ラグビーリパブリック2023.04.03
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筑波大ラグビー部に所属していた中田都来(なかた・とらい/FL)が、第117回医師国家試験に合格した。3月16日に合否が発表された。

大阪大学医学部附属病院に就職し、4月からは市立伊丹病院で研修医として働く。

母・勢津子さんが淡路島で「中田医院」を開業していたこともあり、医学の世界は身近にあった。
「母には感謝しています。勉強もラグビーも不自由なくさせてくれました」

国内トップクラスの進学実績を誇る、灘中・高に学んだ。2017年、筑波大(医学群)に入学。4年間、体育会のラグビー部でプレーを続けた。

医学部で体育会ラグビー部に所属していた身近な人に、慶大の古田京(SO)がいた。2018年度には同大学の主将も務めた2つ上の先輩は、面識こそなかったが、「両立はできる」と思わせてくれた。

「迷いましたが挑戦しようと。23人目なのでギリギリでしたが、オール兵庫に入れたことも大きかったです」

「筑波にきてよかった」と目を細める。
「ラグビーに真摯に取り組む、ラグビーに人生を賭けた人たちと会うことができました。これからもラグビーに関わりたいので、この経験は必ず生きると思います」

2年時からの3年間は、同期の小杉怜とシェアハウスに住んだ。先輩の中村大志(現S愛知)と安藤丈裕の卒業を機に受け継いだ部屋だ。
「めちゃくちゃ楽しかったです。ザ・たまり場でした。ずっとスマブラをやっていました」

いまは新主将の谷山隼大と大塚椋生に引き継がれた。「食事も最初は一緒に作っていたのですが、すぐになくなりました。彼らにも同じことが起こってると思います」と笑う。

ラグビー生活も充実した。体育学部(体育専門学群)の学生がほとんどのラグビー部にあって、医学部の自分を受け入れてくれたコーチ陣に感謝する。
対抗戦直前の9月は、1か月早く夏休みが終わる医学部にだけ授業があった。そこでコーチ陣は、中田が全体練習に参加できるようなスケジュールを組んでくれたのだ。

「他の大学であればそうはいかなかったと思います。嶋さん(嶋﨑達也監督)も古川先生(拓生/前監督・現部長)も好意的に迎えてくれました。助けられてるなと。本当にそう思います」

対抗戦デビューは想像よりもずっと早かった。2年時の開幕節・早大戦に6番で出場して以来、ほとんどの試合に先発した。
「うまくいきすぎでしたね」

ウエートトレの成果が出た。同期の一口隼人(JR西日本)と、ひたすら体づくりに励んだ。2人ともコンタクトの強いフィジカル自慢の選手に成長を遂げた。
「3年になって嶋さんにやり過ぎと注意されたこともあります(笑)」

レギュラーを掴む前の1年の冬には、コンバートを経験していた。それまでのポジションはCTBかWTBだった。
「高校ではSOだったのですが、パスが下手すぎてどんどん外側のポジションにスライドして、最後はFWにいきつきました」

高校時代は名前の通り、「トライ」をたくさん挙げる司令塔だった。それが大学では一転、愚直にタックルに入り続けたり、素早くラックを越えて味方の球出しを助けたり、下働きをこなした。「大学では中田オーバーでした」とジョークをかます。

順風満帆に思えた競技人生はしかし、きれいに終えることが叶わなかった。4年時はコロナに苦しめられた。医学部の学生として、そのウイルスには細心の注意を払う必要があったのだ。
対抗戦が開幕する10月からは病院実習が始まる。大学からの厳しい制約があり、最後まで仲間と戦うことができなかった。

「ルールが日々変わる中で、その都度、嶋さんとできることを話し合いながら練習してきました。でも対抗戦が開幕してしばらくしてから、これはどう解釈してもダメだなと。早稲田戦を最後にしようと決めました」

早大戦はまだ5節だった。
「いつもの試合と同じような気持ちで準備はできました。ただ大敗してしまったので(22-50)、これで終わりかよ、とは思いましたね」
 
試合を終えたあともトレーニングは続けた。シーズン中にいつコロナが収まり、いつ制限が緩和されるか分からなかったからだ。
「グラウンドには行きますが、コンタクト練習をやってはいけないので、ひとりだけマスクをつけながら端っこで走ってました」

シーズン終盤、病院実習がない年末年始であれば出場できる可能性はあったけれど、願いも虚しく、チームは3回戦で流経大と引き分け、抽選で準々決勝には進めなかった。
「人生そんなにうまくはいかないなと。でもこればっかりはしょうがない。感情的にならずに受け止められたと思います」

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