9/4(日) 10:00配信

スポーツ報知
沖縄への深い愛を語った宮沢和史

 沖縄返還50年を迎えた今年は、ロックバンド「THE BOOM」(2014年解散)の宮沢和史(56)が代表曲「島唄」を発表してから30年の節目でもある。「沖縄が僕に作らせてくれた」という名曲はどう生まれ、どんな思いで歌い続けてきたのか。今も沖縄と深く関わり続ける宮沢に聞いた。(高橋 誠司)

【写真】三線を初めて弾いたのも「島唄」だったという宮沢

 誕生から30年。「島唄」は歌詞にある通り、風に乗り、海を渡り、多くの人に愛されてきた。「代表曲ということだけじゃなくて、常に意味を持って歌ってます。この30年、沖縄もいろいろあったし、日本も世界もいろいろあって、震災後に歌う『島唄』には違う意味が生まれたり。『島唄』は一つの器で聴く人がいろんな思いを乗せてくれるものだと思っていて。生きてる曲というか、毎回生まれ変わるんです」

 シンガー・ソングライターを目指して山梨から上京するが、80年代後半のバンドブームに乗ってTHE BOOMで華々しくデビューした。「レコード会社も意欲的にバンドを育ててくれた時代で、あの時代じゃなかったら僕はデビューできなかったでしょう。ただ、僕自身は浮かれたバブルの感じがとても居心地が悪くて。ファーストアルバムにも平和ボケって意味の『A PEACETIME BOOM』(89年5月)ってタイトルをつけたぐらい。そんな中での沖縄との出会いでした」

 少年時代から憧れたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の細野晴臣、坂本龍一らが取り入れていた沖縄の音楽に引き込まれた。「琉球音階が心地良くて、民謡を聴いてみると、三線(さんしん、沖縄独自の三味線)はこれまで体験したことのない美しい音で。音楽を構成するリズム、メロディー、言葉。全ての要素が心地よかった」

 民謡を追求しようと沖縄に足を運んだが「行ってみたら想像以上に戦争の跡が生々しく残っていて。本土の空襲とは違い、これが地上戦なんだと」。激戦地の跡に建つ「ひめゆり平和祈念資料館」では、「ひめゆり学徒隊」の生き残りの語り部の女性の話や数々の資料、悲劇的な最期を遂げたガマ(防空壕=ごう=として利用された洞窟)に衝撃を受けた。「本当に知らないことだらけで。それまで、のうのうと生きてきた自分への恥ずかしさと怒りで、自分が生まれてきたことさえも疑わしくなって。20万人以上の県民の犠牲の上に戦後の復興と平和があるのに、今の浮かれた現実とのギャップはなんだと。プロとして、みなさんに恥ずかしくない曲を作りますという思いが湧きました」

 東京に戻り、すぐ曲作りに取りかかった。「アパートで鍵盤の前に座ってメロディーを考えていたシーンは覚えてるんですけど、あとはよく覚えてない。それぐらいスムーズに詞も曲もほぼ同時に出てきた。だから、僕が作ったという感じはないんです。いろんな人に会って、民謡を聴いて、本を読んだり、ガマに潜ったり、泣いてみたり、笑ってみたりしてできた曲なので。極端に言えば、沖縄が僕に作らせたという印象は今も変わらないですね」

 三線が響くAメロや雄大なサビのメロディーには琉球音階が使われているが、ウージの森であなたと出会い―と歌うBメロでは曲調が一変する。ウージ(さとうきび)の森(ガマの上)で出会った幼なじみが、ウージの下(ガマの中)で集団自決する様子を暗に描いたフレーズだ。「彼らが望まなかった場面で、琉球音階にして、三線で伴奏することは失礼だと思いました」

 できあがった曲には手応えはあったが、「バンドブームの中、ロックバンドが三線を入れて琉球音階で歌うなんて、当時は超異端な曲ですからメンバーもレコード会社も戸惑ったと思います」。県外出身者の自分が歌うことの不安や葛藤も大きかった。「沖縄のこと、戦争のことを知ってほしいという思いも、もしかしたら壮大な自己満足かもしれないし、沖縄の人がこれを望んでいるのかも分からない。でも、喜納昌吉さんに相談したら『この歌を歌え。一緒にヤマトと沖縄の壁を乗り越えていこう』と背中を押してくれたんです」

https://news.yahoo.co.jp/articles/5167d781616922988e88942e531c5f6da299d9f8

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