『どうする家康』でド肝を抜いた「まるで平城京」清須城の規模に発掘中の研究者からも疑問が「今年の大河はファンタジー」の声も [朝一から閉店までφ★]
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エンタメ・アイドル 投稿日:2023.01.31 16:50FLASH編集部
NHK大河ドラマ『どうする家康』の第4話が1月29日に放送された。世帯平均視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区)は13.9%で、第3話の14.8%からやや下落した。第4話では、松本潤演じる松平元康(のちの家康)が、信長(岡田准一)の尾張・清須城へ向かい、木下藤吉郎(ムロツヨシ)や、市(北川景子)らを紹介され……という話が展開された。
この第4話に出てきたシーンに関する、あるツイートが注目を集めている。
【関連記事:「有村架純が可愛すぎ」と評判の『どうする家康』史実を知る視聴者からは「歴史を変えて!」早くも飛び交う悲鳴】
《あの~、いま私たちは清須城を実際に発掘調査してるんですが、いったい清須の近くのどこにあんな山や丘陵があるんでしょうか?》
「考古学研究者」だという人物によるこのツイートには、元康と市が山の上から、清須城とその城下を見下ろすシーンのテレビ画面が添付されている。城などの風景はCGのようだ。
ちなみにこのシーンは、静岡県浜松市北区滝沢町にある展望台で撮影されたことが、浜松市の公式Twitterで明らかにされている。
さらには、
《何度見ても、これが濃尾平野とは思えんわ… それにこの時期の清須城はこんな大規模じゃないし》《(清須城が)まるで平城宮の第一次大極殿院のようだ。おそらくモデルは秦の阿房宮か漢の長安城ってとこだろう》と、考古学研究者の嘆きツイートは続いている。
「清須城は濃尾平野のほぼ中央部に位置し、周囲の地形は真っ平です。また信長時代の清須城はそれほど大きなものではなく、ドラマに出てきたような、まるで中国の紫禁城を思わせるほどの規模とはまったく別物だと、多くの人が指摘しています。『どうする家康』は放送開始直後から、あまりに史実とはかけ離れた演出が物議を醸しており、大河ドラマらしくないという声も多くあります」(テレビウオッチャー)
SNSには
https://smart-flash.jp/entame/220046 >>586
知らんがな。
松本はヘタレガキでしかない家康を演じる仕事をちゃんとやってるだけッて話をしとんねんこっちは。
あんなキモくしてくれとは言われてへんやろけど。 >>579
ぶっ翔んで、というほど斬新ではなくて
小手先でちまちま弄って目端を変えようとしてるだけ >>590
確かにそんな内容だったな
すまんすまん 大河を町おこしにしたがる勢力があるからな
そういう奴らは今の清洲城を使って欲しいわけよ
ご当地大河の弊害だ 学芸会なんだから
みんな楽しく演じられれば
いいのさ
視聴者なんてかんけえねえ >>589
なんで受信料払った上になんで時代劇チャンネルまで見なきゃならんのやNHKの犬ジャニヲタババア
>>591
そら知らんわなお前はただの糞ガキ擁護の馬鹿ババアだし 三英傑が中二病のクソ単語ってさすがジャニヲタ馬鹿ババア最低限の常識すらなくて笑う 今回に限らず印象的な映画のワンシーンを意識したような演出は増えている 1話丸々アニメやオペラにしたら面白いんじゃないのw >>596
お前がどういう話をしたがってるのかをちゃんと言ってくれてなかったせいで話が噛み合ってなかったぞ
っていう意味な。 上の「知らんがな」は。
この「知らんがな」はこちらも言葉足らずだった。 >>596
家康もつまらんけど、君の凝り固まった価値観も相当つまらんよ
すぐ犬とかジャニオタとか言っちゃうセンスねw レジェンド&バタフライの家康は何で斎藤工じゃないとだめだったんだ?
あれはひどい 古沢良太だもんね。杏に伊達眼鏡かけさせて15%とってから止まらないもんね。
キムタクの信長も凄いもん。ぶっ飛んでるし。東映が自信なくして目標下がる
位だから(笑) 三谷は当然、クドカンも歴史資料の読み込みと忠実さはあるのにな
古沢は資料読みも歴史へのリスペクトも無い >>602
はいはいがんばってね犬HKの忠犬馬鹿犬さん爆死ドラマ擁護も大変だね >>68
あれは、それらを凌駕して尚余りある豪華俳優陣の為せる業。ただ五右衛門の秀吉襲撃は大阪城どれだけ広いねんと(;^ω^) >>361
鳴海潟っていう遠浅の海が当時はすぐ近くまでせまってたらしいけど、ただあのシーンはどう見ても伊勢湾内(しかも遠浅の干潟)ではなくて、外海にしかみえなかっけど >>607
目先さえ面白くくちゃくちゃしたらいいんだろ根性がな
しかもそれが悉く面白くないという DNAに文化が記録されていない人種が作るからこうなる
邦画もそうやん >>408
「草生える」とかいう昔の大河を下敷きにしたッて公言してるらしいし >>258
松本潤ってもうちょっと無難にこなせる俳優だと思ってた
慟哭するシーンがひどくて見てられない お市の初恋の相手が家康で
信長が家康とお市を結婚させようとしたり
氏真が瀬名に対して側室以下の扱いをしたり
ファンタジー要素は満載 天皇家を王家と呼ばせたプロデューサーだろw
推して知るべし >>紫禁城
観たけどまあ別にいいだろ。
松本演じる若き日の家康には、そんな風に見えたんだよ(笑) >>3
>古沢さんとやらの黒歴史になるんかね
それな 今まで良質の脚本書いて評判良かったのに
この一作で古沢良太の評価が地に堕ちる可能性あるぞ >令和の時代にアップデートされた家康像
史実なんぞ、時代が変わろうとアップデートなどされるわけがないんだけどな >>620
>天皇家を王家と呼ばせた
当時、天皇家を王家と呼んでたなんて
単にお前が物知らずの阿呆なだけで歴史の常識だぞ
保守的な歴史家でも天皇家の事を王家を書いてる >>626
権門体制論と言う考証を担当した本郷とは反対の学派が使ってる学術用語に過ぎない このドラマがアカン所は絶望的にエキストラが足りない所だよ
圧倒的にエキストラをケチりすぎてる >>624
『グレートプリテンダー』ってアニメも糞不評だったけど、
アレはアニヲタと古沢ファンぐらいしか見てないからあんま影響ないんかな >>631
エキストラ足りないのは真田丸とかもそうだったし昔からだよなぁ >>1
お?
今年で遂に関が原においての徳川ジャイアンツの連勝が止まるのか? 日本史をざっくりでも勉強したいならまんが日本史を観るべし。なかなかに目からウロコの説得力。大河は大概で好いではないか(;^ω^) >なお、中世における史料『保元物語』『平治物語』『陸奥話記』『将門記』『平家物語』『源平盛衰記』に「王家」の記載はなく、
>「皇室」「皇居」「皇化」「朝家」「君朝」「天皇」などの表記は見られる。
> 『神皇正統記』では「王家之権」という熟語として「王家」の文字が2件見られるが、
>「天皇」は100件以上、他にも「皇家」「皇宮」「皇祖」「皇統」など多数の「皇」の記載が見られる。
なんだよ。当時の文献でも「王家」の表記はまれのようだぞ >>262
関係あるんだが、鎌倉殿とは
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 三谷大河は舞台大河
どうするは漫画大河
葵3代のような大河ドラマは死んだ!もういない
諦めろ >>637
面白きゃいいけどそのマンガ日本史の足元にも及ばない駄作じゃな ちなみに放映当時の葵3代は評価も高かったが一部では老人大河と揶揄されてたし まだだ、家康が家臣団を引き連れて歌って踊り出すまでは大丈夫だ >>40
小学生や中学生が見て間違ったイメージを持ってしまうと修正に余計な労力がかかる
現代語への変換はいいでしょう
色彩も感覚的な補正があるので許せるとして
大きさの誇張は程々にしてほしい
今川館で育った家康が清洲城下ごときでビビるはずないんだから表現としても大失敗 もう、台本変えろ
岡崎城下していた家康が気絶、タイムスリップして足利尊氏の家臣になる台本に
ここには今川や関口の先祖が集まった
そもそも、今川(三河国碧海郡今川)、関口(三河国宝飯郡関口)は三河武士
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河国だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」 ファンタジーでいいのなら今年は桶狭間で今川義元が織田信長を返り討ちにする展開を見たかったな 関ヶ原の戦いとかも実際は無かったし
徳川幕府自体が壮大なファンタジー その前に脚本がな
お市とのあの長ったらしいやり取りいらないだろ
これから面白くなっていくのか凄く不安
途中で投げる人出てくるんじゃねーのこれ どうせなら異世界転生で家康に転生
何のチート能力も持たずに家康に転生してしまった現役高校生的が~どうする?の場面に直面する物語 開き直って中国系大河ドラマを作れば良かったのにな? >>646
一言一句同意
結局この脚本家って話が前と後ろでつながっていかないめちゃくちゃなんだよなあ たしかに駿河守護だった今川氏の今川館のほうが地域の中心地であり、規模も贅沢さも上だったはずだよなぁ その駿河の居心地が良かったから最後隠居場が駿河城になるわけでこの馬鹿脚本家が後先考えて筋書いてないのバレバレ >>658
物知らない田舎者だな
頼朝が推薦した鎌倉御家人は、三河守、駿河守、武蔵守
三河の先輩たる源頼朝に倣っただけであり、頼朝が駿河守を推薦していなければ、駿河に隠居してない
三河 生誕の地
武蔵 幕府開府
駿河 終焉の地
元暦元年(1184)6月20日
臨時除目
頼朝推薦
権大納言:平頼盛
侍従:平光盛
河内守:平保業
讃岐守:一条能保
三河守:源範頼
駿河守:源広綱
武蔵守:平賀義信 大河は合戦でも映像がしょぼいって言うから、
今度は馬が増えたり城が立派になったっていうのに、
お前らは何やっても文句ばっかりだな 信長が西洋鎧着ているっていう変な常識がついちゃって嫌だ
コーエーのせいなんだけど 家康の生涯なんか妙な脚色や演出入れないで歴史通り作りゃ
まず面白くなると思うんだがなー
Pや脚本家や演出家の自己満アピールでわざわざつまらなくしてるとしか 吾妻鏡には三河がよく出てくるが
特にこの話は、松平の菩提寺たる大樹寺から直線距離で約3キロから離れていない滝山寺の話
平安末期からの三河史をよく知らないと、家康の事は分からんぞ
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた聖観音像(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
頼朝の母方菩提寺にある、頼朝の歯と顎髭が納められた、頼朝等身大の聖観音像
吾妻鏡
文治四年(1188)十一月大九日庚子。頼朝様の甥(従兄弟の間違い)に当たる僧の任憲が参りました。
未だに会った事も無く良く分からないので、質問してみると、故祐範の子供だと言っております。そこで、北の私邸の客間へお呼びになり、丁重にもてなしました。
その祐範は、季範様の息子で頼朝様のお母さんの弟です。お母さんが早死にした時に、七日目毎の供養に(故祐範が)澄憲法印をお呼びになり、成仏のためお経を唱えさせました。それだけにおわらず、永暦二年に伊豆国へ流された時に、下男一人を付けさせて送って来てくれ、それから毎月使いをよこしました。
そのような恩義を忘れる事はありません。そこへその息子がたまたまやってきたので、これもご先祖様のおかげの良いかたみだと大変お喜びになられましたとさ。
季範は頼朝の祖父、熱田大宮司
祐範は三河法橋祐範といい三河国滝山寺僧
祐範は、三河国滝山寺で姉である由良御前を菩提
澄憲法印は信西の息子で、由良御前のハトコ
祐範が頼朝につけてやった下男一人とは安達盛長と思われる >>650
とっくに投げられてるやろ
残ってるのはツッコミ入れながら見るネタドラマと割り切ってる層
必死に擁護してるのはジャニオタか関係者だろう 大河に求めているのはファンタジーや新説じゃないんだよね
今まで日の目を浴びてこなかったような人物を魅力的にストレートに扱うだけでいい >>405
作った三河人に確認取れよ
尾張の支配者たる斯波義重は、将軍家を除くと武家の極位たる正三位まで昇った貴族中の貴族だが
農作業従事者の尾張の田舎者は関係ありまへんw
義重が墓参りするとーちゃんが建てた族寺は、三河県岡崎市にあった
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
清洲城の築城者は、元岡崎市民と西尾市民の娘の間の子供の斯波義重
斯波義重
・斯波氏(武衛家)6代当主
・管領
・越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護
・正三位
父:斯波義将
・斯波氏(武衛家)5代当主
・管領
・越前、越中、信濃守護
・従三位
母:吉良満貞の娘
・父は西条吉良氏
・父は三河国西条城主
・父は引付頭人
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした >>419
火縄銃の連続打ちと良い自分らで作っているもの自分らで見ていないだろうという
酷い出来だから気持ちはわかるけど いっそ半蔵の門原作でやって欲しいわ
有村架純が「もそっともそっと」と尻をくねらせる お城が中国風だったり存在しない山があったりでご当地感ゼロ
いまどきアニメだってもっとマシなご当地感だしてる >>457
気後れ感などあるわけ無いだろう
当時の三河は、緊張感MAXの足利将軍家本拠地であり、広域暴力団員がウジャウジャいた
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 >>623
本当にそうなら先週のラストシーンでその種明かしすべきでは。
たすけてせな、で日本刀握りかえすほど
一大決心したんだから。 ■令和5年 節分会について|大本山成田山新勝寺
https://www.naritasan.or.jp/2023/01/24/34823/
2月3日(金) 第1回11:00/第2回13:30
特別参加年男・第1回/第2回
◎大河ドラマ どうする家康 出演者より
酒井忠次役 大森南朋
鳥居元忠役 音尾琢真
大久保忠世役 小手伸也
本多忠真役 波岡一喜
女大鼠役 松本まりか >>75
あのな、そもそも松平は裕福な家
天皇の勅願所にもなる寺建ててんだよ
つーか、建てた寺が天皇の勅願所になるのは、普通じゃない
3代目松平信光創建
・信明光寺(1451年創建)
1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建)
1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
4代目松平親忠創建
・大恩寺(1477年創建)
1493年、後土御門天皇勅願所、紫衣着用が許される ポップなロゴ
キャストの文字が横文字
勇ましさを感じないテーマ曲
丸わかりCGを多用
回想や場面転換を無駄に多用
史実や時代考証なんて知らん
敢えて、逆に、斬新、とかに酔ってそうなオレカッケー製作陣だなと 国師号は、国民のお手本の意味だが
松平と天皇家の関係は普通じゃない
存牛は家康が7才の時まで在命だった
存牛
文明元年(一四六九)—天文一八年(一五四九)一二月二〇日。尊蓮社超誉。高顕真宗国師。知恩院二五世。知恩院を復興させた室町時代末期の僧。三河国岩津(愛知県)城主松平親忠の第五子。文明一三年(一四八一)同国信光明寺存冏ぞんげいに師事して出家、のち大恩寺了暁につき、永正八年(一五一一)には信光明寺三世となる。同一七年知恩院二四世訓公の遺言で後継者に推されたが、これを固辞。後柏原天皇の綸旨りんじと知恩院本末寺院の懇請によって、翌年知恩院二五世に推戴された。応仁の大乱以降荒れ果てた知恩院の復興に尽力するとともに、皇室との関係を深め、浄土教の布教に努めた。その結果、大永四年(一五二四)正月一八日後柏原天皇より法然上人の祥忌月の法要を「御忌ぎょき」と称すべき旨の鳳詔ほうしょうが下され、次いで後奈良天皇より「知恩教院」「大谷寺」の勅額を賜った。知恩院復興後は、同七年知恩院を退いて信光明寺に帰り、天文一四年(一五四五)に三河高月院に隠居して念仏生活を続け、同一八年に入寂。死後、安政四年(一八五七)、孝明天皇から国師号を賜っている。 >>678
回想や場面転換の無駄な多さがまさに日本の漫画 >>463
お前の妄想はお前の金だけで勝手にやってろ
としか 忠臣蔵もめちゃくちゃだし信長の死は確認されてないしみたいに基本ファンタジーだろw 元康が信長を「大王」と呼び始めたら中国歴史ドラマなんやけどなぁw >>678
支配階級と無縁な物を知らない糞カッペリにドラマ作らせるとこうなるんだよ
細川郷、松平郷、トヨタ本社の三角地帯は日本最強のパワースポットなんだが
家康を語るなら、平安末期(過去)から現代(未来)を三河を語らな無ければならない
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) 清洲城は斯波義重が建てたわな。本物の清洲城は新川の西側に建っていた。
斯波義重の自筆の額が屯福寺(一宮市)にある。 そもそも尾張土着は、関係無い城
尾張の支配者たる斯波義重は、将軍家を除くと武家の極位たる正三位まで昇った貴族中の貴族だが
農作業従事者の尾張の田舎者は関係ありまへんw
義重が墓参りするとーちゃんが建てた族寺は、三河県岡崎市にあった
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
清洲城の築城者は、元岡崎市民と西尾市民の娘の間の子供の斯波義重
斯波義重
・斯波氏(武衛家)6代当主
・管領
・越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護
・正三位
父:斯波義将
・斯波氏(武衛家)5代当主
・管領
・越前、越中、信濃守護
・従三位
母:吉良満貞の娘
・父は西条吉良氏
・父は三河国西条城主
・父は引付頭人
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした 取ってつけたような背景CGで逆にスタジオ感が浮き出る興醒めドラマ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています