応仁の乱で、守護大名の権威が落ち、守護代に国を乗っ取られたのが戦国時代の始まり
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後に俺が誕生した 応仁の、乱から戦国時代ってだいたい夏休み後やな
2学期の一番盛り上がる時期
明治からわ面白くないな 征夷大将軍の権威が落ちてたところに日野富子が火薬に火を付けたんだっけ 守護斯波武衛家の内紛に乗じて清須織田氏(大和守家)が
実質的な支配を始めたのが尾張の始まり 洋の東西問わず、古代の中央集権的な安定国家
が継続せず中近世に混乱するのは、何か必然的なことなの?
古代ローマとかチート過ぎる。 日野富子の大河ドラマが有ったけどつまんなかったよねw
真田広之の足利尊氏は面白かったのにねえ Guardian LordsがLieutenant Guardiansに負けたのがWarring Statesの始まり 戦国時代を作った張本人はクジ引き将軍義教って英雄たちの選択で
磯田道史が言ってたわ 日本の歴史ってめっちゃ面白いはずなのに
学校の教科書って、天才的なレベルで歴史をつまらなくするよね >>10
世界的な気候変動
現代でも氷河期が来たら世界的にヒャッハーになる >>10
そもそも室町幕府はもとからまったく集権できてないような… >>20
日本の場合は室町以前ということになるんだろうか。
古代律令国家から全国が荘園化していって平家で鎌倉で
いよいよ混乱開始。
中国は軍事強権なら昔から定期的に大国家がしばらく続く?かな。
欧州はもうローマ以降絶対王政期までグダグダ。 幕府制度は持って15代までしか続かない欠陥制度
ソースは江戸幕府 直刀を持って参陣したら「お前の刀、古っw」ってディスられた >>19
天災もあるかも
応仁の乱の休戦のときに
日本史上最大級クラスの明応の大地震が来て
各地が寸断され復興する力が無く
互いに奪い殺し合う修羅の時代に突入したんだわ >>2
朝倉さんとこ就職して
イケイケだったのに
あの4代目のボンボンがなあ 守護大名は基本的に在京を義務付けられていたが、中にはその義務がなかった守護大名もいる
鎌倉公方の監視役である今川氏や九州の監視役である大内氏などだ
結果的に滅んだとはいえ、領国にいたおかげで領国の一円支配が可能となった
また管領として牽制を振るった細川氏や領国がすぐ近くにあった六角氏もある程度力を保つことができた
一方で斯波、畠山、その他の有力守護は早い段階で実権を失っている >>19
中心都市周辺の資源もいずれ尽きるし貨幣システムでどうにかしようとするからなぁ
灌漑とかいう滅亡確定フラグ >>10
応仁の乱より少し後だと思うが
16世紀は世界的に気温低下で、乱世なんだだけ? >>13
俺はアレで尊氏のよくわからなかった部分が理解できたような気がする。
なんかね、三国志の劉備がもし中国統一したら、尊氏と同じ失策をするような気がする。 >>34
みたいね。火山の噴火とかで寒冷化で飢饉などが発生し政情もぐちゃぐちゃに 朝倉家ってもともと守護代の家格しかないのに名家扱いされてる >>39
5代100年も守護大名やれば自ずと格は上がる >>38
寒冷化で発生するんだったかペストも影響大きいからなぁ 守護大名は京都に居着いて公家化したところに、応仁の乱での京都壊滅で衰退
領国現地代表の守護代が領国を丸ごと頂いてしまう
その後は群雄割拠の戦国時代 >>2
そんな昔のことは知らねーってじっちゃが言ってた >>10
洋の東西を問わずと書いているけど、中国では中世でも統一王朝が続いていたような
五代十国や南宋時代は別としてね 俺のご先祖様は何やってたんだろ
鎌倉幕府前までは金鉱掘ってたのは分かってる >>47
細川が政権に口出しして日本を混乱させた
要するに今と同じ
今の日本が応仁の乱の当時と同じと思えばいい 1467 応仁の乱勃発。うわあ・・・これは戦乱の世の幕開けですね
1508頃 宇佐美定満、女を絶つ。主君謙信から女を勧められるまで以降40年近く続く
1527 高坂弾正誕生
1530 長尾景虎(後の上杉謙信)誕生
1540頃 高坂弾正、武田晴信(後の信玄)から「小姓やらないか」の誘い
1550頃 陶晴賢、主君・大内義隆から吉川元春と義兄弟の契りを結ぶよう勧められる
那古野勝泰、簗田弥次右衛門とウホッの契りを結ぶ
1559 前田利家、織田信長オキニの小姓を斬って出奔
1560 桶狭間で今川義元討たれるも、息子氏真、男色含む酒色に溺れる
1565 森蘭丸誕生
1570頃 蒲生氏郷、人質に出された先の信長から「小姓やらないか」の誘い
宇喜多直家、敵のガチホモ武将に男の刺客を送って寝首を掻く
1573 武田信玄死去。高坂弾正、葬儀を一手に取り仕切る
1575 浪人していた井伊直政、鷹狩り中の徳川家康から「小姓やらないか」の誘い
1575頃 直江兼続、上杉謙信から「小姓やらないか」の誘い
1578 上杉謙信死去。ただの一度も女ともしなかったガチホモ人生に幕
同じ年、高坂弾正死去
1582 本能寺の変。過熱した本能寺は、遂に危険な領域へと突入する
1584 蘆名盛隆、アッー!してもらえないことを逆恨みした家臣に斬られる
1587 大崎義隆の小姓同士が主君の寵愛を巡って対立。内乱にまでハッテン
1599頃 美男子で知られた片倉重綱、欲情した小早川秀秋から激しいストーキングを受ける
1610頃 木村重成、豊臣秀頼から「小姓やらないか」の誘い
1615 豊臣家滅亡。なんだこの結末は・・・たまげたなあ ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは東軍の総大将に祭り上げられたと
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 思ったらいつのまにか西軍の総大将にされていた』
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも何をされたのかわからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 調略だとか寝返りだとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
足 利 義 視 >>50
数年で東軍勝利で終わりそうだったのを大内が西軍で参戦し
わずか約1万の大内精鋭部隊で山城の国のほとんどを制圧、西軍復活
10年を超える長期大乱に発展
細川が火をつけて大内が油を注いだのが応仁の乱 室町幕府はしょっちゅう引っ越しして腰が定まらなかったせいで
守護どころか街の人にもなめられてたんだってさ 室町時代全体が戦国時代みたいなものだよなあ
いつも内乱状態 >>55
京都は何かとやりづらいってのが実情なんだろうねー。
清盛もうまくいかなかったけど京都から出ようとしたし。
(その動機というか目論見は鎌倉とか江戸とも違うけど)
鎌倉でやろう、って決めた頼朝って偉い。 もとをたどると大和地方がいつもいつも揉め事ばかりでいがみ合ってたせいなんだよな >>40
吉良上野介の吉良家って、全然パッとしないのに江戸時代になると威張ってて腹が立つ
しかし繁殖力だけはすごい 自分の地元では、京都から得体の知れない油売りが来てあれよあれよとのし上がって主君を追い出した。マムシとも呼ばれていたな。 守護大名の権威が落ちたって言うより
問題は当時の大名は京都で活動してたわけよ
要は単身赴任
大名の代わりに国を仕切っていたのが守護代
んで、応仁の乱が起きて大名が自分の国に帰ったきたが
実際に仕切っていたのが守護代で家臣は普段いない大名より守護代の言うことを聞くと
つまり足利幕府の構造に問題があっただけ >>61
最近の説では斎藤道三は父が油売りで親子二代で成し遂げた下克上という話があるけど
一代でも二代目でもそう変わらんと言えば変わらんねw >>51
なるほど、ホモさえいなければ戦国乱世はなかったってことですね! 北条早雲が一介の素浪人つうのももう100%否定されてるし戦国時代だからって成り上がりなんか無いんだよ >>66
お前は農民からじゃないと成り上がりと認めないのか?
早雲も今川の姻戚という立場があったものの伊勢氏の端くれでしかなかったぞ >>67
桓武平氏の流れを汲む伊勢氏
その庶流であっても名家(地方豪族)には変わらん
農民商人の出ではないし成り上がりとは違う >>66
斎藤道三ってどうなのかね。やっぱ油売り?
あと豊臣秀吉は?
戦国時代をどう定義するかは難しいところではあるけど応仁の乱からとするのは
今は否定されてるんじゃなかったっけ。
例の売れた本にそんなこと書いてなかったかね。 >>2
親父が応仁の乱おっぱじめたから家ん中ピリピリしてたわ 戦国時代って言うけど応仁の乱1467〜関ヶ原の戦い1600とすれば約150年あるけど
全国規模での変動が起き始めるのは末期の1560年過ぎからだよ
それまでは守護地頭レベルの家督争いか隣同士の小競り合いレベルであって室町幕府は権威を維持し続けた
良くも悪くも全国をかき回し枠組みをブチ壊して統一方向へ向かわせたのは信長
あいつがいなければ相変わらず小競り合いの内戦が続いてイエズス会の宣教師たちに植民地化支配されただろうな
信長の登場はタイミング的にはスゲー歴史の転換点だった >>60
吉良は室町時代のほうが羽振りが良かった
東条吉良と西条吉良にわかれ親戚同士で内戦するうち、実力を落とし松平家に領地をとられた >>76
今川は尾張制圧が目的で上洛ではなかった。
いずれは上洛するつもりだったかも知れないけど、その場合は将軍になって天下に号令かな。 >>76
いつの今川?応仁の乱の始まったらへんの今川義忠の上洛なら 東軍へ参戦
そこに滞陣中、北条早雲の妹と結婚している >>79
OPが名曲はまったく同意だ
ストーリーはともかくよろきんにまんさい、様式美としては素晴らしかったと思う。
まんさいが石庭で舞うとことかさ。
日野富子をもっと別の人にしたほうがよかったんじゃないかな・・・
あれじゃ実際と同じだよねw三田佳子もドラ息子いるし。 >>67
伊勢市の端くれはないよ
早雲は総本家の京都伊勢氏直属の備中伊勢氏の生まれで
父と共に総本家がやってる幕府政所執事の仕事を補佐してた
優秀なので一時は本家の養子になってたという説もあるほど総本家に近い人間
端くれどころかほぼ総本家の人間だよ >>76
上洛っての言うのは別に珍しい事じゃ無くて全国の守護職に任じられた大名たちが定期的に京都の朝廷や幕府に顔を出し
冠位を改めて授かる事で守護としての役割を果たしていると内外に知らしめる役割があった
戦国時代でも室町幕府や朝廷の与える冠位は大名として所領を統治することや周辺大名との外交に当たり有用であった
今川義元は今川の権勢を誇示する為にいずれ上洛を考えておりその道中邪魔であった織田を叩こうとしただけ
上洛しても今川新幕府までは考えてなかったと思われる 細川の殿様は、ほんとどの時代でもロクなことしないな >>86
本家である従兄弟の庶子が南飛騨の大名三木氏になって
後の姉小路氏乗っ取ったりしてるね >>87
今川家は将軍家の分家で将軍家に継嗣がなく
吉良家なども将軍家に継嗣を出せない場合は今川から
将軍家に継嗣を出すという家格なんだから今川新幕府などまったくないよ
そのように本家を支える家格なんだから取って代わる正当性が全くない
そんなのが認められるなら細川も畠山も吉良も黙ってない >>19
気候が温暖化した方が人口が増えて
余った人口により民族移動や戦乱が起きるんですが
悪天候で不作になると戦争どころじゃなくなる >>89
乗っ取りなのかな
断絶してた姉小路氏の名跡を継いだだけと聞いたが >>13
野村萬斎の細川勝元の喋り方が面白かった。それだけが印象に残ってるドラマ。 >>68
三河にいた藤原さんだ
後北条氏(伊勢氏)の先祖、初代伊勢氏、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→藤原俊継(伊勢俊継、初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去 暇なんでwikipediaで朝倉義景のところ見てたら六角氏からきた養子だという説があるって書いてあって驚き >>2
甲斐信濃越後あたりで呪術を見せて回ってたよ >>69
秀吉は地元では豪商だったらしい。てか秀吉は下剋上唯一の例じゃないかな。農民からの武士階級だから。 >>92
そもそも姉小路の分家三家滅ぼしたのが三木氏ですしおすし 秀吉は日本史上最高の天才だから
規格外の別枠 で考えるべきw 秀吉が優秀なのは良いとして、
教養がなかった設定なのに、何で弟まであんなに有能だったんだろ 実務と地位が人をつくるってやつかなあ。なんかありがちな
ビジネス本っぽくていやだけど。 >>100
そうだったのか、知らなかったわ、ありがとう 秀吉は言われるほどは低い出では無いという説もあるけど豪商とまでは聞いたこと無い
藤堂高虎も武家の家系だけど親の代までには家が没落して一兵卒から大名まで出世してる 信長はキチガイじみた先進性
秀吉はキチガイじみた政治力
家康はキチガイじみた忍耐力 下克上なんつーものは存在しない、三河で美しく連続した
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 >>106
豪農でしょ
家を出る時一貫文貰ったらしいけど貧農には絶対に出せない額 >>110
実父と違って母親の再婚相手はそこまで低い身分とはされてない
それが実際にはそこまで出自が低くは無いのではという理由の一つにもなってる
もっとも実父と養父が同一人物という説もあってはっきりしないけど >>99
なんだそりゃ?
石工組合の筋モンじゃなかったのか? >>91
こっちが正解だろな。
現代の企業でも、好景気には次々と独立・設立されて、不況になると吸収合併で寡占化が進む
独立した集団が他とまとまるのは、単独ではやっていけなくなるから 何の記録も残してないんだから
足軽弥右衛門 でもおかしくないよ
出自が有れば、それなりの記録はなにがしら残ってる
小牧長久手の時、徳川方が書いた、”野合の子” は案外本当だろう
むしろ、それは秀吉にとっての栄光 だわw >>91
>気候が温暖化した方が人口が増えて
>余った人口により民族移動や戦乱が起きるんですが
鎌倉ー室町ー応仁の乱のころは体格がすごくいい、っていう
発掘遺骨の研究とかあったような記憶あるけどちょっと不確か。
あと太平記のころの記述とか、ものすごい武士がやたらいるけど
誇張あれど、実際結構な、剛力の偉丈夫がたくさんいたという事実
がベースになってるという話とか。
気候が温暖で食いもんに不自由しなかったから、育ちもよくなり
で、食いもんはあるし暴れまくり。 >>13
躁鬱が激しい役よくやったな真田広之
ドクターXダメだけど
佐々木道誉の陣内はハマってる
道誉の大河は見てみたい
伊達政宗辺りより完全に上位互換だし 応仁の乱なんて、ああそんなものかという程度の認識だったのに、呉座さんのたった1冊の著書で
日本全体がブームになっちゃった。ボクもこの著書「応仁の乱」を読んだけど何がブームなのかね?
ただ、京を焼け野原にした衝撃は強烈で、その後、百姓一揆や打ちこわしでも放火はタブーになったし、
西郷・勝会談で江戸無血開城したのにも大きな影響を与えた。日本で放火が重罪になった契機だろう。
チョンもこれを参考に放火を慎め。 >>57
義満が絶頂期
前半 南北朝
後半 応仁の乱 >>114
どっちもやでー
騎馬民族とか寒冷化で降臨してきおるし
バイキングは人口圧力で侵略してくる 年貢・税金・上納金のスムーズな流れが途絶えたのが下克上の始まり 年貢・税金・上納金徴収取り立てについて下部組織の不満が下克上の始まり >>76
謙信もそっと上洛してるよねー
伊勢氏って足利義政側近の伊勢貞親っているけどあの一族なの?
下剋上ってのは別に身分をこえてってわけでないんでしょ。
家来にのっとられたら下剋上。
確かに一族である家来にのっとられた場合ってむつかしいかもね。
大内と陶なんかそーだよね。
斯波と朝倉、織田はあれだけど。 既成のシステムや権威の枠の中で
争っていたら、
システムそのものが壊れたでござる。 >>116
完全に記憶違い
骨からの推定による平均は160cmにもみたないし、江戸時代とも変わらない
平均身長でいえば、むしろ古墳時代の方が体格がいい(サンプルが古墳に葬られるレベルの権力者層が多くなってるせいもある) >>125
そういえば、上洛する時って他の大名の領地を通るわけだけどどうやって通行してたんだろ
関所みたいなのは無かったのかな >>129
謙信の場合は将軍の命令だから素通りじゃないかね
戦闘狂居なくなってくれるし拒んだら暴れそうだし >>127
そいつの言ってる事には別に同意せんけど
骨考古学の研究で日本の全時代で江戸時代が一番平均身長低いのが判明しとるぞ 戦国時代は157cmくらい
江戸中期に縮んで153cmくらいだった気がするよ >>125
そう、足利義政の将軍親政の右腕だった伊勢貞親が名門京都伊勢氏の当主
北条早雲はその京都伊勢氏直属の備中伊勢氏の嫡男で、一時期、京都伊勢氏の養子だった説もある
一族である家来の乗っ取りでは正当性の問題から取って代わるわけにはいかず
名目上の当主を置いて実権だけ握ることになる
足利将軍家と分家で管領の細川家
大内義長(大内義隆の姉の子)と分家の陶晴賢
などが有名 >>10
中世の始まりから戦国時代までの数百年も幅あれば、世界中のどんな国だろうが栄枯盛衰で乱世やっててもおかしいことじゃないよ >>129
交渉で通行の許可を取るんだよ
交渉決裂なら上洛を諦めるか力で通行を認めさせる
将軍の命令なら将軍からも通行させるよう命令が行く 応仁の乱て、すげーグダグダな戦いだったらしいよね
泥沼化、とかじゃなく、しょぼい小競り合いや睨み合いを延々続けていただけのグダグダ戦
でもそのグダグダがやがて戦国時代を呼び込むのだから面白い >>128
同意。武田信玄とも少ない兵力で突撃して武田別動隊が到着して
兵力数でかなり差を付けられたにもかかわらず夕暮れまで激闘を繰り広げ
武田の名ある家臣や信玄の弟を討ち死にさせる打撃を与えたのは正直、凄い
城攻めはそれほど得意ではないようで失敗もあるが野戦で負けて
総崩れなどないしな >>133
やはりあの一族なのですな。
早雲は足利義視についてたんでしたっけか。
今川に行ってからまた京にもどってすぐに幕府勤めできるくらいだから
そりゃあ名門っていうかコネあったんだろうなあと。
本人が相模とってからも素浪人ってことにしてたもんな。
そういうしがらみというか名門であることを捨てたかったんだな。
話かわるけど早雲ってまさに総活躍時代の手本とすべき人だよね。
50からはじめて80までがんばって関東に足場を築いたんだから。
伊能忠敬と並ぶ人生二回分な人だ。 >>138
そう、早雲は足利義視の近侍をやってたこともある
コネというか直属の上司が幕府政所執事やってる総本家京都伊勢氏だから
今川に行ったのも幕命だというのが最有力説、というかそれ以外考えられない
素浪人を自称してたなんていう資料はないよ、それは江戸時代の創作だろう
年齢は従来の俗説より24歳若い説が最有力説だから50からじゃなく20代からだよ >>140
自称素浪人じゃななかった、ごめん。
まわりがいろいろいうのをいうにまかせていた、かな。
24歳若い説というのがあるのですかー
でもそうすると今川いって甥っ子のケリつけて京都もどってまた今川いって・・・
なんか忙しい人生ですな。その間に寺いって兵法他の読書もせにゃならんし。 >>141
いえいえ、戦国時代は色々ややこしいからね
50歳からの方が面白いんだけど、どうしてもそれより24歳若い説が有力になる資料ばかり出てくる
優秀な人だったそうだからそういう忙しい人生も難なくこなしてたのかもね
職場でもそこまでじゃなくてもそういう感じの人が居たりするでしょ
どうやってこの人こんないろんな仕事をサクサクこなしてるんだろうという人 旧甲賀郡の者だけど、このエリア望月って苗字が多くてさ、望月陣屋って現存する最古の忍者屋敷とかも
あるんだよね、真田十勇士の望月六郎とかも忍者なので望月氏が由来かも。
昔レッズに居た望月もこの地域出身、あと甲賀郡は三日月って苗字も多いんだけど、今の知事が三日月大造。
今日から湖南市議選挙が始まってるけど「もっちーもっちーもちもっちー もちづき○○でございます!」
とか言いながら選挙カーが走ってるわ、時代が変わっても田舎は旧士族が支配するものなのかね? 早雲て今で言うと中央キャリア官僚が政府与党の支援受けて地方の知事選に出て当選みたいな感じだよな
しかも親戚が有力国会議員とかそんなん >>146
ありがとう、wikiだけだけど拝見させてもらったよ。
諏訪と甲賀になんらかの縁があるのか伝説だけなのか判らないけど、真田幸隆の家来に望月姓
の家来が多いみたいで、信州と甲賀になんらかの縁があるような気がするね >>147
何か戦国時代をなめ過ぎ
そりゃスタートは恵まれてたけどそこからは自分の才覚だけが頼り
少しでも情勢を見誤れば没落するんだから >>147
なわけない。甥っ子を今川当主にするのだって
現当主(代理)に奇襲をかけて切腹に追い込んでやっとだぞ
一つ間違って奇襲が露見してたら逆に自分が切腹か討ち死にだよ
関東での戦いだって20倍以上の国力の山内、扇谷の両上杉相手に
今川の兵力を殆ど頼らずだぞ。両上杉が和睦して全力で早雲に攻撃してきた時は
ほぼ制圧してた相模の大半を奪われ小田原城下まで押し戻され弟が討ち死にしてる
そこから巻き返しての伊豆、相模二か国制覇だよ
幕府の援軍もなく幕府に反抗的な関東の実質支配者の上杉との
戦いはそんな甘くなかったんだよ >>53
関ヶ原大坂で徳川の圧勝が無ければ日本は荒れていたかもと思わせますね >>88
血筋だろうな。
現代のアレ見れば大体察しがつく。
生まれながらの大バカだわ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています