の頃が最悪だったらしく
都市部が日清戦争賠償金ガッポリやら日露戦争賠償金無しやら第一次世界大戦でガッポリやら世界大恐慌やらで激しく浮き沈みしてた頃にも殆ど境遇に振れ幅が無かった
満州開拓で移動の自由と国庫からの援農政策が確保され始めた頃から農村の生活水準は向上し始めたので
第二次世界大戦の頃には花街に行かなければならない貧民は減少し始めて居た
その間も軍人軍属相手の慰問婦業は隆盛を極めて居たのを日本軍がドイツ式やフランス式に温厚政策で衛生管理していたら戦後に何故か韓国でだけタカり運動が勃興しただけだしね >>269
30歳過ぎてたら赤紙来ないよ
役所のミスで送られてきた人はいる、上原敏がまさにそれ
彼はそれを指摘すること無く、粛々と準備して戦地に赴いた 死んだ爺さんは戦争体験話したがらなかった
多分いやな体験あったんだろうなと察してこちらから聞くようなことしなかったんだけど
唯一話してくたのは長江だか黄河だかで乗ってた舟が沈められて溺れかけたってのがあった
大陸でなんかしたんかな? >>271おまけ 日本の軍閥政治を蛮族の狂信的暴動扱いして臭いものに蓋をした東京裁判史観では到底真実を理解できよう筈も無く
軍閥政権が貧民に依りクーデター的に生じた皇権にこそ挑戦しなかったが全く典型的な社会主義政権で在った事実はコミュニストの都合が悪くて明かされない
まあそう云う事なんだよm9(´・∀・`) >>272 末期は45歳まで駆り出されてたと思ったが 俺の婆さんの兄弟二人は、フィリピンとニューギニアに連れていかれて
どちらも餓死
戦死扱いだけど中身は餓死
ふざけた話だよな >>275
ああ、少し間違いがあるな
上原敏の場合は大陸での慰問活動等での実績があって、本来なら送られない立場だったんやな
役所がその辺を把握してなく、「松本力治」(上原敏の本名)として召集令状を出しちゃったと
https://www.youtube.com/watch?v=35bQL07Jrp8 都内に居た時は夜中の空襲でゆっくり寝れなかったけど、日光に疎開したらすごい静かで良かったって言ってましたー 爺さんが出征先から地元の水害義援金として5円送ったら検閲官に25円追加されて送られて地元で騒ぎになった 友達のじいちゃんが戦争中に空腹に耐えきれず隊長の飼ってた犬を皆でこっそり食ったと言ってた うちのカーチャンは広島で空襲に会ってすぐ側の倉庫が吹き飛んだとか
疎開してた山口からキノコ雲見たとかいつも話してる うちのじーちゃんは坊主だったせいで赤紙来なかったらしい パイロットだった叔父さんは
酒場で酔っ払ってた時に
変な契約書にサインさせられて
そのまま中東の国の外人部隊で
働かされていたそうだよ(´・ω・`) じーさんは中国戦線で敵前上陸させられたと愚痴ってた
皇軍が横一列でワーッ!!っと進んだら
中国の兵士はほとんど抵抗せず逃げ出して「勝った」んだとw 基本的に輸送船は撃沈される
徴用された商船のため潜水艦攻撃に反撃できないからだ
撃沈されると軍艦が助けに来るというか見に来る うちの爺さんはラバウル諸島のチモール島にいたらしいけど、戦争についてほとんど語らないで死んでいったな。マラリアで関節が悪くなり、背中には機銃掃射で弾がかすった傷があったな。終戦の頃はオーストラリア軍に捕まって捕虜になってたらしい。 敗戦時に大陸からの引き揚げの女性たちは暴行を恐れて坊主頭にしていたと親戚から聞いた 韓国人や朝鮮人は昔から
売春が国の伝統だった。
今の朝鮮人や韓国人の
祖母の95%は売春婦だったそうだ。
また国立の売春学校もあったし、
国家が外貨稼ぎのために
売春を大いに奨励していた。
韓国朝鮮では売春自体がありふれた職業の
一つだった。
韓国や朝鮮はそんな国だった。 >>275
母親の叔父が戦争末期に40歳くらいで招集されたそうだ。
自分のような年齢の者まで招集されるくらいだから日本は負けるだろうと内心覚悟したらしい。
ただし英語が堪能だったため、通信部隊に配属されて戦地に赴くことなく終戦を迎えた。 祖父は終戦の少し前に召集令状が来て、国内で待機してる間に終戦を迎えただけだけど、
召集された後は「お前らは捨て駒だ」などと言われたそうな 満州から引き上げようとした日本人を拘束したのは、中国共産党
寝返った奴のうち、教師などの「洗脳に使える奴」は優先的に帰国出来た 学徒動員祖母の話。悲惨にも終戦前日に空襲にあい、逃げる際、少し前を走っていた同僚の女高生の頭に直撃弾がヒットし、頭が吹っ飛んだそう。首がない身体が数十メートル走って、防空壕の前でパタっと倒れた・・・その光景が忘れられずに辛いと語っていた。 俺47歳なんだけどさ、
みんな戦死してることが前提だと思ってたから基本「お爺ちゃん」っていう存在がないのはデフォだと思ってたわけ。
たまにお爺ちゃんのいる家庭とか行くと、まるでドッジボールで最後まで残る1人みたいに、
うまいことチョロまかして逃げ切ったのかなとかそういうイメージがあったんだが、
実際には結構生きて帰って来てるみたいなんだよな。 シベリア帰還兵の祖父の話でもしようか
まぁしないんですけどね
俺も戦になったら戦うけれど、ないほうがいいわな >>306
山口県光市の海軍工廠の8/14空襲の話。学徒動員女高生130数名をはじめ730名が殉死。 今日じいちゃんが汗だくになって走ってきて「さっき目の前に銃弾が
通り過ぎてきたんだよ。危なかったよ」ってまた走ってどこかに行った。 内地勤務してると朝鮮人の兵隊もいるが日本名名乗ってるし誰が朝鮮人かわからない
彼らは終戦後知らない間に居なくなってあーあいつは朝鮮人だったんだなとわかった 昔、支那に出兵したバイト先の婆さんの親が
現地で支那人の首を斬り晒し首にした写真を
大切に保管してて、婆さんは怯えてたな >>310
80年代ぐらいにジリオンとか見てた40台半ばぐらいだったら計算合う 祖父の話だと、
呉に近かったので終戦近くには米軍機が頻繁に上空を通過してた。
たまに日本の戦闘機と空中戦があって、
流れ弾が飛んできて屋根瓦に当たって、その度に屋根瓦を交換してたそうだ。 本当に戦争は悲惨で危険だ
いまのアベセイケンをみていると完全に戦前の軍国主義の軍靴がきこえてきた時代と同じだと感じる
一刻も早く人民の手にセイジをとりもどすべきだ
団体職員(65) 満州の衛生兵だった爺さんが使ってた教本
https://i.imgur.com/ovbpvZw.jpg
https://i.imgur.com/tFOzvVc.jpg
四国の小卒の農家出身下級兵士にすら脳の解剖図が載ってるような教本持ってんだから
やっぱあの時代のアジアでは飛び抜けた文明国だったんだな、って
てか脳医学なんて戦後に発展した分野だと思ってた 土手に布団をかぶり東京大空襲を見ていたと親父が言ってた 54 名前: キャプチュード(SB-iPhone)@転載は禁止 :2015/07/17(金) 02:58:42.80 ID:LdiPyAzN0
ある日爺ちゃんとテレビを見ながら飯を食っていると
世界不思議発見だか何だかでラバウルが紹介されたんだ
でレポーターが現地の案内の人のおっさんに話しかけてると
突然爺ちゃんが「あいつ!○○だ!○○だ!」と叫び出した
ついにボケたかと思ったがテロップに本当にその名前が出た。
ビックリして爺ちゃんに詳しい話を聞くと、
戦時中はラバウルにいて
そのテレビに出てた、当時は子供のおっさんに
日本語を教えたり遊んだりしてたらしい。
そしてテレビでおっさんが当時の事を話した。
おっさん「私が病気にかかって高熱に苦しんでいると日本兵が当時貴重だった薬をくれた」
爺ちゃん「俺だ!俺だ!それ俺だ!俺!俺の事だ!」
とてもうるさい。
いい話でこれで爺ちゃんがテレビに出るんじゃないとか思ってたが
爺ちゃん「あれ薬じゃなくて歯磨き粉だったんだわ、あいつ馬鹿で信じてやがるwwww」
俺は誰にも言わないでおこうと決めた。 >>319
数学で一度だけ*で埋める年度があったみたい。
過去問でしか知らんけど。 母方のじいさんの家は軍需関係の工場やってて兵隊に取られることもなくそれなりに儲けてたらしい 終戦時、満州でロシアの捕虜になって抑留。
4年くらいかな? 学生の頃に、ちょっと日本語が不自由でいつも花柄のワンピースばっかり着てた子がいて、
中国人留学生かなと思っていたが引揚子女選抜で入学した子だったな。
長いこといると日本人なのに見た目も中国人ぽくなっちゃうんだね。 >>307
日本軍の戦死者4年間で200万人、民間人80万人とかだからね
当時の人口は9000万くらいでしょ
兵隊が10%としても900万くらいいたことになる
実はかなりが生き残ってる。特に中国大陸軍は 母方祖父は炭鉱夫で爆発物の扱いに慣れていたため前線へ行かず指導的立場
父方祖父は極度の近視のため徴兵されず じいちゃんは始動性のよいガソリンでエンジン回して軽油に切り替える研究をしていた燃料不足なのもあっての研究だった
当時はわからなかったけど今考えればできるわけねえと20年前に聞いたな今はもう聞けないわ
年に数回行くお客さんの93歳はいつもはB-29来るとサイレンなるんだけどたまに無い時もあってB-29から撃たれて知り合いが死んだ
浜で何かしている所かなりの上空から撃たれたみたいで狙えないだろうし運悪く当たってしまったんだろうとなぁと
親父は子供で食うものなくて他人の畑から野菜泥棒して食っていたとさ ラバウル〜ガ島を百式司偵で何往復も飛んだって方が居た。
高度は八千から一万メートル位で飛ぶらしいんだが寒くてかなわんかったと言ってた。
敵戦は恐かったとも言っていた。司偵に追い付く敵戦は無いと教えられていた様だが、戦闘機隊や攻撃機隊の戦闘状況は当然耳にはいる。
とにかく注意深く近付き滞空時間はなるべく短くし、バパッと写真撮って逃げる様に帰ったと言っていたのが印象的だった。 義理両親の話。戦時中は小学生だったが肥料や燃料に使うのに馬糞をみんなで集めていたそうです >>17
前に戦艦スレか何かに書いた人かね?
俺は叔父が近衛兵。
身内に近衛兵が居たって人は少ないよな。まぁ仕方ないが。 うちの母親は満州生まれだけど、終戦の結構前に
もう日本は負けるから外地は危ない、ということで
親戚が親戚が迎えに来て、普通に帰国した。 >>24
二十歳の時、下駄履き機で比島攻略戦に初出撃し、哨戒、船団護衛・・・南方ばかりを転戦しとった。
内地帰還は18年。水上機から戦闘機へ転科の内示が出とってな。
19年は「あ号作戦」。20年は内地に帰り茨城で教員をしながら邀撃任務をこなした。7月の終りに特攻隊を拝命したが翌月終戦。
ワシは厚木に呼応したかったが隊長がな。。それで終いじゃ。 天草人だけどウチの親父は子供の時長崎の原爆のキノコ雲見た言ってた 大阪在住のばあちゃんが小学生の頃、自宅周辺が空襲に遭い「B29がビュー!って飛んできて、バババー!って鉄砲撃ってきて、一緒に走って逃げてた友達の頭がパーン!と弾けてギャー!と叫んだ」と話してくれた。大阪人らしくやたら擬音が多かった 爺ちゃんは当時小学生で国分寺あたりに住んでいて
終戦日はプールに行っていたらしい
国民全員正座して玉音放送聞いていたわけじゃ無いんだな 東南アジア辺りで乗ってた船が沈められてしまう
浮力のある物にしがみついて救助を待ってる間に
仲間が何人もサメに襲われたと話していたな >>169
私の祖父はパラオからの引き揚げ組です。
敗戦でこれからどうなるかも分からず、明日への希望も見出せない中で、日本の船が迎えに来てくれた時の感激は、今でも思い出すと胸が熱くなるそうです
もしかしてあなたのお爺様の復員船に乗って帰国したのかもしれません。本当にありがとうございました
それと、復員船が港から出航する時に、大勢のパラオの人達が、蛍の光の大合唱で岸壁から見送ってくれた話はよく聞いて育ちました
歴史はあまり詳しくないですが良い関係を築けてたみたいですね 35年くらい前に聞いた話だな
祖母の兄がトラック(今のチューク)で米軍の空襲に対して離れ島から対空攻撃していたが
弾切れしてこのままだと何もできないといって海を泳いで本体の島まで泳いで逃げたといっていたな >>289
俺の叔父さんもパイロットだったよ。神崎って名前で最期はホーネットに乗ってたらしい うちのじいちゃん
フィリピン沖を漁船でフワフワしてたって言ってた
子供相手に真面目に話さなかっただけかもしれんが
毎日ずっと雲眺めてたら帰国の命令来て
でっかい船に乗せられて帰ってきたらしい うちの祖父は満州に行ってウマの世話してたって言ってたな
ションベンするとすぐ凍るんだとか言ってた
ウマの世話だから直接戦闘には係わってなかったらしい お前らは90歳になったら何を経験した生き字引になるのよ 爺ちゃんは戦争の話を聴いても、忘れたって言って普段は絶対語らない人だった。
でも酒飲んで酔っ払うと、泣きながら語るんだよね。婆ちゃんがその辺でやめてくださいって言っても聞かなくてさ。
虫や草、泥水飲んで飢えをしのいだ事、
大怪我して歩けなくなった戦友が泣きながら手榴弾で自決した事、木にもたれたまま動かなくなった隊長をゆすると、鼻穴や耳の穴から大量のウジ虫がドバッと落ちて来た事、
そしてお国の為にと必死に戦った兵隊を、虫ケラ同然に見捨てた軍上層部への恨み。
太平洋戦争末期のフィリピン戦線は本当に悲惨だったみたいだな。 じいちゃんが真珠湾攻撃に飛行機の運転手として参加してたらしい。
なんでも桜花?とかいう飛行機でアメリカの船を3隻爆破させたって。
普通の飛行機とは仕組みが違うらしく加速がすげぇらしい。
音速の壁と初めて突破したのは俺だって死ぬまで言ってたw うちは父方も母方も兄弟多数だが戦争行ったのは養子で来た人だけ
あと誰一人戦争行ってない。 >>332
うちのじいちゃんも近衛兵だったよ
近所の人に身辺調査もあったって聞いた
末期には外地へ送られたみたいだけど 飛行機の運転してるときは前より他の方向を見ることが大事だと言ってたな。
奇襲攻撃が一番強いらしい。
だから飛行機運転してるときは前を2、後ろを9の割合で見るんだって。 >>340
本人ぢゃ。
>>347
「Gパン主計ルソン戦記」を読みなさい シベリアで数年労働させられていた親戚の爺さん
集められた日本人に毎日作る物のノルマが決まっていて作らせていたが
途中から数日前に作った同じ物を倉庫から持ってきて混ぜてもバレなかったので
帰国するまでそれをやっていたそうだ じいちゃん(故人)の太平洋戦争(一部記憶違いあるかも)
シンガポール近くのどっかの航空基地に配属。
空戦で搭乗機が傷付き、基地に帰る途中で墜落するも、
うまく木に引っかかって助かる。3日かけて海沿いまで歩いて出たところで救出される。
フイリピンのどっかの基地に転属。
出撃したが撃墜されて墜落。海に落ち、13時間くらい漂流して無人島みたいなのに漂着。
通りかかった漁師に助けてもらい、陸路を辿って味方駐屯地に辿りつく。
基地に帰ろうと思ったらその基地は爆撃で壊滅してた。パイロット仲間も基地の人員もほとんど戦死。
とりあえず駐屯地で指示を待つことにしてたらそこが爆撃。
墜とされたパイロットに対する嫌がらせ半分で、
半地下の倉庫みたいなとこで寝させられてたらしいが、
それが幸いして倒壊した建物の下から2日後に救出される。
その後4日間歩き続けたりして味方基地に到着。
台湾の基地に行くことになり船に乗るも。その船がたぶん潜水艦の攻撃で撃沈。
8時間の漂流の後救助され、台湾へ。
つづく つづき
台湾の基地で出撃準備してたら、基地が爆撃されて持ち出してた弾薬が大爆発。
知り合ったばかりの同僚パイロットほとんど戦士。
トイレに行こうとちょっと離れたとこに居たじいちゃんは、
気がついたら基地横の草原まで吹っ飛ばされてて(無意識に走ったのかも)基地大炎上。
その後いったん大陸に渡り、満州に行くはずが線路がゲリラに爆破されたとかでとりやめ
釜山港経由で一旦帰国することになったが、
列車が遅れて乗るはずだった船はすでに出港。
なおその船は潜水艦に沈められて日本海で沈没。
とりあえず次の船で帰国。
九州のどこぞ基地で搭乗機待ちしてたら終戦。
徹底抗戦、 最後の一兵まで戦うべしと本土から出たこと無さそうな若い将校が叫び、
外地からの帰還兵がアホかみたいな事言ってつかみ合いの喧嘩に。
まぁまぁと仲裁に入ったら突き飛ばされて机にぶつかり、腕を骨折。
ブランとなった腕を見てみんな青くなりつかみ合いも収まる。
じいさんは従軍して初めて打撲、擦り傷以上の負傷を負い、
腕を吊って我が家に帰宅。 母方の祖父は戦地で人を食べたが
男より女の方が脂がのってて美味かったって言ってたな
父方の祖父は嫁子供を連れて台湾に逃げた腰抜けだった 8月と言えば何年かに一度、子供がいなくなって殺される事件がある。
寝屋川だったり三重だったり 亡くなった母は昭和13年生まれで栃木の農村に育ったらしいが
戦時中は都会からたくさんの子供が疎開に来ていた
東京大空襲の日は遠くの空が赤く見えた
玉音放送はまだ子供で意味が分からかなったが、周りの大人が泣いていた事だけ印象深く残っている
これらの話を8月によく聞かされてた 当時の朝鮮で、じいちゃんと一緒に出征する人達との出征直前に撮った記念写真が残ってる
その直後列車に乗ろうというところで終戦の知らせが届いて行かなくて済んだらしい
ただ戦後の引き揚げは朝鮮人との闘いで地獄の日々で無事帰ってこれたのが奇跡だと。
詳しくは語らんかったが例の二日市保養所の話につながるような事も日常だったらしいわ >>307
47歳でそんな見識のやつが居るなんざ信じられん通り越して感心する
小学校中退レベルのまま年を取っていってるんだな すげえわ 熊本から長崎の原爆のキノコ雲は見えたそうだ、その後、すごい勢いでその噂は広まったらしい。
暗号作成部隊の研修中に難しすぎて頭がパーになって首を吊った方がいらっしゃったそうです、南無。
人間は極限状態になると鼻血が止まらなくなるそうです、平和に感謝。 ばあさまが生まれたばかりのかーちゃんおんぶして
畑仕事してる時にキノコ雲見たって言ってたなぁ
@八代 お前ら爺さんから戦争の話聞かされているのに、
戦争法案反対とか言ってるパヨクには賛同しないのはなんでだろうな。
まあ自分もだけど 父方の祖父母は満州にいた
帰国するときには大変らしかったけど特になんということもなかった
母方の祖父母は長崎・五島の外れで漁師をしてた
あまりにも田舎…というか人里はから離れすぎていたので赤紙が届かなかったのか戦争には行かなかった
一応長崎なのに原爆の音やら雲やらも特に見聞きしてない
小学生の時の宿題で「戦争の話を聞いて来い」って言われて結構困った思い出 火垂るの墓見てたら、こんなもんじゃなかったって婆さんからのマウントでまったく泣けなかった 南池袋公園がリニューアルして綺麗になったが、あそこには昔防空壕があって、東京大空襲の時は大勢の人が避難してきたそうだ。
物凄い火炎竜巻でトラックが持ち上がって主婦の上に落ちたり、とんでもない状態で結局防空壕に避難していた人達は全員蒸し焼きになり、どうにもならなくて他の遺体もそこに全部埋めたそうだ。
4,5年だったかな、リニューアルの工事がやたら長くて中が見えないようになってたのは、今頃になって遺体の収容をしてたからなんだなと思った。
最近カラテカ矢部の『大家さんと僕』というマンガを読んでたら、大家さんが「サンシャインの近くに大勢の人が埋められてた」というセリフが出てきたんだが、あぁ〜これの事だったんだなと。
誰も気に留めてないみたいだけど、公園の隅に小さい慰霊碑があるので、立ち寄る機会があったら手をあわせてやってくれ。 旅先でたくさんのジイサンに軍隊生活の話を聞いたけど
楽しかった話が多かったな
20歳くらいの若者が集団生活するんだから楽しいんだろうな
悲惨な軍隊生活の話は売国マスゴミの作り話と思ってる >>351
近衛師団は二つあって、一つは戦地へ、もう一つは内地に残ったと教わった。叔父はラバウルだったらしい。
君の祖父と俺の叔父、もしかしたら戦友かもね。 片目が見えないことにすれば毎年何百万も保証してもらえると近所のじーさんが言ってた 戦争に直結した話ではないんです、小さいころに面倒見てくれてた婆ちゃんが
向島の遊郭で働いてたと最近知って驚いてる。
礼儀作法に厳しい人で、その後「江戸しぐさ」なんて呼ばれることは
ほとんど婆ちゃんから教わった。 オヤジが8年間兵隊に行ってて北支から始まってビルマで終戦を迎えた
軍人恩給を受ける時その記録をまとめたのが実家に残っていた
いつかは読みたいと思っていたのに実家に居候していた従兄弟が
惣領の自分に相談もなく総て捨ててしまった
自分や両親の思い出の品々も総て失った
火事か津波にあった気分だ。あの世で会っても絶対に許さん >>364
熊本から見えたという話はよく聞くけど
実際は長崎はあまりの曇天でそんなの見えるわけないわ状態だったというな
実際妻の祖父・祖母も熊本に住んでいて
当該時刻に外でお店の準備をしていたとのこと
あの日はすごい曇り空で熊本から長崎ガワを見通せた地域あったのだろうかと懐疑的だったわ >>332
じいちゃんの兄貴が近衛師団に所属してたけど、南方に派遣されるときに潜水艦にボカチン食らって戦死したわ >>53
S特かな?
背格好が白人みたくデカイ人や混血児や英語話させるのとか色々集めた破壊工作をする特別陸戦隊だな 日中戦争に行った祖父が言ってたが
前線の中国兵の死体は倒れた方向から見て、殆どが後ろから撃たれていたと言ってたな。
恐らく敗走しようとした兵を味方が撃ち殺してたのではないかと。 爺さんは満鉄職員で大陸で朝鮮族家政婦を4人ほど雇って快適な暮らししてたってさ 大日本共産党員だった爺ちゃん。担当は武器の密輸。
日本⇔上海の生活だったんだが、銀行を襲うM作戦と熱海事件で逮捕、網走送り。
熱海事件では拳銃を発砲して銃撃戦、何人か射殺したと言っていた。
網走では麦飯と羊や鱈と豊富な野菜を自給自足していたので、飢えの経験なし。
8月15日は看守から戦争が終わったと聞かされ、日本が勝ったと思っていたらしく
「俺を出せ。大東亜の人々が等しく平等にならねばならない。」と言ったが看守から日本の敗戦を知らされ号泣。
戦後は血のメーデーで服役。看守からお帰りの声を受け服役。
服役後は共産党公認議員として、しょぼい田舎の市会議員で人生を終えました。
また、葬式の時はキューバやソ連や東ドイツなどの世界中の共産主義国の大使館からの花輪で埋め尽くされ、中核や革マルなどの過激派、宮本顕治などが弔辞を述べ
斎場外では公安警察やなんかの情報機関が監視する愉快な葬式でした。
肝心の死因ですが、酒飲んで水風呂に入って心筋梗塞です。
ちなみい中国の歴史教科書に爺さんの名前が書かれていてワロタ 建具職人だった祖父は木で張りぼての戦闘機?作らされたって言ってたよ 40歳だけど小学校中学校の時の先生が戦中派が多くて
1時間授業をしないで丸々戦争の話をする教師が多かった 俺の出身小学校に機銃掃射があってバケツに穴が開いたらしい うちの爺さんは、少年戦車兵として訓練だけ受けて実戦は無し
右に曲がるときは右肩けられ、左に曲がるときは左肩けられ、止まるときは頭けられたってw 石ころひとつ押しかえしてやる!って無茶をした思い出 父は昭和4年生まれ動員されたけどそこで相撲みたいな力比べがあって
病弱で勝てなかった父を庇って自ら相撲に申し出てくれた人がいたらしい
母は昭和6年生まれ進学しても学校では飛行機作ったりして勉強はしなかったらしい 話さん人だったけど礼服らしき軍服で馬乗ってる写真あったな
戦地にはいかずにずっと本土だったらしいけれど >>379
母が疎開先の山鹿から西の空が真っ赤になってるのを見た、長崎の原爆の火災だったに違いないと言ってたが
たぶん大牟田の空襲 >>388
私の母親が社会科の教師で、そういう人だったらしい
学区から上がる中学にいたので私はそこへ通えなかったが、小学校時代の同級生によく言われた
家では戦時中の事を一つも話さず、何だったのか...母は早くに亡くなり、確かめられないままです 戦後は簡単に日本人とやれたってアメリカ人のじいちゃんが言ってたわ >>398
ジープでさらったその子は旧日本人だぞ
しかもそこ日本列島じゃねえから 俺の親戚のジジイは
自称通信兵ばっかでなあ
嘘くささまるだしで萎えるわw
アメ公100人殺したぜ!イェーイ!ってなジジイはおらんもんかねえ〜 終戦直後の朝鮮人の蛮行の数々は
もっと広めてほしい 爺さんが若かりし頃、東京大空襲の数日後に兄の様子を確認しに東京に行ったら物凄い臭いで足が止まった
なんだと思って差し掛かった川を見たら川面を覆うように浮かんで亡くなっている人たちの臭いだった
いまだにあの臭いと光景は忘れらないと言ってたな 船上で上官にセミのマネをさせられたとじぃちゃんが言ってた じいちゃんはクソガリだったから戦場に行かなくてすんだ 知人の爺さんは原爆をなんとか逃れたけど爺さんの兄弟が戦地に行き亡くなった
そのときはちょうど餓鬼的状況で亡骸は仲間の兵士達に食べられたと当時同じ部隊にいた人から聞いたと爺さんは言ってた >>402
自分の祖母も行方不明の妹探しに出て死体の山見てちょっとおかしくなったらしい
妹は深川だったから死体も見つからなかったそうだ 終戦後の秋に焼き芋食べようと焚き火してたら不発弾が爆発して火傷したとか聞いたことはあるな 子供の頃、タミヤの戦艦武蔵のプラモ作ってたら、じーちゃんが
「ワシはここで働いとった」と、船の側面の機銃辺りを指して話しかけて来た事があったんだけど
「あーハイハイ」と適当に流してたけどちゃんと話聞いときゃよかった >>35
ほんまこれや。迷惑ばかりかけてごめんなさい。優しくしてくれてありがとう、もっともっと真剣に話し聞いてたらよかった 日本人として朝鮮に憲兵の子供として住んでた爺さんは子供の頃日本人だからって朝鮮人のガキにいじめられてたと聞いたわ 母方の祖父が白マフラーと飛行帽子被った写真が俺に激似だったな
南方で飛んだまま帰らずだったそうだ 子供の頃じいちゃんの戦争中の写真見たが 今思えばかなりエグい写真だったわ 米軍の艦載機が先生の乗ってた列車を機関砲で砲撃した
小学校の時に何度も聞かされた 婆様:落ちる焼夷弾(クラスター爆弾)を観て「たぁまぁやぁ〜っ!」と叫んで曾祖母に殴られる
爺様:長崎に落ちた原爆雲を観た。あんなおどろおどろしい雲は、後にも先にもアレだけだった。と語ったが
佐賀県で見れるか!と周囲に馬鹿にされたが上空5,000mからだと250km先の水平線まで見れるからあながち嘘ではない 戦後に帰ってきてすぐに亡くなった父親方の爺ちゃん
まだ家に写真を飾ってあるけど
富士山をバックにして伏せた状態で荷物を背負って機関短銃を構えている写真だよ
多分戦地に行く前に最後にと撮ったんだろうな シベリアに抑留させられた爺さんは兵隊になる前大手の機械の設計をしてたので収容所での仕事が寒い外でなく暖かい室内でソ連軍の技師と一緒にしていた
昼食はソ連軍の技師と同じ物を食べてたそうだ
他の抑留者から羨ましがられて父と同じような人達はいじめられたのでソ連軍が他の抑留者達と宿舎を別にしてくれてたそうだ
ソ連軍から共産党に入れと言われたが爺さんは最後まで「うん」と言わなかったと婆さんが父と同じ収容所にいた人から聞いてたそうだ 祖父は東北のマタギだった事もあり狙撃が得意で、
ジャングルの木の上での待ち伏せや夜な夜な米軍陣地近くへの潜入を行い、
階級が偉そうな奴選んで狙撃して、ささっと撤収してたそうだ。
こっちが一発撃つと、火砲や機関銃で数百倍の反撃喰らうからダッシュで一目散に逃げないと死ぬらしい
狙撃で討ち取った米兵の数は100人を超える 爺さんがサハリンから戻って来れてなかったら、俺は存在してない 火垂るの墓の焼夷弾描写はマジリアルで
二度と見ないと言われた 親父の親父は身長足りなくて兵隊に取られなかったし
母親の親父は次男だったけど台湾に逃げてて現地で補給の仕事してたらしいな
だから母親は終戦後引き揚げたし親父も
別に疎開しないで生き延びたみたいだな
親父の姉の旦那くらいかな兵隊してたのは・・・ 福岡空襲は花火のごたあできれいやったばい
(うちのばっちゃ:談)
夏休み宿題の戦争体験聞き取りレポートではカットしました 109対0で負けてめっちゃ怒られた上に留年までしたらしい >>416
その原爆雲の真下に祖父母や父がいた
あれさえなければと思うが、なかったら多分俺は生まれてなかったんだろうな 爺さんが海兵隊で大砲の軌道を計算して角度を伝令に伝えるやつやってた
間違えると後ろに立ってる上官が棒でぶっ叩くって酔っ払いながらいつも言ってる 母から聞いた話
小学校に米軍戦闘機が来て機関銃乱射
先生や子供が何人も撃たれて死んだ
ちなみに都会から子供が疎開くるような場所なので兵器工場ではない
機関銃打てるなら普通に目視で工場なのか学校なのかわかるはず。
つまりただの虐殺 >>80
そう
実際に戦争に行って頭に銃弾受けて帰ってきた爺さんは何も語らずだった 両手を上げても捕虜として扱われない今のほうが戦場だよ 認知症のグループホームに訪問した時の話
みんなで自己紹介しあう時に90歳ぐらいのお爺ちゃんが
「〜師団 〜等兵 〜であります!」
とピシッと背筋を伸ばして自己紹介してました。 海岸線の町で人間を機銃掃射は酷いよな
まさに鬼畜米英 しょうゆ弾をたくさん落とされてそこら中火の海になったんだって >>5
それは戦友を踏み台にして帰ってきたから
実力で生き延びた亡くなった祖父は聞いたら教えてくれた
前もって行程を調べなきゃいけなかったけど 茨城県の沿岸にまでアメリカの軍艦が来て艦砲射撃をするようになっていた
婆ちゃんの弟はその砲弾の破片に当たって死んだ 満州からの引き上げ話はこっちが息苦しくなるよう
ソ連軍が追ってくる中にっちもさっちも行かないところで本土行き船をつかまえたというくだりは
こっちが胸を深くなでおろす うちのじい様は佐世保で山都の砲弾作ってたっつってた。
長崎の原爆投下の1週間後に片付けに動員されたそうな。 軍医だったじいちゃんはいわゆる「731部隊」にいた。
じいちゃんから聞いた話は絶対に書かない。 東京大空襲の時、山梨県では夕方くらいの明るさになったそうです 東京大空襲の真っ只中にいたお祖母ちゃん
すぐ前を走ってた人が焼夷弾の直撃受けたって言ってた
お祖父ちゃんはシベリア帰りなのでロシア語が少し話せた >>444
地元が静岡市から中間に山があり西に25キロくらい離れてる
静岡市空襲の時は同じように明るくなっていたと両親が話していたよ
いまは夜景のせいか空が少し明るくは見えてるけどね 馬鹿にするつもりはないけど面白いから書くw
親戚筋の人に酷い吃音の人が居る。この人が徴兵検査の時に名前を呼ばれても吃りで返事が出来なくて、後ろに並んでた人が
「オラッ!キサマじゃ!返事せい!」とばかりにその人のケツを蹴りあげたら、やっと返事が出来たらしい。 小学1・2年の時に そんなに親しくないクラスメイトの家に偶然入った
そうすると老人が出てきたのだが 目がなかった
眼球自体なくなっていたのだろうか まぶたもなく目が窪んでいた
(ああ 戦争で亡くしたんだろうな)と思ったが 旧友はその老人を見られたのが嫌だったのか
ものすごい剣幕で追い出され 翌日もクラスで「そんな老人はいない」と否定し自然に絶好されてた うちは祖父がシベリアに拘留されて命からがら帰ってこれた
祖母は満州で逃げ遅れて家で赤子と隠れてたら銃もったロシア兵が入ってきたけど
見逃してもらえたらしい
でも赤子は日本に帰る船の中で亡くなったとかなんとか
壮絶すぎる うちのトーチャンは陸軍で戦争が始まると西へ西へと移動
北九州の門司まで行って今度は東へ東へ移動
何故か錦帯橋の写真があったそして広島の呉で終戦を迎えた
今思えばあと数日ズレてれば広島で原爆喰らってたんだな >>1親類が石井四郎
戦争の時の某写真があるらしい 祖父は掘立小屋建てたりしていただけだったらしいよ
(´°ω°`)
97で昨年亡くなったわ。 親父が終戦時10歳、親父の一家は東京下町で町工場やってた。当然、東京大空襲で家は燃やされた
頑丈に作った防空壕の真上に焼夷弾が落ち、周りが火の海になりそうになったので逃げることにした
親父一家はみんなが逃げる方向と逆に逃げて行って全員助かった
家を失い、親父の母の実家の新潟に疎開し、そこで原爆投下を知る、その後、
新潟市内で米軍が新型爆弾の次の投下先に新潟市を狙ってると噂が流れる
親父一家は念のために夜は新潟市郊外の原っぱに移動してそこで野宿してた
最近テレビで次の原爆投下先候補に新潟市が上がってたと聞いた時にはビビったわ
親父は野宿してた場所はそんなに離れてないから本当に新潟市に原爆が投下されてたら全員死んでたと言ってた >>410
武蔵の生存者なんて確か数十人とかだろ
武蔵沈没(自沈)の時にはかなり生き残ったが、その殆どが別の戦場で戦死してる
嘘っぽいな
本当だとしても建造の時に携わったとかだろ 市の終戦何年だかのときに戦争の写真があれば貸してくれって話があって
一式提出したら掲示を断られたとのこと。
他の写真は全て抹消されたんだと。 >>456
平和ファシズムだな
リアルすぎてヤバいと。結局スミ塗りになったのも平和になってからだもんな
隠せば良いというものではないのに・・・
こういうことがあった、と伝えるのが大事なのに >>436
ドイツのドレスデン空襲の時は逃げ惑う女子供まで
機銃掃射で殺してたそうだ
人種差別の激しい時代にも拘らず同じ白人相手でも容赦なしという… >>420
俺のじいちゃんもそうだな。でも強肩だったから主に手榴弾投げてたらしい。自分の投げたやつで足吹っ飛んだ敵兵とか、食料調達の時に敵のプロペラ機から狙われそうになったから即席ギリースーツで隠れたとか…
お盆帰ったら花札と麻雀で遊ぶん。負けて金とられるけど 雛人形職人だったじい様は中島飛行機で戦闘機作ってたって。
そのお陰で戦地へ行かずに済んだわけだけど、そら負けるわな シベリア帰りの別の親戚の爺さん
何年もシベリアにいたので寒さに慣れて
日本に戻ってから真冬でもシャツ一枚で過ごしていたよ
職人だったので真冬に若い弟子が外仕事で寒がってると
川の魚は真冬でも寒がって無いぞと怒ってたそうだ >>458
シナチョン人みたく戦争だからいつまでも恨みにとかは思わんけれど
明らかな戦争犯罪してるのに自分達は認めずに日本にだけ云々言うゴミカスは本当に腹立つわ
まさに下種 >>462
確かにな、中国人や韓国人があれこれ言い出すと
まるで正義の味方のようにアメリカがしゃしゃり出て来るのにはさすがにな
そもそも韓国人の自称慰安婦のジープとヘリコプターで女狩りって
それ朝鮮戦争時の米軍だろうに
第二次大戦時の日本にジープとヘリコプターなんてほとんどないわ 飛行機乗りだったけど空母が沈んで駆逐艦に助けられたって言ってたな
海に浮かんでる間は何かに掴まって動かない人の方が助かったって言ってた 俺の親父は豊川海軍工廠に学徒動員されていたらしい
本人は多くを語らなかったが
最後の空襲の際は地獄を見たと思う >>199
月光ですな。対B29用に日本が独自開発した斜め銃を積んでる迎撃戦闘機。
地上の対空砲じゃ届かんし、戦闘機じゃその高度まで揚がれんし、
じゃあ、戦闘機に対空砲積んで近づいて撃てばいいんじゃね?って発想。 >>441
あしたのジョーの作者ちばてつやは「満州からの引き上げ船の中で弟が一人死んだ」って言ってた >>467
元横綱大鵬は樺太からの引き上げ船の中でカーチャンが腹痛を起こして途中で下船
するとその船が直後にソ連の潜水艦に沈められたという数奇な運命の持ち主 シベリア帰りの人と話す機会があり、
何が遭ったのかか質問しても教えてくれなかった。
しっこく聞いたら一言、
「人間が信じれなくなるよ」と言っていた。 >>186
破片が入り込んでる場所によっては現代の医療でも手が出せないこともあるんだよ無知 とっくの昔に亡くなったけどうちの父方の爺ちゃんは
(徴用された?)民間輸送船の船員でインドシナのどっかで
ずっと足止めされてて南国フルーツ食い放題
伝え聞く内地の食糧事情情報に「うはっ、何か申し訳ないww」
と思いつつやっぱりフルーツを食いまくってたらしいw
母方のやはり亡くなった爺ちゃんは戦時のドサクサにまぎれて
材木関係の政商として一旗揚げようとして軍関係を接待しまくるも
終戦ですべては夢と消え後はぼんやりと生きていくのだった・・・ 爺ちゃんは腕利きの大工だったから、中国人に「帰るな。娘貰ってくれ」と引き止められたらしい インド洋のサバン島に行くことになった知り合いの爺様
出兵する前に村長に「サバンに行く」と教えたそうだ(本当は言ってはならない)
サイパンが陥落した時、村長が聞き間違えて、死んだと言いふらして、葬式まで済ましていた。
そんな中、ひょっこり帰ってきた彼に家族が一言、
「なんで、帰ってきたんだ」言われたとそうだ。 聞いた話
都内の公園で野球場に穴を掘り
空襲での死者が埋まっている
聞いた話
都内桜並木の道に
空襲での死者が埋まっている
ただ石碑も供養塔もない 戦死した大叔父はルソン島のクラーク地区で航空隊に配属されていたそうな
空か陸で米軍と銃火を交えて亡くなられたなら未だしも、もしも最期が餓死だったらと思うとやるせない気持ちで一杯になる 聞いた話
中国で女子供関係なく撃ちまくったと豪語したジジイがいた
大往生したが本当嫌なジジイだった この前、店番してたら近所の常連さんのばあちゃんが江田島に行くと
言ってたので、何しに行かれるのですって聞いたら
兄が軍艦陸奥に乗艦してたので、
その慰霊祭に行くって言ってた。
びっくりして話を聞いてみたら何の情報も無く、単に死亡通知が届いたって。
ただ、生前届いてた葉書が軍艦陸奥からの郵便物だと言ってくれた。
ご近所さんからそんな話が聞けるとはなー、と思った。
ちなみにうちのじいちゃんは昭和十九年11月に小笠原諸島近海にて戦死
駆掃艇とかと言う紋章付かない艦に乗艦してたみたい。
出来れば何の作戦行動中だったか知りたいわ
いずれにしてもじいちゃん、お疲れ様。 >>465
うちの母方の爺さんはそこで亡くなった
終戦の一週間ほど前らしい 沖縄広島長崎だけが悲惨だったわけやないぞ
首都や大都市かて焼夷弾の雨あられやで >>485
原爆で亡くなった広島、長崎の死亡者人数を合わせても、東京大空襲の死亡者の数のほうが多いとか聞いた。 >>480
東京はそういう場所ばっかりだと亡父から聞いた
身元不明の遺体の処理に困ってあちこち埋めたから、当時をわかってる人はその場所を工事したり深く掘ったりはしなかったとか
霊感が少しあるので東京に遊びに行く時は夜中に外に出ないようにしている いつも思うのですけど・・・
東京大空襲の明けた朝、天皇陛下は何を食べていたのだろうって・・・
なんとなくですけどね ウチのジーサン(故人)は内地でタイヤ盗んだか横流しだか忘れたが酒に変えて飲んだって言ってたなw
ちな、当時から車の免許持ち ドイツ人の爺さんは、ロシアにナチスのスパイとして潜入してたらしい。 昭和20年の春先、小田原上空に数百機のグラマン機の大編隊出現
そこにたった一機の日本の戦闘機が突撃、大空中戦を繰り広げた。この時の戦闘は祖母を含めた数千人の小田原の人達が目撃している。 父方のじいちゃんが、「殺らんと殺られるから何人か殺った」ってボソッと呟いた
凄味があった >>443
よく言われてることはホントか嘘かだけでいいから教えて 疎開を決めて荷物を先に送って後から家族で移る3日前に終戦をむかえた俺のかーちゃん
荷物を送ってしまってたから予定通り疎開先に移って結局7年間そこにいた >>356
生き残った人それぞれに軽い言葉で失礼だが色々なドラマがあるんだろうな
しかし現場の人間を軽んじる、使い捨てという伝統は
日本人のDNAみたいなもんなんだろうと思う 駐車場を借りてる地主の爺さんの話だと
上海に上陸して街に行くと電柱という電柱に中国人の首吊り死体がぶら下っていて酷い惨状だったと聞いた >>494
撃墜された疾風のプロペラ使った慰霊碑が小田原の山の方にあるよね。 婆さんの子供の頃に近所に住んでた朝鮮人一家はすごく優しくていい人だったのに村八分にされて毎日泣いてたらしい。
婆さんは国や考えが違っても絶対に中身を見ずに人を嫌うなとよく言ってた。 >>502
火の山に登った事あるが知らなかった
頂上の回転レストランで飯食ったのだけ覚えてる うちのじいちゃん北海道の函館の方だったから空襲とかはほとんどなかったらしい
もちろん成人した人とかは駆り出されてたらしいけどその頃中学生の年だったから無事だった
なんちゃら岬に砲台運んで軍人に遊んでもらったってのが思い出らしい >>1
199X年、地球は核の炎に包まれた。
人類はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。
沖縄独立を掲げる活動家連中の破壊工作でシュワブ基地からスペースコレニーが墜ちてきてオーストラリアのシドニー周辺が消失したが、実は南米を狙ったものだったのだと婆ちゃんから聞かされた うちの爺さんが尋常高等小学校(14歳)の時
教室に志願兵を集めに軍人が来た
そこで爺さんは志願したが
訓練中に終戦を迎えた
「何で志願したんや」と聞いたら
「そうせざるを得ない雰囲気だった」と 広島で原爆を喰らって命からがら逃げた先が長崎で
2発も原爆喰らったけどそれでも長生きした爺さんは
オレは運が良いんだか悪いんだか良くわからんと言ってたな うちの爺さんは少尉としてジャワに赴任したときに下士官食堂で偉そうにしてたら
後ろから上官にどつかれて部屋に連れて行かれ
「弾は前からだけ飛んでくるわけじゃないんだぞ!!」ってめっちゃ怒られたそうな >>443
今、食後の休憩中だが
731部隊のまとめを読んで
気分が悪くなった 茨城に住んでいた祖母
群馬太田の飛行場(中島飛行機)を爆撃に行くB29の編隊が上空を通過
帰る時、護衛のグラマンから機銃掃射受けて、
田んぼに飛び込んでやり過ごした 先の戦争ではほとんど街が焼け野原になったけど豊臣秀吉が復興してくれたらしい ベトナム戦争から帰ってきたら、村の連中から
よそ者扱いされてリンチを受けたんで山の中に
逃げ込んで村人を滅多滅多にやっつけてやった >>510
終戦後、舞鶴に向かう船では夜中に偉そうにしてた元上官が居なくなった話しは爺様連中からよく聞いた。
口々に「聞いた話しだが」と言ってたが、たぶんやってる。 沖縄
女子高校生が50人のヒメユリ部隊
機関銃で全滅 水戸のばーちゃんが艦砲射撃の青い光だか火だかを見たとか何とか
>>112
100歳近くても受け答えはしっかりしてるけど話が長くて…
一回の会話で3回ループするし >>494
地元の上空でも米軍機に日本の戦闘機が突撃して落とされたよ
見ていた人の話だと町に落ちかけてた機体を山に向けて墜落したと言ってた
今でも墜落した山に慰霊碑があるよ ひい祖父さんが中国に行った途端に終戦で、
中国のガキが日本の札を首から山ほど下げてたって言ってた 何回目かも空襲のさなかもう逃げるのウンザリといって
布団から出てこなかった姉妹の話し
今も元気です 俺の母方の爺さんは米軍の攻撃で土砂が崩れたとかで生き埋めになって、仲間が必死に掘り出して助けてくれたそうな
救助の際、仲間のスコップが爺さんの手に当たった時の傷が残ってた
母は戦後の生まれだから爺さん助けてもらえてなかったら俺も生まれてない >>334
そんな話し方する人間がいるかよ バーカ 原爆の被害って放射能を抜きにすると、主に火事によるものが主なんでしょうか? 北朝鮮の状況を見てるはずなのに
日本も核武装とかよく言えると思う、池沼レベルの脊髄反応
尊い命を犠牲にて存在している今を理解して半歩でも歩一歩でも祖先が喜ぶ道を歩みましょう。 登戸でロケット戦闘機(秋水)の燃料を研究していて
どれくらいのエネルギーがあるか少量なら問題なりだろうと屋上で実験したら
大爆発して、敵の奇襲だ空襲だと大騒ぎになって大目玉をくらった。
恩師の戦時中の話。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています