X



金持さんの遺品見つかる 遺族の情報提供呼び掛け
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001 ◆mZB81pkM/el0 (茨城県) [US]
垢版 |
2018/05/14(月) 16:19:50.10ID:bQTH3JZ30●?PLT(13345)

沖縄戦戦没者の遺骨収集に参加している浦添市の西島恵歴さん(27)=守礼ホーム社長=が4月下旬、糸満市米須にある日本軍壕跡で「金持清」と名前が書かれた万年筆を発見した。
西島さんに遺骨収集の手法を教えながら戦没者の遺骨収集活動に取り組む「沖縄蟻の会」の南埜安男さん(53)=那覇市=が日本軍関係者の資料を調べたところ、同じ名前の戦没者が存在し、遺族住所は秋田県と宮城県の地名2カ所が記されていることが分かった。
西島さんらは遺族を探し、手元へ返したいと情報提供を呼び掛けている。

万年筆が見つかった現場は、南埜さんが遺骨収集を続けている米須の日本軍陣地壕の内部。
祖先や戦没者を大切にしたいとの思いから、遺骨収集に参加する西島さんは、昨年9月ごろから南埜さんに遺骨収集の手法を学んできた。

壕内から西島さんが見つけた万年筆は全体的に黒く、金色の文字で「金持清」と記されている。近くで「ナガイ」と書かれた三角定規も見つけた。

南埜さんが「有川主一小伝」など沖縄戦に参加した元日本兵の関係資料を調べたところ、同じ名前の伍長が「昭和20年5月25日」に「稲嶺」で亡くなっているとの記録があった。
遺族住所には秋田県の「尾去沢町尾去沢鉱山」と「宮城県栗原郡鶯澤村」の2カ所が記されていた。

これらを手掛かりに西島さんは「まだ遺族がいるなら返還したい」と情報提供を呼び掛けている。

情報提供や問い合わせは西島さん

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-718161.html
http://030b46df30379e0bf930783bea7c8649.cdnext.stream.ne.jp/archives/002/201805/5bdb45a8c053868b4ef2e4ff4107c9c0.jpg
http://030b46df30379e0bf930783bea7c8649.cdnext.stream.ne.jp/archives/002/201805/64b7bfab2b73386f1e49026418aef525.jpg
0004名無しさん@涙目です。(catv?) [US]
垢版 |
2018/05/14(月) 16:28:07.84ID:JlWUBwo10
鳥取県には金持神社がある
0005名無しさん@涙目です。(やわらか銀行) [ニダ]
垢版 |
2018/05/14(月) 16:30:20.83ID:k5b/vezM0
>>2
金持氏(かもなもちし、かなじし、かもちし)は、日本の氏族のひとつで伯耆国日野郡の在地領主。
鎌倉時代には伯耆守護を務めた。
伯耆国日野郡金持郷を本拠地とする一族で、本姓は藤原氏。
平安時代末期にかけて日野地方の特産である砂鉄の力を背景に成長、早い時期から源頼朝とのつながりを持ち、鎌倉御家人となった。

諸史料によれば、文治2年(1186年)頃には金持某が守護職を勤めていたとされ
元久2年(1205年)頃には金持広親、承久3年(1221年)頃には金持兵衛尉の名が守護として見える。
伯耆の有力武士として成長した金持氏だが、宝治元年(1247年)の宝治合戦で金持広綱が三浦泰村に与したために一時所領を没収された。
『大山寺縁起』によれば、広綱は合戦後、しばらくして赦免され、勢力を回復したという。

元弘3年(1333年)の船上山合戦では金持広栄が一族・郎党300余騎を率いて参加、
同年4月の六波羅探題攻略軍には金持家武が加わり奮戦した。
また、金持広栄は建武新政府より相当な処遇を受け、武者所結番などの職が与えられた。
金持氏は南北朝時代に入り、後村上天皇の代になっても引き続き南朝に仕えたが
伯耆の本拠地は山名氏の勢力下に入っており、徐々に勢力を衰退させていったと考えられている。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況