2/12(月) 9:00配信

産経新聞

昭和55年ごろから巻き起こった〝漫才ブーム〟。吉本興業の芸人たちは売れに売れた。だが、一方で「新喜劇」の人気は下降線をたどり始めた。
相次いで若い座長が病気で倒れ、間寛平座長も新喜劇を退団して東京へ進出した。そして平成元年4月「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」が宣言された。
なぜ、寛平座長は退団することになったのか。そのとき池乃めだか師匠は何を思ったのか…。歴史インタビューの後半である。

【写真】平成に入ると徐々に人気が落ち始めた吉本新喜劇。間寛平と桑原和男、前田五郎、木村進

昭和49年、木村進座長とコンビを組んだ寛平さんは、入団4年目で3人目の座長に昇格した。(もう一人は室谷信雄さん)

寛平「大変やったなぁ。終わったらすぐに台本の手直しせなあかんし、他の座員のことも考えなアカン。24歳のボクにそんな力あれへん。 
そんなとき助けてくれたんが、めぐ兄ぃ(池乃めだか)やった。台本はちゃんと手直ししてくれるし、それがまたおもろいんや」

--楽屋でお酒の一升瓶かかえて2人で飲んだと聞いてますよ

寛平「頑張ろな-というたら、めぐ兄ぃが〝いつか月給40万円もろたら北新地に連れて行ったる〟と言うてくれた。そや、あの約束、まだ果たしてまへんで」

めだか「よういうな。あのときボクが40万円もろたら-というたら、〝えっ、めぐ兄ぃ、もろてへんの?〟と言うたやろ。ははーん、こいつ40万円以上もろてるな-とピーンときた」

--GM、ほんまに40万円以上もろてたんですか?

寛平「そら、座長やし…。ほかにもぎょうさん番組にでてたから…」

--ところで、漫才ブームで新喜劇が下火になったとき、なんでGMは新喜劇を退団して東京へ行きはったんです?

<昭和62年、吉本興業は新しいホームグラウンド「なんばグランド花月」をオープンした。メインは落語や漫才、海外の音楽ショー。
人気に陰りの見え始めた「新喜劇」は外された。だが、ファンの間で「なんで新喜劇せぇへんの」という声があがり、復活が決まった>

寛平「ところがや。ポスターを見たら〝吉本新喜劇(コメディー)〟とだけあって、役者の名前が一人も載ってへん。会社に行って文句いうたよ。
名前ぐらい載せてくださいよ。ここまでがんばってきたベテランもおるし-ってな。けど、いつまでたっても載せようとせん。頭にきてけんかになってしもた」

https://news.yahoo.co.jp/articles/805f2455a9705dc20ece54a41de7a1770fe7b7c8

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