トーチュウ2023年8月28日 11時34分
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(前略)
熱すぎるがゆえ野球の応援を巡るトラブルは草創期から起きていた。

【慶応の稚気がきっかけで早慶戦中止】初の応援トラブルは1906(明治39)年の早慶戦だった。初戦で勝った慶大応援団は大隈重信邸の前で「慶応ばんざい」を繰り返した。スマートな慶応のイメージとはほど遠い稚気あふれる蛮行。第2戦で雪辱した早大応援団は福沢諭吉邸の前で「早稲田ばんざい」と同じレベルの仕返し。あまりに不穏な空気が流れ、決勝戦となる3戦目は中止。その後両校の対抗戦は19年間途絶えた。

【慶応の水原茂も気の毒だったリンゴ事件】早慶戦が再開し、1933(昭和8)年に恐れていた騒動がついに起きた。慶大内野手の水原茂(後の巨人監督)が投げ込まれたリンゴを早大応援席に投げ返したのが発端で試合後、両校の学生が入り乱れて大乱闘。結局水原は退部する羽目に。そもそも投げ入れた早稲田が悪い気がするが…。混乱を避けるため、早大は一塁側に、慶大は三塁側に固定され、組織だった応援はしばらく行われなくなった。

【顔面ふみつけ騒動】その点、明大の応援団は対外的に統制がとれていたそうだ。ただ、こちらも熱くて困ったことも。中日のエースだった杉下茂さんからこう聞いた。「昔から気合を入れにやってきてたんだ。雰囲気で分かるから、そんな時はボクは帰らなかったよ。でも、要領の悪い人がいたようでね、負けた試合後、合宿所入り口の隣の部屋でのんびり寝ていたところ顔を踏んづけられて…」。それが中日に入団した国枝利道さん。晩年、中日屋内練習場の管理をされている時にお世話になったが、やさしくて気のいい人だった。お気の毒に。

【監督が学生に詰問される】杉下さんより11歳上で、夏の甲子園3連覇投手の吉田正男さんも応援団の乗り込みに立ち会った。明大に入学した1934(昭和9)年のこと。仲間を連れて乗り込んできた学生は「責任をとってやめるべきではないか」と監督が涙を浮かべるまで詰問したという。吉田さんと中京商から同期だった杉浦清さん(後の中日監督)も自著にこの出来事を書いている。そんな理由で吉田さんは中日スポーツの記者になった後も応援団や精神論が苦手だった。
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プロ・アマ問わず野球の応援シーンをリードしてきた大学の応援団も今は組織が変わり女性の主将、リーダー、旗手も珍しくない。日本の文化ともいえる応援。もめごとのない楽しい風景が続きますように。(増田護)
※参考文献 「ユニフォームは知っている」(杉浦清著)「早稲田大学応援部の歴史」(早稲田大学応援部)「応援歌物語」(牛島芳著)

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