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12月21日、新日本プロレスの後楽園大会で、11日に亡くなった木戸修(享年73)の10カウントゴングセレモニーが行われた。

〝いぶし銀〟と称された木戸は、数少ない新日本の旗揚げメンバーだ。口数も少なく、気まじめな木戸が新日本を離脱してユニバーサル・プロレス(旧UWF)へ移籍したのは驚きだったが、会見で「(UWF最高顧問)師カール・ゴッチの〝一からやり直してみないか〟という一言に共鳴、心機一転を決意した」と語った木戸の表情は晴れやかだった。

そのUWFのリングで木戸が笑顔を見せたのは、今から39年前の1984年(昭和59年)12月26日、後楽園大会で行われたスペシャルバトルロイヤル。この日は〝ファン感謝デー〟の趣で開催され、このバトルロイヤルは〝成りきり〟だった。

スーパータイガー(佐山サトル)は16文の足型をくくり付けジャイアント馬場に変身。前田日明は〝意味深〟な坂口征二、高田伸彦(後の延彦)は藤原喜明。その藤原は金髪のカツラをかぶり上田馬之助に。山崎一夫はモンゴル風帽子をかぶりキラー・カーン、マッハ隼人はザ・グレート・カブキ、北沢幹之レフェリーはマスクをかぶりスーパータイガーだ。練習生もマシーン軍団として参加。そして木戸は長州力に扮した。

木戸はサソリ固めを仕掛けると、左手を突き上げ観客にアピール(写真)。長州はサソリの体勢からこのようなアピールはしないが、木戸が思う長州のイメージだったのだろうか。

さて、「木戸修、死去」の報は、新日本OBの新倉史祐のX(旧ツイッター)で広まったといわれる。

14日に、「最近会っていなかったので、非常に残念だ。自宅に伺えば、ベランダで上半身裸で腕立てやコシティを一緒にやった。若いときはかわいがってもらったので、連絡を受けたときはショックだった。ご冥福をお祈りいたします。木戸さん、いろいろありがとうございました」とツイートした。

この投稿が物議をかもす。 

「新日本は家族の意向を受けて、年明けに発表する予定だった。SNSで拡散してしまったので、家族は公表しても構わないと新日本に連絡したようだ」(事情通の話)
 
新日本は14日、「ご遺族の意向に沿い、葬儀後に皆様へのご報告を予定しておりましたが、SNS等で情報が広まっておりましたため、予定から前倒す形でのお知らせとなりました」とHPで公表した。

後日、新倉は青ざめた表情で反省を口にした。

「どこかで詫びなきゃなと思ってました。私のツイートで拡散しちゃって申し訳ないことをしました」

改めて新倉に話を聞いた。

――木戸さんが亡くなったのを知ったのは

新倉 13日に(新日本)道場の小林(邦昭)さんに一報が入り、私は小林さんから聞きました。

――僕は14日に新倉さんのツイートで知ったが、前日13日の日付またぎ14日深夜にSNSで知ったという東スポ社員もいた

新倉 そうですか。私が投稿したのは14日の午後1時ごろです。10分後くらいに宮戸(優光)から『本当ですか?』と電話がありました。そのうち、あれよあれよと60万アクセスに達して、さすがにビビりました。

――すごいアクセス数だ

新倉 ちょっと反響が大きすぎたんで15日に朝一で消しました。色んなコメントも入ってたんで。「お前がなんで、そんなこと言うんだ!」とかはなくて、(木戸さんを)惜しむ声ばかりなんだけど。色んな人から電話もあったんで。これ以上、増えたら怖いなと。

――改めて、木戸さんとの思い出は

新倉 当時(80年代初期)、地方のスポンサー筋に呼ばれる食事会にはいつも連れて行ってくれました。それと木戸さんはすごくおしゃれでした。洋服は新宿、ブーツは青山。全部、作るところが決まっていた。3、40年前からルイ・ヴィトンのコレクションを持っていて、ホテル・ニューオータニ(サンローゼ赤坂店)のヴィトンにもよく行ってましたね。私はよく付き合わされました。

――プライベートでも交流があった

新倉 木戸さんって人とあんまり付き合わなかったんで。気を許してたのは私と宮戸、西村(修)君。西村君はかわいがってましたね。

※以下出典先で

東スポ12月24日 10:00
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/286703