この水村美苗さんの「私小説」の関連でもう一つ思ったことですが、
水村さんは子供(=12歳)のときから(親の事情により)米国にずっと在住していて
英語に関しては(一般の日本人等と比較して)語学力の問題が全くなかったわけですが、
それにも拘わらず、

 (*) 言いたいことが山のようにあって、
  しかも、それを何としても日本語で表現しないと気が済まない

ということについては非常に強烈な熱意に燃えていた方のようです。
水村さんは様々なことについては私とはだいぶ違うタイプの方だとは思いますが、
少なくともこの点(=つまり、(*))については私の気持ちや精神状態とかなり重なるところがあることは
実に興味深いように思いました。

私の感覚では

 英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」のように、
 英語圏の文化や世界観を反映した、著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」

が常に掛かっていて、子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に
分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、
例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを
英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、
「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、
全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、
未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。


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