沖縄の企業が持ち運び可能なサトウキビ絞り機を開発
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各種機械や金型製作の祥メタル製作所(うるま市、桑江祥子社長)はこのほど、「さとうきび絞り機Sミニ」を開発した。
一般的に使われている搾り機の約半分に軽量化し、持ち運びを可能とした。
総重量は34・5キロ。
搾汁率は60%。本体と、ローラーを含めた部品の取り外しが簡単にでき丸洗いもできる。
本製品は関東でさとうきびジュースを販売する女性の要望により開発された。
これまで搾り機を沖縄から船で運んでいたのを飛行機で運べるようになり、イベントで出張販売する時にも簡単に持ち運べるようになったという。
桑江社長は「かなり軽量化したが、従来のものとほぼ変わらない搾汁率だ。本体と部品を簡単に取り外せる搾り機はこれまでなかっただろう。手が届かなかった所まで洗えるので衛生的だ」と話す。
また、通常の搾り機のローラーを動かすにはチェーンを使うが、同社の製品は歯車式。
川平勲工場長は「チェーンは消耗品ですぐ壊れる。歯車にすればほぼ摩耗することなく長く使える」と話す。
桑江社長は「おいしい、安全は当たり前で、今後は衛生面やメンテナンスが重要だと思う。客のニーズに細かく対応した機械作製に取り組み、沖縄県内のものづくりの底上げができる企業になりたい」と意気込んだ。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-745238.html
https://030b46df30379e0bf930783bea7c8649.cdnext.stream.ne.jp/archives/002/201806/c91e61eb04cfde1277dca4ac44461f84.jpg 搾汁率60%て結構残ってるな
絞り過ぎてもエグ味とかが出んのかな 途上国に行くとサトウキビを絞ってジュースにする屋台とかあるけど
味自体はただの砂糖水でがっかりするんだよな。 東大阪で頼めばハンドシュレッダーぐらいの大きさでできる。 琉球と薩摩、島津氏との歴史的関係
1441年
島津は、室町幕府に謀反を企てた大覚寺義昭を討ち、その恩賞として琉球を与えられた(嘉吉附庸)のちに島津の捏造と判明
1481年
室町幕府、島津の印判を帯びない日本商船の琉球渡航を勝手に禁じる。
1516年
室町幕府は備中三宅國秀に琉球遠征を許可するが、島津がこれを妨害。
これは島津が琉球側に恩を売る捏造事件と判明。
1534年
島津から琉球にもたらされた書簡に
「三宅國秀を坊ノ津で殺害したのは、琉球との同盟の故」とキモいラブレターが届く。
1575年
琉球が派遣した島津義久の相続を祝った
(綾船)を島津側が不服とし一旦拒絶。
それ以降、友好的に振舞っていた島津側が、一転、琉球に対する態度が威圧的なモノへと変わる。
※関ヶ原の戦い以降さらに琉球王国への八つ当たりが厳しくなる。
1582年
秀吉、亀井茲矩に全国統治後、琉球を与えると約束する。
1587年
島津、秀吉に敗れる
1588年
秀吉、島津を介して琉球に入貢を促す。 1591年
秀吉、亀井氏の琉球遠征を朝鮮侵攻に差し支えるとして中止させる。琉球は、朝鮮出兵は宗主国である明との関係を悪化させるとして、島津側の出兵を拒否する事を決定。
ただし、しつこいので兵糧米の半分を提出する。秀吉、琉球を島津の「与力」とする。
秀吉への紋船派遣は進上物が粗末だと帰国させられる。
1593年
義久、しつこく琉球に食料輸送を督促。
1594年
琉球は明との関係と王府財政の窮状を島津に訴え、兵糧米の提出を断る。
1598年
秀吉死去。朝鮮出兵は終わり
1599年
琉球元気に、明へ尚寧の冊封、襲封を請う。
1600年
関ヶ原の戦い。島津なにげに西軍にいる。
戦い不利とみるや、ヤケクソ敵中突破を図り、東軍をドン引きさせ九州へ逃げ帰る事に成功。 アニメドリフターズでも、親族一同ぶっ飛びキャラにされる。
1603年
家康、征夷大将軍となり江戸幕府をひらく。島津琉球漂着人を送還し、幕府への返礼を要求。琉球は臣下への布石だとしこれに応じず。
1604年
島津、琉球は薩摩「附庸国」との認を示し、返礼を要求。しかし琉球これを無視
1606年
家康、島津の大島出兵を許可。しかし実行されず。琉球、明からの冊封使来琉。中山王に封ず。島津、琉球側に明との仲介貿易を以来。無視される。
1609年
島津琉球侵攻
以降、近代史稀に見る
搾取史をやってのける薩摩です。はい サトウキビ絞るよりそのままかじって食べた方がうまい 34.5キロってか?w
搾ってるオバハンの1/3くらいだな 消防のころ学校に生のサトウキビが贈られたことがあったな
当時としては美味かった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています