竹内まりやの「September」は恐る恐る、”運命のバンド”はオメガトライブ 林哲司の50年
10/14(土) 11:16 AERA dot.
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb6549e67deb6f61ce154a66ef80eb47190ee494?page=1
作曲家・林哲司さん/撮影・山形赳之
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 杉山清貴&オメガトライブ、竹内まりや、稲垣潤一、菊池桃子……アラフィフの青春を彩った楽曲たちは今「シティ・ポップ」として世界中から注目を浴びている。「シティ・ポップ」を代表する作曲家といえば、“林哲司”をおいて他にはいない。作曲家デビュー50周年を記念したコンサートが開催されるのを前に「シティ・ポップ」流行への思い、アーティスト達との邂逅、ヒット曲連発の裏側など、50年の作曲家人生を振り返ってもらった。

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■「シティ・ポップ」が世界を席巻中

――1980年代、日本のポップシーンの中心だった林哲司さんの楽曲が今「シティ・ポップ」として世界中の注目を集めています。

「シティ・ポップ」については、本当にたくさんの人たちが分析し、総括し、語っていて様々な意見があるので、僕がいまさらあれこれ言うことはないんです。でもどの意見にも一理あって、海外では単にシティ・ポップ=80年代の日本の都会的な曲で総称されているのに、日本では複合的な意味合いでブームが起きていると感じています。個人的には「アメリカ人には出せなかった日本人の機微」「洋楽と邦楽、両方の要素」といった面が、改めて今、評価されているように感じます。(※中略)

■「シティ・ポップ」と括られることへの抵抗感

――今では「シティ・ポップ」といえば林さんの楽曲を指します。

 よくそう言われるんですが、正直、「シティ・ポップ=(イコール)林哲司」と言われた当初は戸惑いもありました。今でも「シティ・ポップ」と僕の音楽を一括りにされるのは音楽家としては抵抗感がありますね。「それだけじゃないぞ」と。映画音楽やテーマ音楽などのインストゥルメンタルの楽曲、バレエ音楽や邦楽合奏曲なども作曲してきましたから。「海外で大ヒットしている」と言われても、不思議な現象という戸惑いが先行して、「やってやった」感はまったくない。(※中略)

■時代とミートする=ヒットする要素

――大勢のアーティストに楽曲を提供し、ヒットを飛ばしてきました。

 それぞれのアーティストに曲を提供し、一緒に創り上げていく過程で「時代とミートした」といいますか……いきなりではなく徐々に「ヒットする」要素を掴んでいったように思います。特に80年代にヒット曲を量産していく前段階で、竹内まりやさんと松原みきさんと同時期に仕事した経験が転機になりました。

――竹内まりやさんには最近(2021年)も曲を提供しています。長いお付き合いですね。

 竹内まりやさんには「September」を提供したのですが、ちょっと歌謡ポップスのようなメロディーになってしまったので恐る恐る提出したんです。でも、あの竹内さんの独特なウェットな声質と相まってポップチューンを生み出し、ヒットしました。同時期に松原みきさんには「真夜中のドア 〜stay with me」を提供したのですが、僕としては完璧な洋楽志向で書いた曲だったのに、作詞家の三浦徳子さんの日本語の詞、松原さんのジャジーな声質がのったとき、思いもよらず新しい日本のポップスになりました。

 このアプローチの違ったアーティストが、洋楽と歌謡曲の狭間で、双方の要素をうまくブレンドした「中央」に寄っていったんです。(※中略)

■オメガトライブから「日本を意識」

――「杉山清貴&オメガトライブ」にはたくさん楽曲を提供しただけでなく、ビジュアル面や世界観まで、プロデューサー的な面も担われました。

 ビジュアル面や世界観は、プロデューサーである藤田浩一さんが当初から持っていたもの。僕はそのイメージを音楽で捉えて作曲やサウンドでカタチにしていきました。

「オメガトライブ」は単なるバンド名ではなく、一つのプロジェクトだったんです。もちろんプロデューサーとメンバーが中心なのですが、僕もそのプロジェクトの一員でしたから、僕の作曲家人生においてもオメガトライブはまさに「運命のバンド」ですね。

(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)

(構成 編集部・工藤早春)