読売新聞2023/04/30 11:47
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2006年元旦。朝練習を終えた亜大の選手に、監督だった岡田正裕さん(77)は笑顔で言った。「おい、お前たちだったら優勝できるぞ」。「やるぞ」という声も上がったが、当然ながら半信半疑の部員もいた。「絶対王者の駒沢を止められるかな」

月間走行1300キロ、雑草軍団からスタミナ集団へ…2006年
 大本命は4連覇中の駒大だった。出雲駅伝を制した東海大や全日本王者の日大、選手層の厚い順大も優勝候補に挙げられていた。出雲8位、全日本11位の亜大を推す人はほとんどいないのが現実だった。

 その年の亜大は、自他共に認める「雑草軍団」だった。インターハイの出場経験があるのは4区の菊池昌寿だけ。それも5000メートルではなく3000メートル障害だ。実績のない選手たちが猛烈に走り込み、スタミナ豊富なランナーに育っていく。

 強化の根幹が、8月に20日間行う「地獄の阿蘇合宿」だ。標高800メートル、起伏のある1周3キロのクロカンコースを、朝5時半から10周する。午後はロードを30キロ走る日もある。月間走行距離は1200~1300キロ。夏を越えると選手たちの顔つきが変わった。「このチームは阿蘇で誰よりも練習したんだ」との自負が「優勝宣言」につながった。

往路6位、9区で大本命・駒沢大かわす
 1、2区の出遅れが響いて往路は6位。それでも岡田さんは慌てなかった。「往路重視のチームが多いが、うちは往路5・5、復路4・5くらいの割合で選手を配置している」

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 7区で5位まで上げ、8区に入ると気温が急上昇した。首位を独走していた順大の選手が脱水症状になり、4位まで後退。亜大は佐賀県出身で暑さにはめっぽう強い益田稔が、順位を2位まで押し上げた。

 9区は岡田さんが「いちずな男」と最も信頼する山下拓郎。春先には「思うように走れないから」と退部を決意し、寮から姿を消したこともあった。数日して戻った後は毎日、日の出前に1人走り込み、チームの手本となった。

 山下が首位の駒大を抜くと、岡田さんは10区の付き添いの部員に電話をかけた。すると「(10区の岡田)直寛が震えています」という。「何を言うか。代われ」。電話に出た岡田直に優しく語りかけた。

 「いいか。今までうちは3位が最高だ。3位で帰ってくればいいから」。岡田直は楽な気持ちになり、ゴールに向けて走り出した。

2006年、笑顔で初優勝のゴールを駆け抜けた亜大・10区の岡田直寛
 大手町で宙に舞った岡田さんは、そのとき60歳。その後、73歳になるまで監督として箱根に挑んだが、優勝を予言することは一度もなかったという。(小石川弘幸)