大谷吉継「お前は人望無いから、誰も言う事聞かん!」石田三成「太閤の御恩が〜!」
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
人望無い事は無いんだけどな
凄い好かれるか凄い嫌われるか両極端 出世する為にゴマスリはリーマンでもやるが、
三成は秀吉にしか好かれなかった滋賀作 そして担いだのが毛利輝元じゃな
天下分け目の大戦さで西軍の総大将なのに
彼の判断は「動かない」 アホか 人望がないとちゃうやろ
家康にまんまとはめられただけ >>19
三成は自分が大将になりたかったんだが、
そうすると味方にしなければいけない武将まで、
喜んで三成の敵に回ってしまうから、
大将は毛利か宇喜多になって貰え、
って大谷吉継が助言したから従った。
但し、戦場で指揮を執ったのは三成。 「相手は百戦錬磨かつ大大名の徳川家康だぞ相手が悪すぎるやめとけや」って諭そうとしたのも大谷吉継だっけ 五奉行と島左近の言うこと聞いてりゃね
天下分けめの合戦に奇襲はダメだとか言って無けりゃね >>16
主に性格だな今で言うコミュ症だったんだろうそれを上手く表してる逸話があって
石田三成と細川忠興は仲が驚くほど悪くて流石に改善したいと思い前田玄以に仲介頼んで一席設けて貰ったそうな
んで既に待っていた忠興に盆一杯の柿突き出して
三成「柿好きだって聞いた俺の事は気にせずたらふく食ってくれ!(゚Д゚)」
忠興「・・・(#^ω^)」
玄以「(′Д`;)」
てな感じらしい
相手が精神的に余裕があり悪気がないと分かってる人以外付き合うのはきつかったのかもな 大谷吉継ってライ病じゃなく梅毒説があるけどどっちだろ >>30
ただのアスペルガーじゃないか
そりゃ人望なんてものとは完全に無縁 農民石田は所詮貴族気どりの連中に嫌悪されていただけだよ >>32
戦闘シーンだけで良いから撮り直して欲しい >>30
おもしろいね
強い信念はあるけど不器用って感じなんかな
だからこそ目先の利益や保身でブレないという信頼も勝ち得たんじゃ
秀吉や吉継、兼続、佐竹には信頼されたわけだし >>34
あくまで逸話で人望無い訳じゃなかったろうけどな
善政布いて領民には慕われてたし大谷含め佐竹、兼続、真田信之etc.とも関係良好だったし
言ってる事は解る確かに正論で解るんだけどなんでこんなに腹立つんだろってタイプだったんじゃろ多分 安部龍太郎の小説だと
三成は実は秀吉嫌いで信長シンパってパターンがあるな
信長の血を引く淀君と秀吉の実子ではない秀頼の為の戦いで関ヶ原 宇喜多が大将格だったが、死んだ三成のせいにされた可能性もある 秀頼がもっと早く生まれてたら相当違ったんじゃないか >>41
>言ってる事は解る確かに正論で解るんだけどなんでこんなに腹立つんだろってタイプだったんじゃろ多分
頭は切れるけど人望がない舛添みたいなタイプだったんかな
あの人も自民党に長くいたけど盟友は一人もできなかったとか 個人事業者でも無い限り、人望が無いと企業で何も成し遂げられないからな
今のみんながつとめてる大企業の部署でもそうだろ >>46
そらないだろ
三成は性格的に横領とかしないと言うか出来ないタイプと思うぞ
旗に大一大万大吉(一人は皆の為に皆は一人の為にそうすれば天下はハッピー)とか書く夢見がちな人だし
だからコミュ賞気味でも慕う奴もいたと思うんだよね >>49
アスペだわな、会社に良くいる曲がったことが大嫌いな正義マン
すべてが理想論で片づくなら誰も苦労しないけどそういうことが
考えられないような人たち 小沢抜けた民主党が西軍としたらあのグダグダ分かるな 自分の配下に対しては結構面倒見良くて
上司からは仕事ちゃんとするから評判良いけど同期と仲悪かったというかうまくいかなかった
だっけ? >>10
光成はずっとブチ切れてて家康は子供からいきなり成長、秀吉はゴリラ、信長はお市に殺されてるイメージか >>44
つか、史実でも毛利輝元がふつうに首謀者だし大将やで。
途中まではノリノリでやってたのに、岐阜城陥落したあと
いきなり手のひら返して全部三成と恵瓊に責任押し付けてしらばっくれただけ >>50
足軽に貸し出していた胴や自分の裃に付けてたんだし旗印に使っていたとしても不思議じゃあるまい
少なくともそういう理想論が好きなのは確かじゃろ >>53
部下には面倒見よくて好かれるし主君にも忠実で大事な守り任されたけど、同僚には俺が一番の子分だぞって威張って嫌われた関羽みたいなもんか 三成は家康死ぬまで大人しくしてるつもりだったのに、宇喜多らに引きずり出されて巻き込まれたという説もある >>49
>旗に大一大万大吉(一人は皆の為に皆は一人の為にそうすれば天下はハッピー)とか書く夢見がちな人だし
やべえ
言ってること好きだけど理想論すぎて一緒にいられないタイプだわ 秀元が吉川踏み潰して山内、浅野に掛かって行ったら西軍かってたかな 佐野道可は輝元さんがやらかしてしまったのか
それともただの言いがかりで輝元さんは無罪なのか >>60
今でもそんな事言う人が居たら、あーって思うのに
戦国時代とかどれだけ嫌われてたかわかるな
しかも秀吉という上司に取り入ることだけは上手かったみたいだしな 処刑される前の身体を冷やすから柿なんてくわねえってエピソードが凄い好きなんだけど
創作なのかな >>53
外部の連中からすると公正な人
身内の同期からすると「自分が秀吉様の一番の家臣」みたいな面してる嫌なやつ
こういうのもあるやろ 小早川の家紋が引くぐらいに怖いんだが、へうげもんでもチョロッと描かれてたがなんかヤバい逸話あるの? >>63
ある意味で秀吉と相性が良かったのが逆に悪かったんだろうな >>67
そういう意味で、いかに秀吉が万民に好かれてたかわかるな >>56
旗印の使用じゃなくて、その言葉の意味が俗説 >>70
ちょっとググってみたが、>>49の意味しか探し出せない。
ほんとの意味をソース付きで教えてもらいたい 真田丸の自分の中の正義感で動いてる三成も、テンプレ神経質な官兵衛の三成も良かったけど
やっぱ葵の江守徹の三成がバランス取れて本当あれくらいだったのかもって説得力で好きだな >>71
定紋は定かではなく、「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)、
または「大吉大一大万」が足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれている。
石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。
大一大万大吉紋は文字の配置や書体は不明であるが鎌倉時代の武将、
石田次郎為久(源義仲を射落とした武将)も使用しており、
ほかには備後山内首藤氏も使用している。
「大一大万大吉」というのは
「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる一方、
近代以前にその意を示した文献はなく、
本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされる。 明確な身分差があるのに、そんな意味込められてるわけないんだよなぁ
思想が近代すぎる考えだわ 豊臣が大大名で富と権威温存しとけば
家康死後に再逆転もあったのにね
徳川秀忠なんか総大将の器じゃないし >>11
家康の正当性を強調するために悪く書かれてるところあるだろうな 大谷吉継とか蒲生氏郷みたいな評判倒れ系の武将はあんまり好きじゃない >>28
島左近も所詮筒井家の家老に過ぎず
実戦経験豊富な前線指揮官ではあっても
いくつもの大名を束ねて動かす経験なんて無いけどな >>63
中国の古書とか普通に勉強してるから秀頼だって、天下は一人の天下にあらず乃ち天下の天下なりみたいなこと言ってたろ
別に特別おかしな考えじゃないだろ >>74
結局俗説だと言う自分も確たる証拠は無く俗説だったと 大将の器じゃないとわかっててもやんなきゃいけない時があるよね 石田三成と気が合った人物に佐竹義宣がいる
この人も生真面目で頑固者だな >>76
大金を費やした方広寺の大仏は慶長伏見地震で倒壊し「自分の身も守れないのに処衆が救えるか」と秀吉を怒らせ
善光寺から取り寄せた善光寺如来の祟りで秀吉は病に倒れたともいう
復興のために大金を費やした方広寺の鐘銘は国家安康で家康を怒らせ豊臣滅亡の原因になった
よかれと思って寺院へ大金を投じても
方広寺みたいにことごとく裏目にでることもあるから世の中不思議だ そもそも250万石の大大名と敵対したらどうにもならんわ
北条と違って日本中が敵とは程遠い状況だし、万が一徳川が負ければ泥沼の戦国が続いてしまう
人望云々以前に石田に力が無さ過ぎた 大谷の娘もらった真田幸村がいいあろ
あの時代、病気持ちの娘やぞ >>11
石田三成のイメージが良かったら、関ヶ原の戦いは西軍が勝っていた >>85
秀忠率いる徳川軍主力は決戦に間に合わんかったし
吉川、小早川の毛利勢が裏切らなければ布陣的に西軍が勝ってた
三成の戦略は当たったんだからあとはもう少し人望があれば
歴史は変わったかもしれない >>85
石田ら文治派と、加藤福島あたりの武断派の、どっちが豊家第一の家臣かという内戦に
本来なら争いをおさめるべき立場の徳川やら毛利が後見人になって「やれやれ、殺しあえ、ケツ持ちしたる」ってなってるかんじやろな
毛利は最初は乗り気だったけど、ここぞというところでチキンになったと。
そして修羅場くぐった数なら誰にも負けねえ家康はそのまんまかちこみも参加して、その後の全主導権もぶんどっちまったんやな。
たとえ東軍負けたところで徳川主力は真田のおかげで完全温存状態、関東欲しけりゃ力づくで取りに来いと余裕。
一方西軍は勝ったところで主導権争い起きて分裂だぜ。やっぱり徳川が最後に勝ってしまう。 西軍は関ヶ原で優位に終わったとしても秀忠の本体と戦う余力あったのかね 左翼と同じだよね
「自分の言ってることは正しい!だから聞くのは当然!」ていう上から目線態度で理解してもらおうというのがない
古市だったか津田だったかが左翼が支持を得られないのはこの辺のせいつうてたな 全盛期の秀吉と半年以上戦線を維持出来た家康相手に本隊が辿り着く前に短期でケリつけるなんて無理だろ
そもそも関ヶ原は長期決戦想定だったのが西軍が雑魚過ぎて短期で終わったものだぞ 戦ってない奴が多過ぎなんだよなぁ
べんとうくってるやつとか
終わってから敵中突撃して逃げるやつとか 子供のころ学研の本で関が原開戦前の配置図を見て、
「こんなの開戦して『もうり』とか『ちょうそかべ』ってのが後ろから来たら
終わりじゃん」ってずっと不思議だった。 >>97
ドイツの軍人かな?
いや、あの話嘘らしいけど 三成のポジションって領地貰えないし
将来何目指しせて仕事してたんだろう? >>100
天下の政務を取り仕切る大官僚ポジになりたかったんやろ 淀という史上最強クラスのサゲマンビッチ
晩年の秀吉の狂行も三成の暴走もほぼコイツが原因 >>104
毛利はそもそも総大将やっちゃダメだったわ >>64
本当は処刑人の足をうっかり踏んでしまって
「申し訳ない、わざとではないので許されよ」
と語ったらしい 真面目で官僚としては優秀だが根回しが出来ず機転や融通も利かない上に、しかもコミュ障入ってるから敵を作りまくるという最悪のパターン 三成にすぎたるものふたつありの逸話も
元ネタは家康にすぎたるものふたつあり
という家康を揶揄するものを
神君家康時代になって
三成貶しで移し替えたもんだからな
三成貶し逸話は後世の作が多い
吉継貶しの逸話がないのはさすがと言える >>81
確たる証拠が無いから俗説って言うんじゃねーの 今の三成上げは正直なところ気持ち悪い
主君の終わりが近いって時に行政官の首座が豊臣軍の中核になる譜代との仲を修復しようともせず悪化するに任せたまま
当時の豊臣家は一代で成り上がったからとても安定してるとは言えず徳川を筆頭に毛利や島津の強力な外様、前田や上杉も本質は外様
そんな状況で家中の分裂を放置とかとてもじゃないが義人とは呼べん
自分の正義に拘っただけの厄介な正義マンだろ 組織には嫌われものが必要
梶原景時やこうのもろなや本多佐渡とと同じ
石田三成個人は人徳ありますよ こいつの場合、嫌われ者ってレベルじゃないからな。武断派に暗殺まで実行されて逃げ回るくらい憎まれたレベルだし。
こいつの意固地せいで内紛起き、それで家康につけ入れただけだからな、豊臣家潰したマジもんの大戦犯。義将どころかお家潰したただ愚将。 嫌われものが有用なのはトップがその必要性を理解してる時
トップがいなくなりゃただの内紛の種でしかない
秀吉が急逝したってならまだしも終わりは誰の目にも明らかだったのに嫌われものを続けるのはなぁ 家康より先に、三成が小早川陣に鉄砲を撃ち込んでいたらどうなってたかねw >>116
そうだったのかw
中学校くらいの時、「風雲児たち」を読んで、そこがすごく盛り上がっていたから覚えてたのにw >>103
淀さんは豊臣家を滅ぼしたかったんで
サゲマンじゃないと思うよ傾国の方でしょ 三成は所領では善政ひいてたんだろ
負けたのが悪者にされるのが歴史の習わし >>6
実際人心を掌握するのに関節キスはかなり有効だよ
俺も一度ブサイクな女の子にこれをやられて落ちたことあるしし、違うブサイクな女の子にこれをやってしまって付きまとわれた 三成本人と籠城組以外の親族は全くお構い無しで生き延びてしまった、
と言うあたりが悲しいまでの小物界の超小物 人望ないって言われてる割にはミッツ
友達とか盟友多くね? 大名と武断派武将連からの受けが悪かったんやろね
三成は自分より格上の人間に言う事利かせること出来なかった感じ 動くのが早すぎたな。
動くよう仕向けた家康が上手だけど、家康が死ぬまで待つべきだった。
それなら秀頼も成人してるし三成がしゃしゃることもなかった。 三成があそこで挙兵しなかったら会津征伐がそのまま進行して上杉家は滅ぼされてたかもしれんけどね 関ヶ原の合戦が半日で終わってしまったのもびっくりだが、西南戦争ガンダムだらだらと8か月も続いたのもびっくりだ 忍城攻めも本当に戦が下手なのか、水攻めしろやって命令に困ってたのかどっちなのかな
向こうがやたら粘ってたのもあるんだろうけど >>40
兼続は主君がアスペだったから、あしらい方が判ってた >>131
会津から引き返した時に江戸侵攻しなかった上杉と佐竹のヘタレっぷりときたら >>90
戦いにイメージはあんまり関係ない。光成は頭は切れるが役人であり戦争は得意じゃなかった。それに戦いの前半は勝ってたし。
家康は苦しい戦いを何度も経験してたから戦いの流れをみて臨機応変に判断できた。 >>85
北条オタの静岡大・小和田教授に言わせると
北条もあと三ヶ月あのまま篭城続ければ勝てただろうって 秀吉の全国連合軍に
少なくとも負けないことはできて、全面講和になっただろう
なによりも兵站が続かない どうしたって食い物やらの補給がなくなる 士気も落ちる
ソ連がドイツに勝ったのと同じでアウェイの不利さホームの有利さ 日本もシナで勝ちきれなかったし
アメリカだって東南アジア中東でそうでしょ
秀吉があそこまで大きく北条を考えていたのは、国力が半端ないから負けもありうると思ったのだろう >>118
最初は豊臣家を潰したかったんだけど、秀頼が生まれてからは秀頼を将軍にして天下を治めたかった。
しかし(当たり前だが)秀吉と違って人望がなかったから家康にはかなわなかった。 ドイツかどっかの軍人に関ヶ原の配置図見せたら西軍の勝ちだろうって言われるし上田で息子を遅参させた真田も腰抜かしただろうし九州から勢力拡大しようとして如水さんもびっくりの関ヶ原 >>142
メッケルだね
あの配置なら誰も徳川が勝つなんて思わない 長期戦想定だった関ヶ原の前半奮戦したから戦は弱くないってのもな
フルラウンド戦うつもりだったのが1ランド出鼻で一発良いの入れたけど即KO喰らったようなものだろ >>139
孫氏「篭ったら負け」と言ったのに(´・ω・) >>109
俗説だと断定する人間が証拠に確たるものじゃない俗説や不確定な見解を用いてどうすんだよって話だろ
ちゃんと読んで話を理解しろ三成 >>147
古代から近代の兵法書で兵站の重要性をくどくど説いた本は見た事ない
戦史では兵站で勝敗を決する面が物凄く多いのに不思議
現代ではクレフェルトというおっさんが兵站本をいくつも書いてるけど >>149
戦国時代の大名は侵攻戦の時は戦闘部隊とほぼ同数の荷駄隊を連れて
たよ?
当時は一々言われなくても兵站の重要性は認識していたみたい。
まあ補給低能の日本軍が異端だっただけ。 >>149
常識だったからじゃないかな
その上で孫子なんかは、兵站を重視し過ぎると機動性が落ちるから注意って言ってるし 三成が居なきゃ、徳川の天下にはならなかっただろうな。 >>137
朝鮮出兵では戦果上げてるし何より20そこそこの若者なんだよなぁ
最初から東軍で参加して立って説もあるし >>21
いや、やはり人望無かった。
三成自身の性格もあるが、独裁者で「絶対に悪口を言ってはいけない存在、嫌いって言ってはいけない存在」だった秀吉の『悪』の部分を、
全部三成が被ってしまったってのが大きい。
家康にハメらてたんじゃなくて秀吉の罪を擦り付けられたんだよ。 関ケ原は家康が北政所を味方につけたのが勝因
秀秋は甥っ子だからなそりゃ東軍につくわ 淀と北のまーんどころは
仲が悪かったという説もあるが
関ヶ原では西軍支持、という点では一致していたはず
にも関わらず、豊臣恩顧の大名が割れていたのは
徳川による調略の巧さだろう >>159
いや、北のまーんどころは西軍の負けを知ると
寺かどっかへ急いで駆け込んだ、
とかいう記録なかったっけ? >>154
うーん、コレはどうだべ?肯定も否定も難しいな。
ただ家康は、関ヶ原の前に『徳川に次ぐ大大名』である前田家にも因縁 付けてるんだよね。
それに対して前田家は何とお母ちゃんを徳川に人質に出しちゃった。
事実上徳川に降伏しちゃったんだよね。
現代で言ったら
「急に地球からアメリカが消えちゃって、国連などで中国が傍若無人に振る舞い出した。
他の国が皆『ロシアが何とかしてくれよ』と思ってたら、プーチンが習近平の靴を舐めた」
に匹敵する感じ。コリャもう誰も中国、じゃなかった徳川家康に逆らわないだろって雰囲気には成ってた。
そんで調子に乗って?(いやむしろ苦しくなってか?)上杉にも因縁つけたら、公然と逆らってきたってワケで、
石田三成が居なかったら、家康が「かつて秀吉が九州で島津家にやったように」天下の兵を率いて上杉討伐をやって、天下のリーダーとしての実績を着実に稼いだハズだから、
ナカナカ「三成がいなかったら家康は天下を取れなかった」とは言えないカモ知れんよ。 ずっと誰かを補佐する立ち位置だったらもっと評価されてただろ
能力はあるがトップに向かないタイプ >>139
兵站が続かないのは小田原の方だろなぁ
支城は次々と奪われ領地はかたっぱしから占領されている状態での小田原包囲
豊臣方は日本全国が味方で、食料は安全な後方で生産され続ける。しかし小田原城には備蓄のみ。挙句に邪魔な領民共が避難してきてる。
三ヶ月後、共食いも始める小田原城に対して、外では豊臣方が砦や城や壁作りまくりで完全包囲の元宴会とかしてるぜ。 >>139
あのまま籠城続けられなかったから負けたんだよ >>162
利家なら「豊家政権の大叔父貴」だったからそりゃもうでかい影響持ってたけど、その息子じゃあーた家康に勝てるわけ無いだろ
プーチンがいなくなってメドベージェフの露になったら似たようなもんだぜ >>30
細川忠興なんでそれでキレたのかわからん
俺もアスペなんだろうか 質素倹約家でであり、領民に慕われ、頭もいい
だから脳筋野郎は好きじゃない
脳筋野郎も
腕力や武術に長けていないくせに政治のトップに重用されてるってだけでも気に入らないのに「俺に命令するんじゃねえ」て事で嫌われた
そんだけ でも石田三成って死んだ後に城とか調べても隠し財産みたいのはまったくでてこなかったんだよね?これをいったらもう救いようがないかもしれないけど、その清廉潔白さがまた、三成が人から嫌われた原因の一つなんだよなあ… 几帳面な性格だから脳筋には嫌われるタイプだったんだろうな >>130
よく嫁。
「三成本人とその居城・佐和山城に籠城した親族のみが処理され、その他の三成親族にはお咎め無しだった」
って書いてあんだよ。
特に三成の次男と3番目の娘は津軽家に引き取られ、娘は高台院(秀吉の奥さん・お寧)養女扱いで広前藩2代目の側室になり、3代目藩主を産んでいる。
三成次男は杉山と名を改め、その子孫は津軽本家から嫁を貰って親族重臣と成り、家老職も勤めて、津軽家のピンチの際に活躍したりして、現在も続いている。 豊臣遺族なら担いで反徳川の神輿ってのもあるけど、三成遺族じゃね >>167
本当それ。プーチン無き後のロシアを想像すると、スゲー怖くなる。
あそこは日本より人材がいない。 そもそも主家筋の豊臣家に弓引いた大罪人だろ家康
秀頼が死んだときも、そのまま生きててもらおうと思ったのになぜ…とかっていう三文芝居したとかってのも書かせてるし
なんで豊臣家と徳川家を同等に扱おうとしてるやつが多いのか >>179
家康としたら
豊臣家を滅亡させようまでは考えていなかったのでは?
滅亡を望んでいて実行したのは、二代目の秀忠だろう >>4
スタンハンセン病だっただけでガイジとはちと違うだろ >>179
大坂は今も昔も日本国にとって極めて重要な土地だからな。だから秀吉も、信長があれほど犠牲を
払って追放した石山本願寺の跡地に大坂城をたてた。家康も大坂が重要だとわかっていた。豊臣
家が徳川の命に従い、速やかに大和あたりに退去していればかろうじて命脈だけは保てたかも 日本人ってやたらと他人に清廉潔白さを求めるくせに、それに該当する人物が
目の前に現れると、自分に出来ないことをやってのける嫌な奴として嫌うとか
どれだけ屈折してるんだよ >>179
小牧長久手でしゃあなしで臣従してやっただけだし >>186
水清ければ魚住まず
コミュ障はどんだけ能力あっても煙たがられるだろ
人望無い時点でお察しですわ 白河の、清きに魚も住みかねて、元の濁りの田沼恋しき。 どうも分かってないみたいだな
要らないなら求めるなと言ってるだなんだがな 秀吉の死後即座に引退して豊臣家中の結束を促すんならまだわかるが
家中に居座って不和の種ばら蒔いて義人ぶってりゃ世話ないわ 結束を促した処で家康は豊臣潰しをやめないけどね
打って出て負けるか、放置して乗っ取られるかの違いだけさ 豊臣は俺がいなけりゃ徳川に乗っ取られるから
家中分断して無理矢理にでも戦ってやるってか
素晴らしい清廉ぶりだな >>171
単に人望がないから銭積んで味方増やしてすっからかんになっただけだよ 三成が嫌いという感情だけに流されて
家康についた加藤や福島たちは
その後の大坂の陣まで何を思っていたのだろう この前の大河の三成がイメージ的に理解できるな。
頭良すぎて場の空気や人の心がわからない人。
家康を追い詰める会議でしゃしゃった結果、家康につけこまれて逆に増長させた、なんて描写は見事だった。 >>164
>>169
人の褌で相撲とるようで情けないが、あくまでそれは小和田教授の説ね
小田原城は小田原攻めでもやはり軍略的には攻め落としようがなかった 広く堅牢すぎて
となると永遠の膠着戦にならざるをえないのだが小田原は城内の農地で自給自足できたので
そもそも兵站の必要がない 砲弾の鋳造やらもできたかもわからん
軍事的・物理的条件によってではなく、純政治的な判断からの降伏開城なので、それをしなければ
北条に勝機があったのに、というのが小和田説 三ヶ月か半年かやり過ごすことはできたんだよ まあ嫌われ役の官僚職としては必要であり優秀な人材だったとは思う
豊臣の最大の敗因は秀吉の戦国武将に最も必要な種スキルがゼロだったことだろ >>169
うーん無茶苦茶仲悪い憎んでるレベルの相手がいて相手もそう思ってるとして
仲直り的な席を相手から打診されたのに遅れてきて何の挨拶も無しにいきなり柿食えよ好きだろ?
と国のトップ同士の外交レベルの場所でやられたらどう思うかってところだろな戦国の世で毒殺の可能性さえあるし >>200 の補足
政治的判断の一つには、要は他の支城が次々に豊臣方の手に堕ちて、
いわば家臣や領民が人質のようにされてる以上、これ以上小田原だけが粘ったところで
塁が及ぶだけって判断が大きかったと思われる
小田原だけで徹底的に長期抗戦する”本土決戦w”は、殿様次第でしようと思えばできたんだけど
政治的人道的な意味を感じなかったって意味では、あながち暗君でもなかった気がする 滋賀すげぇえええええ 完全に大阪超えキタぁあーーーー
【現代的新しい価値・文化の創造】
1.ゆるキャラ(ひこにゃん)
2.イナズマロックフェス (西日本最大)
3.オペラ
4.ビワイチ(自転車 琵琶湖一周)、ウォータースポーツ、グランピング
5.ラッピング(路面)電車
【著名な観光地】
1.比叡山延暦寺、三井寺、石山寺、坂本・日吉大社、近江神宮、おごと温泉、びわ湖バレイ
2.彦根城、安土城
3.長浜黒壁、竹生島、多賀大社、メタセコイヤ並木、湖東三山・鶏足寺・永源寺(紅葉名所)
4.八幡堀、近江商人屋敷、水郷、ヴォーリズ建築(旧豊郷小 他多数)
5.信楽焼、琵琶湖博物館、佐川美術館、MIHOミュージアム、甲賀流忍者
【美味名物・食文化】
1.近江牛、鴨料理
2.鮎、ビワマス、ホンモロコ佃煮、ふな寿司
3.焼き鯖そうめん、近江ちゃんぽん、比叡そば、伊吹そば、来来亭
4.近江米、近江野菜、朝宮茶、近江の地酒
5.叶匠壽庵(和菓子)、クラブハリエ(バームクーヘン)
大阪 → たこ焼き(笑)串カツ(笑)ハルカス(笑)偽大阪城(笑)道頓堀(笑)橋下劇場(笑)
. 秀吉と戦って唯一負けなかった男である家康と戦おうというのが無茶
ところで武将チョコなら大谷吉継、立花宗茂がなければいかんだろな 優秀なんだけど、潔癖過ぎて周りから嫌われたタイプってやつかね >>208
まぁ正論を言う行動もそれに順ずる人だったのかもな
正論の中にも逃げ道用意しとかないと人間関係はこじれるからな >>208
潔癖方面であることは良い事だけど度が過ぎれば問題が出てくるのは確か
ただ、潔癖すぎたかどうかも疑問
正しい事を言われて腹をたてるクズは現代にもごまんと居るしな
為政者の手足という立場上
使命感から
潔癖度に拍車が掛かったという事はかんがえられる
まあ真面目なんだよ
時代が早かった 潔癖なくせに秀吉の親書を偽造して朝鮮出兵を和平しようとしたんだよね。
そんで和平に邪魔な清正を殺そうとした。
「豊臣家を守るためなら命もいらないしなんだってやるさ!お前らもそうだろ?」な気がする。 家康に歯向かう気概を秀次の助命嘆願で発揮できたらな
あれが豊臣政権崩壊の引き金だったし
まぁだからこそ今度こそはで無駄に気合いが入ってしまったのかもしれないが 秀頼を関ヶ原に形だけでも連れて行けばよかった
替え玉でも遠過ぎてバレんやろ
千成り瓢箪があったら福島も細川も弓が引けんやろ 超有能だけど空気読めないせいでハブられてたのって吉継だっけ? >>219
途中送信
最後まで秀次を弁護してたが
他の諸大名が秀次を見放してしまったから
もうどうにもならなかった 調子に乗ってた治世の能臣が世の中が乱世に逆戻りして奸雄にボコられたという話 >>198
清正「いや俺、大阪の陣まで生きてねーし」 豊臣政権が安定してたら
松平信綱みたいな扱い受けてたかもな
なんとなく被る 五大老筆頭と謹慎処分の奉行ではそもそも話にならない 戦場での進退統制戦術は信玄 外交戦略謀略は信玄秀吉から学習した家康に勝てるわけが無い >>228
あのおっさんは信長の同盟者をやり続けた
この時点で処世術半端なさそう ライバルを蹴落とすために大陸に出兵させたはいいけど管理が中途半端やったもんなあ
結局は徳川が利する形になっちまって・・・
なんでも中途半端で終わらせるから関ヶ原で高いツケをまとめて払うことになったわな・・・政治力の無さに定評あるよな(´・ω・`) 大谷吉継「お前は人望無いから、誰も言う事聞かん!」石田三成「ふぇぇ・・・」 まぁ今でも東大卒のキャリア官僚と高卒ヤンキー上がりは相容れないしな 事務処理をやらせば賢かったんだろうが、
対人関係が絶望的にダメで他人を信用していないから、
細川ガラシャ等を人質にしようとしたが失敗。
それで余計に敵方を奮起させる結果になった。
人望の無さが致命的だった。 人望人望っていうけど、お前らゴミよりよっぽどマシなんだからな
それを考えて物を言えよ クソ奉行の言うことなんてその配下以外誰も聞かんよな 言うほど人望ないのかね
上杉や島津、佐竹なんかは秀吉との仲介してもらったのを恩義に感じてたんじゃねえのか
上杉島津は西軍だし、律儀者で有名な佐竹義宣も西軍につこうとした >>240
島津「鳥居に断られたから西軍入るわwww」 不特定多数の人間に嫌われる人はある特定の人間にものすごい好かれる >>158
有能なトップは悪い部分をナンバー2に押し付けるよな
また有能なナンバー2は悪い部分を引き受ける そもそも秀吉だって織田から政権奪った簒奪者だし
家康だって当時は律義者で有名だったし
三成が豊臣のために動いてたとは思えないんだよな 織田信長が没落した皇室を復権させ
豊臣秀吉が皇室に多額の献上金で皇室の地盤を固めたが
徳川家康が乱交騒ぎをきっかけに幕府が皇室の権力を握り法律で縛り上げた 三成は部長クラスなのに社長と役員説得して関ヶ原プロジェクトまでこぎつけた点では優秀 豊臣政権の盛時を支えたのは、武家・公家対応は豊臣秀長、商人対応は利休で、このふたりは
「政治家」だから、秀吉のムチャ振りに対して「兄上、それはいかがなものと・・」「殿下、それは世間に
対して受けが悪しゅうございますぞ・・」とある程度止める制止する事ができた。秀吉にしても激情のあまり
(この時代の人間はのちの日本人と違い感情を抑制する訓練をしていない)「この者を死罪にせい!」と
言ってしまった挙句に「しまった!」と思えば内心で「秀長!秀長!止めろ!」というのはあっただろう
それで秀長が「あいや、兄上!この者は功績のある者!秀長の一命にかけてお命だけは・・」と言ってくれれば
秀吉にしても「秀長がそういうなら死罪だけは許してやろう」とできたろう。
が秀長が病死、利休が刑死し、石田三成が実権を握ってから、豊臣政権は急激に残虐度を増す。
これは三成という人が、秀吉個人に忠実な官僚であって、一つも政治家ではなかった点に原因があるだろう。
政治家である秀長・利休は秀吉に命に対して、影に日向に調整しつつ実行するなり握りつぶせたが
忠実な官僚である三成は、秀吉から例えば「皆殺しにせよ!」と言われれば、それが世間にあたえる影響や豊臣政権への
ダメージについて考えずに忠実に、それこそ一人も残さずに実行してしまう。
こういう人間が渾身政治家の家康に勝てる道理がないよね >>245
徳川家康の晩年を支えた、天海大僧正も結構子供じみていて、家康の死後のおくり名は
「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)だが、読み方を変えると「あずまてらす」になり、
要するに、皇室の祖先である「天照大御神」(アマテラス)に対抗させたのだろう。
豊臣政権は、朝鮮に兵を進めて、結局撤退する事になり、一寸の土地も得ることができなかった点で寿命は尽きていたよね。
当時の総人口が推定1000万人の当時の日本が15万の兵を海外に送ってそのうち5万が戦死、病死、行方不明になって
帰ってこなかった。もしも現今人口1億人強の日本が、150万の人口を海外の戦争に送って
50万人が帰ってこなかったら、それを決断した政権が受けるダメージは計り知れないだろう。
せめて、明や朝鮮との講和条件でも、朝鮮の領土の一部でも割譲させられていればずいぶん違ったろうがね 三成は織田家を思っていたと言ってるアホ
秀吉の家来やから
あの当時上司の上司は自分の上司という考えなかったから 死んだ主君の権威以外に頼るもののない成り上がり者が、最高の実力者相手にあそこまで争えた時点で人望ありまくりだし超絶有能だった 忍城攻めのときに目覚めたとかないの?
負けるけど歴史に語り継がれるし格好いいってやつ 家康は嫌いだが何故か日光東照宮で眠り猫のお守りを買ってしまう ちょっと前の歴史群像で関ヶ原合戦は三万対四万程度の戦いで
西軍は追撃されて仕方なく関ヶ原で迎え撃って
開戦してすぐに秀秋が裏切って短時間で決着したという真実が載ってたな 大衆っていうのは台風や吹雪と同じで、個人は対抗できなくなるからな
代表者ではあるが、これは時代の意思と観る方が分かり易いよ
個人の力だけで何とかしようとしたのは信長くらいじゃないかな >>169
忠興は史実のエピソード見てると
文化人のわりに血の気が荒く沸点が低いな
実際はへうげものや真田丸の忠興が近い感じじゃないかな >>234
三成と対立してた派閥もエリート揃いだぞ。
法学部と防衛大学くらいの差かと。 >>260
文化人は心が穏やか、なんてのはただのステレオタイプ
文化的素養と気が長いか短いかなんて、何の関係もない >>241
島津「西軍入ったけど三成風情から命令されて気に入らないから動かないわ」 >>240
上司や部下には好かれるし、よその人にも嫌われないけど同僚受けだけは悪いイメージ 太閤をお題目に虎の威を借る狐みたいなことやって出しゃばるから叩かれてるって気づけよ >>262
アーティストがキテレツなのは普通なのにね 参加はしたけどまともに戦わない連中だったのが西軍だしなぁ
集まった人数だけで判断できるようなもんでもないだろ 「宇喜多備前中納言秀家、豊家の御危機と聞き、備前・岡山から瀬戸内海を泳いで参った!」 関ヶ原ってあくまでも豊臣家中の主導権争いだし
あの時点では家康は「律儀者の内府殿」で通ってたし
秀吉から秀頼の後見を頼まれたのは家康だし
暗殺されそうだった三成を匿ったのだって家康だし
単に三成派のクーデターが失敗しただけなんだよね
関ヶ原に秀頼引っ張り出してたらもっと悲惨なことになってたんじゃないか?
誘拐みたいなもんだし 島津の言うとおり夜襲掛けてたら、成否関係なく本戦で戦わない事も無かったろうにな。
ま、if言っても仕方ないが。 三成の挙兵が早すぎた
最低でも家康と景勝が東北で当たるまで待つべき
引き返した家康が箱根を越えたら、景勝は佐竹義宣・伊達政宗を誘って関東乱入
九州では黒田如水が無双して島津と決戦
三成と景勝に密約があったとかは伝説らしいけど、あと少し我慢してたらどう転んでもおかしくない状況だったのに
最初から将として無理だった
家康もそれを恐れてグズグズしてたのに 本戦が半日で終わってしまうのが情けない。
応仁の乱みたいに10年以上ずるずるやってれば秀頼が成人するのに。 淀君が関ヶ原の戦いの前で逆賊家康を討てと命令してたらなぁ >>275
淀も敵多そうなイメージだなぁ。後世の創作もあるだろうが。 家康が婚姻とかいろいろ仕掛けてるのを
逆臣として意見集約してたらな 豊臣恩顧の筋肉脳連中が淀を好いていたかどうか
多くが北政所派だったとすれば淀君がシャシャリ出るとかえって逆効果かもね
毛利が秀頼を抱いて、家康を討ていと大号令発すれば効果絶大だったろうにね >>279
輝元「じっちゃんが毛利は天下望むなと言うし」 大谷石田仲良し知将二人揃って関ヶ原惨敗やってられないねw >>281
輝元「いや〜新しい天下人の家康しゃま〜!ご機嫌よろしいでゲスか〜事前の密約どおり
大坂城から一歩も動かなかったでゲスよ〜これでお約束どおり本領安堵してもらえるでゲスね〜」
家康「いや、あんた西軍の総大将なんだから駄目だよ。毛利家はお取り潰し(後に100万国前後の領土を
30数万石に削減に変更)決定だから。
輝元「ぎゃふん!」 フジの笠井アナは石田三成をなんていい人なんだと好きなようだな。
人々を思う心に笠井アナも心を打たれたかのよう… >>283
家康「そんなに毛利家が大事ならお前に恩賞としてやる36万石の領土を代わりに毛利家にやるがいいのか?」
吉川広家「…それでお願いします…」
家康「じゃあ今回だけは毛利家を潰さないでおいてやる。次はないぞ」
吉川広家「は、はい…」 三成と同世代で同じ長浜城で育った黒田長政が有能過ぎた。
同世代の豊富恩顧の大名全部、黒田長政が東軍側にしてしまった。 >>285
家康「ふん!毛利家めお取り潰しを避けて、領土削減だけでとどめてやったんだから
毛利の将士はさぞ、徳川に恩を着ている事だろうな」
広島城を奪われ萩に移住する将士「徳川許すまじ〜!この恨み晴らさで置くべきかあ〜」
江戸時代の正月の毛利家
家老「殿、もはや徳川討滅の準備ができましたぞ!」
毛利の殿様「まだ時期が早い!!」
>>287
で、裏工作もバッチリ働き、戦場でも東軍の為に粉骨砕身!東軍の勝利に貢献し、その後
自国に帰って、父、黒田如水の前で意気揚々と自分がいかに東軍勝利に貢献したかを語り
「家康殿は、自分の手をとって感謝を述べて・・」と語ると、物憂そうに聞いていた如水が
「家康殿がとった手は、そちのどちらの手だった・・」
「えっ・・?こちらの手でございますが・・」
「そうか、そちらの手か、ではその時、そちの逆の手は何をしていたのだ・・」
(なぜ、その手で家康の脾腹をさして殺害しなかった!オマエがそれをすれば、当然、その場で
オマエは徳川の手で斬殺されるだろうが、家康が殺害されて天下が大混乱になれば、この父
如水が天下を奪ってやったのにの意) >>290 封建制だと、歴史は日常だからね〜
実際、豊臣時代に100万石を越えていた毛利家が30数万国まで削減された時は、毛利の殿様が
悲鳴をあげちゃって「これでは家来を養っていけない!いっそ領地と領民を放棄したい!」とさえ訴えたが
幕府には黙殺されて、家来たちに「これから毛利は広島城から萩城に引っ越すが、とうてい養えないから
ついてこないでほしい」と言っても「無役でも結構でございます」とほとんどがついてきてしまった。
広島から萩への毛利侍たちの移動は、徳川への怨嗟に満ち、その嘆きは子々孫々まで受け継がれたという。
無役になった毛利侍達の多くは、帰農して自活したがその子孫たちは「自分たちは毛利家の家来である」
という意識を捨てずに幕末に至った。その長州藩が革命化して、外国とも幕府とも戦争をすることになったが
長州の庶人たちも「自分たちは今でこそ百姓・町人であるが、先祖は毛利様の家来でした」として多くが戦に参加した。
同じく倒幕派の薩摩でも、佐幕派の会津でも町人たちは、その藩の存亡に無関心で、官軍の会津攻めの際は、会津の民衆は山の上に
逃げて、藩に協力する事はほとんどなかったという。比べて長州は特殊なんだよ 戦国武将としてはかなり変わり種だと思いますね(´・ω・`)三成は
立身出世、自家の繁栄と安泰が至上主義だった武士時代でそういう欲が少ないってのは
是非はともかく面白い
小姓時代に知行すべて与えて渡辺勘兵衛を召し抱え、家臣の勘兵衛の家に居候とか
歴史上なかなかみないエピソードで傑物のひとりではあるでしょうね >>272
現代のような通信技術がある前提の戦略だな >>265
まるでトンキンの威を借る馬神奈川土塵、ダサイタマ、千葉土塵だなww >>262
大島渚( ^ω^)・・・
大江健三郎( ^ω^)・・・
野坂昭如( ^ω^)・・・ >>292
でもその無欲が関ヶ原で仇になって
三成本隊の兵力不足を招いてしまう
太閤殿下が100万石くれるといわれた時に
素直にもらっとけば兵力の心配などせずに済んだと
笑い話で済ませたてたが 葵徳川三代の細川俊之さんの大谷吉継はよかった
「お前は諸大名を呼び捨てにしたり横柄だから人望ないんだわ」とかズバッと言われた直後に
宇喜多ガー小早川ガーってやっぱり呼び捨てにする江守三成 主君への忠義とかだと鳥居元忠の方が凄いけど家康嫌いが多いから話題にならんよな
感状なんぞイランし官位なんざ二股だろうとか三成以上 >>291
広島・山口県の毛利領は、「全藩一致」の精神だから。
外様の危機感もあって、藩の存亡に関わる事には、
全藩で事に当たる、さらに有能なら若年でも積極的に取り立てる、
年功序列じゃ生き残れない。
だから、第二次長州征伐の時、長州藩は一般民衆に対して、
「長州は冤罪を晴らす為に戦う」って冊子「長防臣民合議書」を、
36万部も印刷して配った。
結果、志願兵が殺到して奇兵隊が大きくなり、
最新兵器とやる気満々の志願兵で幕府に勝利した。 >>299
まあ、幕末に杉を失い、山県や伊藤は東京の高級官員になっちゃったあと、長州に取り残された
奇兵隊の末路は悲惨そのものなんだけどね >>294
神奈川は江戸・東京が存在するずっと以前から天下の東の要衝だったから、威を借りる必要がない >>292
三成の家臣の勘兵衛は渡辺じゃないだろw ところで島左近って何が凄かったの?
三成が高禄で抱えたエピソードはあるけど
それ以前に具体的になんか凄いことした話ってあるの?
何かしら凄い業績や戦績があるから三成が高禄で抱えたんだよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています