『もののけ姫』米良美一「僕には隠していることがあった」ブレイク後の困惑と大病、そして“生きろ”の言葉
8/12(金) 19:01 週刊女性PRIME
https://news.yahoo.co.jp/articles/730696044ab781517b711484c24a49e5d8272839
カウンター・テナー歌手の米良美一
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「今日は9月に控えたコンサートのため、共演者で作曲家の加藤昌則さんとリハーサルをしていたところ。当日は『もののけ姫』をはじめとした歌に、加藤さんとのトークもあって、すごく楽しみです」

 日本を代表するカウンター・テナー歌手の一人として、国内外で活躍を続ける米良美一さん(51)。3年前には自身の合唱団を立ち上げ、昨年は地元・宮崎県西都市民会館の館長に就任。現在は宮崎放送のラジオ番組にレギュラー出演し、毎週元気な声を届けている。

◆「生きるのがだいぶ楽になった」

 米良さんが映画『もののけ姫』の主題歌を歌い、一躍ブレイクを果たしたのは25年前のこと。

「ありがたいことに、未だにどこへ行っても『もののけ姫』をと言われます。でもありがたいと本当に思えるようになったのは、つい最近になってから。自分で自分に課したこだわりを脱ぎ捨てるのにずいぶん時間を要したし、自分自身と向き合う作業が必要で、いろいろな方の力も借りました。

 お陰で今は大変な世の中ですけど、僕自身は生きるのがだいぶ楽になった気がします」

 映画公開時、米良さんは26歳。声楽家としてデビューし、クラシック音楽の世界でキャリアを築き始めていた頃だ。運命の依頼は突然で、自身も思いがけないものだったと当時を振り返る。

「お話をいただいたのはちょうどヨーロッパに留学した時でした。“宮崎のアニメの歌を歌わないか”という依頼があると言われ、宮崎県のアニメなんだ、僕も宮崎出身だから親孝行にもなるし、恩返しできるなと考えていたんです。でもいざ蓋を開けてみたら、世界の宮崎駿監督だった(笑)」

 起用の発端は宮崎監督の閃きで、ラジオで米良の歌声を偶然耳にし、新作映画の主題歌にとオファー。米良さんは東京のスタジオジブリを訪れ、宮崎監督、鈴木敏夫プロデューサーと対面した。

「初めてスタジオに伺った時はまだ3、4分のイメージ映像しかできていない状態でした。でもその映像を観たら、美しい山々にイノシシや鹿が駆け巡っていて、これは僕の故郷・宮崎の光景だと思った。

 僕も幼い頃から自然の恵みをいただき、その感謝と鎮魂の儀式の中で育ってきた。まさに僕が生まれ落ちた土地の原風景がそこに描かれていて、何か大きなご縁を感じました」

 映画のヒットで米良さんは時の人に。地声と裏声の狭間を行き交うその声は神秘的で懐深く、宮崎監督が書いた詩の世界観と相まって、物語の風景を鮮やかにそこに描き出す。その声域はオペラ界でも希なカウンター・テナーで、“天使の歌声”とも評された。そして、テレビや雑誌とメディアから出演依頼が次々舞い込むように。露出は日ごと増え続け、同時にその謎の出自に耳目が集まっていく。

「芸能界で突如持ち上げられ、クローズアップされていきました。でも僕には隠していることがいろいろあったから、言えないこともたくさんあって」

◆難病であることを隠しながら

 出身は宮崎県西都市。山々に囲まれたのどかな土地に、およそ2万人にひとりといわれる先天性骨形成不全症を持って生まれた。骨が折れやすく、成長しにくい原因不明の難病で、15歳までに30回近く骨折を繰り返している。

 地元の小学校に入学を拒まれ、6歳から親元を離れ、高校卒業まで養護学校で寄宿生活を送る。経済的な余裕はなく、治療費を稼ぐために、父、母ともに肉体労働に従事し、身を粉にして米良さんを支えた。

 歌は子どもの頃から得意で、歌が常に支えになった。しかし特別な教育を受けたことはない。声楽家を志したのは養護学校在学中で、音楽の担当教師に教えを請い、音楽大学に見事トップ入学をする。

 これら宮崎時代の想い出は米良さんにとって決して楽しい出来事ではなく、封印しておきたい昔の記憶。芸能人にとって暗い過去は必要ないと、取材で聞かれてもひた隠しにしていた。