【音楽】吉田拓郎さん“最後のアルバム” アーティスト活動締めくくる [湛然★]
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吉田拓郎さん“最後のアルバム” アーティスト活動締めくくる
2022年6月29日 14時22分NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220629/k10013693831000.html
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数多くのヒット曲を生み出し、日本の音楽界に大きな足跡を残した吉田拓郎さん(76)が、半世紀以上にわたるみずからのアーティスト活動を締めくくる最後のアルバムが29日、発売されました。
拓郎さん最後のアルバム「ah-面白かった」は、29日から発売され、東京 渋谷区の店舗には、特設コーナーが設けられました。
1970年にデビューした拓郎さんは、「結婚しようよ」や「旅の宿」など数多くのヒット曲を生み出しただけでなく、6万5000人とも言われる観客が熱狂した野外コンサートの成功や、アーティスト自身によるレコード会社の設立、それにジャンルに縛られない楽曲の提供など日本の音楽界に大きな足跡を残しました。
一方で2003年、肺がんの切除手術を受けたほか、2014年には、のどにがんが見つかり、ことし4月に放送されたラジオ番組では「僕の残り時間は多くない」などと述べていました。
今回、発売されたアルバムの制作には、親交のある小田和正さんや、KinKi Kidsなどが参加し、収録された9曲すべての作詞・作曲を拓郎さんが手がけました。
このうち、アルバムと同じタイトルがつけられた9曲目は、妻で俳優の森下愛子さんと、この世から旅立つときには「あぁおもしろかった」と言いたいねと話したというエピソードを基に作られました。
心を通わせ合える存在と、共に生きられたことへの喜びが込められ、半世紀以上にわたる拓郎さんのアーティスト活動を締めくくる作品となっています。
アルバムを購入した59歳の自営業の男性は、「拓郎さんと同じ時代に生きることができ、感謝しかありません。午後は仕事を休みにして、一日中、アルバムを聴くつもりです」と話していました。
拓郎さんは、ことしいっぱいでテレビやラジオへの出演などをすべて終え、一線を退くということです。
◆「ah-面白かった」最後のレコーディングなど映像に
吉田拓郎さんは最後のアルバムの制作に合わせて、レコーディングの様子などを映像として記録しました。
それによりますと、アルバムの制作が始まったのは去年11月でした。
新型コロナウイルスの影響で当初、拓郎さんは、スタジオにいる音楽プロデューサーたちとスマートフォンで連絡を取り制作を進めていったといいます。
そして、ことし3月、実際にスタジオを訪問して、ボイストレーニングに取りかかります。
拓郎さんが人前で歌うのは3年ぶりでした。
その後、拓郎さんは信頼できる仲間と共にレコーディングを続け、曲の出来栄えを素直に喜ぶ姿も見せました。
アルバムの9曲のうち「雪さよなら」という曲の収録には、拓郎さんが盟友と呼ぶ小田和正さん(74)も参加しました。
収録の際、小田さんは「一緒にやろう」と突然、提案してきました。
映像には拓郎さんが「本気か!」と、苦笑しながらもマイクの前に立ち、共にハーモニーを奏でる様子が収められています。
音楽人生で最後となるレコーディングについて、拓郎さんは「音楽では何もできないと言う人もいるけれど、僕は違うと思います。音楽の力は絶対に捨てがたい。それを最後に表せたことに『ah-面白かった』という感じがします」と述べています。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。) 吉田拓郎: 1946年4月5日 (76歳)
小田和正: 1947年9月20日 (74歳)
井上陽水: 1948年8月30日 (73歳)
矢沢永吉: 1949年9月14日 (72歳)
坂本龍一: 1952年1月17日 (70歳)
中島みゆき:1952年2月23日 (70歳)
さだまさし: 1952年4月10日 (70歳)
浜田省吾: 1952年12月29日 (69歳)
山下達郎: 1953年2月4日 (69歳)
松任谷由実:1954年1月19日 (68歳)
竹内まりや:1955年3月20日 (67歳)
松山千春: 1955年12月16日 (66歳)
桑田佳祐: 1956年2月26日 ( 66歳)
佐野元春: 1956年3月13日 (66歳)
長渕剛: 1956年9月7日 (65歳)
ASKA : 1958年2月24日 (64歳)
玉置浩二: 1958年9月13日 (63歳)
小室哲哉: 1958年11月27日 (63歳) ヒムロックは「還暦」というアルバムを出すと言ってたが
どうすんだろうね 拓郎にとって50歳でスタートしたラブラブあいしてるは人生の分岐点だったんだろうな
KinKi Kids篠原ともえとの過ごした時間、本当に楽しかったんだろうね フェスで泥酔した人かと思ったらそれは奥田民生だった 和製ディランの位置づけかもしらんがイマイチヒット曲に恵まれなかったな >>7
意外と信者がいるのって永ちゃんとハマショーと長渕くらいじゃない?
大御所だらけだけどなんか少ないよね 若い頃「青春の詩」の替え歌で「老人の詩」を歌ってたけど
自分が老人になった今どんな気持ちかね >>20
拓郎のライブを初めて聞く人はみんな驚くよ
フォークをイメージしてる人が多いから
基本バンドだし、音もうるさいしね 拓郎がおそらくライバル視してたのが
作曲家なら筒美京平、平尾昌晃
歌手なら沢田研二、タレントなら大橋巨泉 >>19
いるとしたらはっぴいえんど系だな
いわゆるミュージックマガジン系とも言える
これは関西系でもあり、彼らは日本の音楽史の中に吉田拓郎という存在を
まるでなかったかのように伝え続けた 祭りのあととか
いい曲だなと思ってたら
作詞は別の人が担当してる曲も多いんだな 祭りのあとは唯一、美空ひばりがカバーした拓郎曲かな
拓郎は日本ではもう珍しい、いや世界的にも少ない詞先ミュージシャンで
詞に導かれるように名曲が生まれるタイプ みゆきのライブに久しぶりに行きたいなと思ったらもうライブしないだな >>28
ロッキングオンは洋楽雑誌だから別にいいんだよ
しかしミュージックマガジン系のはっぴいえんど史観は酷かった
もちろん80年代は特殊な時代で、物事を真面目にとらえるのがダサいと言われた時代。
みうらじゅんも語っているが、80年代は吉田拓郎という名前すら
会話の中に絶対に出しちゃいけない空気感があったのは確か 刑事物語はタクロー無ければ
タクローで更に良くなった 唇をかみしめてが出来たときの拓郎のオールナイトニッポンを覚えてる
「この曲が出来て自分の中で何か肩の荷が下りたような気がする。
この曲がヒットするとかしないとか、そんなのどーでもいい。
ただ自分の中では自信作」と語っていた。確か1982年だった
そして全くヒットしなかった。それが80年代という時代 拓郎の新曲聞いたけど、白板症の影響か舌がうまく動いてない感じがするね
まあこれで続けてもつらいところはあるだろう テレビに出ない人だと思ってたのにキンキンキッズどテレビ番組やって
あぁー金か~ってなった人だわ 最後のアルバムとか言いながら、なんとなくだらだら活動するんだろ?
カッコ悪い
百恵を見習えや! >>29
現役感バリバリの最中に二度目のつま恋があったし
桑田佳祐は「吉田拓郎の唄」をつくり
渡辺美里も「どうしてこんなに悲しいんだろう」をカバーしていた
拓郎の名前をタブー視していたのは当時の音楽メディアのほう
>>33
ダサいなあお前 >>25
「祭りのあと」は岡本おさみ作詞だけど
全く同じメロディーで拓郎作詞の「ゆうべの夢」という曲がずっと前に出てるよ。 >>34
百恵だのキャンデーズだの女は引退できる、安室しかり
男は基本引退宣言なんてしないし別にそれはなにもかっこ悪いことじゃない
加山みたいにほんとに高齢になるとか氷室みたいに難聴になるとか以外ね >>32
もともと声のいい人だけど、今回のアルバムは声が出し切れてない感じなのが、ちょっともの悲しかった。 >>39
いやほんと
恐ろしいね
自分の人生も終わってく感じ メジャーな人はまだいいよね
ポンタとか土岐英史とか、凄腕裏方ミュージシャンなんて
噂でもうダメだ、亡くなったってパターンばかり
その前に演奏力が衰えてダメだって言われるんだけど 団塊世代の歌手が…
日本を駄目にした迷惑世代
曲を聞いた事あるが全く響かないな。
投げっぱなしでハゲ散らかす世代にとってはカリスマなのかも(笑) >>33
なんでキンキと番組やれば金だーになるんだ?
もし拓郎が金のために出る人ならもっと前から色んな番組出てたろ
何か考え方変えようと切り替えて出てきたが若者ってだけで毛嫌いしてて、それでもキンキとシノラーが良い若者だったから心開いた
そんな感じだな キンキと番組やってアイドルとの仕事が美味しいことに歳こいてから気づいたおじさん 小学生の時に触れて、かなり大人に成ってから良さを知った
刷り込まれてる所為か、拓郎の歌声は自然と入って来てしまう >>45
気付いたとしたら他のアイドルジャニとも仕事するはずだけど、拓郎は一貫してキンキだけと仕事をしてキンキだけを褒めてたぞ 田村正和が最後の力振り絞ってドラマに出たあとみたいになるのかな。 >>52
3大王子の一人
あとは高見沢俊彦、斎藤佑樹 ここに75年つま恋や79年篠島に行った人いたら良いのに
感想も聞きたいなあ 神田共立講堂のラジオでナイトというライブに行ったが、
これが最後のライブになったのかな?
死ぬまでに一度、生で拓郎を聴きたかったので行ってよかった
でも昔の曲をもっと聞きたかった >>9
出るわけねえだろ
外は白い雪の夜だって
バックバンド凝りすぎてスベったのに >>24
名曲はだいたい岡本おさみか松本隆作詞
まぁ拓郎のメロディーラインは独特で好きだけどね
演歌みたいで 寂しくなって3年後にまたアルバム出すよ
「元気です。再び」 フォークソングって同じような曲調だから新作をわざわざ聴こうとならんな 篠島のオープニングのああ青春はいいな
つま恋のときは俺たちの勲章をドラマでやってる最中でアレンジもあんな感じだったが
篠島は何か新しい時代の幕開けみたいな感じと、拓郎の雄叫びが最高にマッチした >>58
それは君が浅いファンだからそう思うだけで
拓郎の作詞の名曲は多いよ >>62
本人的にはその後のフェーズで知り合った人脈が今のベースだから結果的には良かったんじゃない?
85年に宣言通り引退してれば神話になったかも知れないけど拓郎には神話より人話の方が合ってるっしょ >>65
リアルタイムで言うと篠島からだなぁ
先輩(というか同級女子の兄貴)がつま恋からのファンでその世代からしたら俺とかは遅れてきた若輩者だったなぁ、篠島の音源化されてないのを聴かせて貰った…長渕が喧嘩したとこもw >>69
79年ってのが本当に面白い時代で
YMOやらシティポップ、サザンとか一気に新しい流れが出てきて
そんな中に社長業で引きこもってた拓郎が突然活動再開した
78年にオールナイトニッポンが第一回ニューミュージック大賞ってのを設立して
その受賞パーティで当時社長の拓郎は全く蚊帳の外。
インタビュアーに「今年はどうでしたか」と聞かれ
「寝てましたね僕は」「来年はどんな年に?」「来年は賞をもらいます」
って答えてたのが珍しく悔しそうだった。そして怒涛の79年となっていく >>70
あーその流れでのローリング30だったのか!
俺は自分が語るより自分より濃い人の拓郎の話聴くのが大好きなのよw 78年には既に拓郎は過去の人だった
たった三年前に天下を取っていたのに当時はそれくらい一年が濃かった
そのパーティーの中継のあと、鶴光ですら
「あまりにもかわいそうなので一曲かけてあげましょうか」と舞姫を流した
それくらいもう軽く見られていた 金沢事件は何の影響もない
ランキング上昇中の由紀さおりのルームライトが放送自粛になったとか、それくらい
74年に襟裳岬、75年につま恋、フォーライフ設立で天下を取って
拓郎は燃え尽きたような状態。
同時に離婚と浅田美代子との結婚。長髪を切って女のファンも離れた
77年には社長として原田真二の売り込みなど完全な裏方状態 >>74
篠島前はリアルタイムで追っかけてないから参考になります。
社長時代もツアーはやってたみたいだけど、懐メロみたいになっちゃってたのかな?
後追いで本とか読むと社長業や他人への曲提供と精力的に動いてた印象受けるけど。
その頃は陽水の方がミュージシャンとしては現役感持ってやってたんだね。 こんなん宣言しなくても作りたいときに作ればいいのになw アスリートじゃないから
体力はそんなに関係ないし 76年、たえこMY LOVEというシングルが結構重要だと思っている
当時はまだ拓郎が音楽界のトップを走っているときで
しかしユーミンなど都会的なサウンドも出始めていた
一方で世間はかぐや姫や小椋佳などフォークが人気。
たえこMY LOVEはおそらく拓郎初のサビ英語曲。ここはかなり重要だと思う
拓郎は音楽界の先頭を走ろうとしていた。だから次作大いなる人は
アレンジャーに鈴木茂を使って都会的サウンドを狙ったがこれが大コケとなる
吉田拓郎という人は時代に合わせられる人ではなかった その時代は陽水は高中と組んでフュージョン系にうまく乗ってたし、泉谷が加藤和彦と組んでたのもその頃ですよね。
拓郎は鈴木茂じゃなくて松任谷正隆プロデュースならもう少し存在感出せたのかな?
大いなる人は楽曲自体はいい曲あるんですけどね。
たえこMy LoveはOnly youのバージョンの方が軽快で好きです。 ニューアルバムの限定版で金沢事件について語っているということだが
まだ記事になってないね。 70年代初期の拓郎ファンは、拓郎は76年までというのがJK
76年のツアーはなかなか良かった
>>79
それはLP版に付属される「ちょっとだけTRUEストーリー」の中でね そのころ陽水は大麻で捕まって執行猶予期間中表舞台からは姿消してたよね
アルバムは出してたけど 陽水が高中と本格的にやったのは80年のスニーカーダンサー。
まあ夢の中へのイントロも高中だと個人的には推測しているが。
76,77年は拓郎がやがてくるシティポップ時代を予見して、たえこや大いなる人で
シティミュージック系をやったと見ている。時代の空気には敏感な人だから
松任谷と組んだのは75年の明日に向かって走れ
全般にしっとりとおとなしいアルバムでスティールギターが多用されカントリー色が強い そのシティポップ路線は拓郎では実らなかったけど、原田真二で成功したっていうことかな?
原田真二にはアレンジャーで鈴木茂も参加してるし。
つま恋後からローリング30までの間の情報があまりなかったので勉強になります。 原田はシティポップの走りといっていいくらいだが、
それでも世間はそれをシティポップとは呼ばず、ニューミュージック、
あるいはチャーやツイストとともに新ロック御三家などと呼んだ
たしかにシティポップに多いファンクな部分はあまりなかった
拓郎は原田などの成功でフォーライフの経営が落ち着き、
再び歌への情熱が蘇っていく過渡期にあった >>9
まだ紅白よりきくちPとの関係性から「ももいろ歌合戦」の方が可能性ある。
まあ、どっちもないけど。 小5~中3までに俺が買ったフォーライフレコード
ハイスクールララバイ
ウェディングベル
恋をアンコール
あの水色っぽいスリーブが好きだった >>55
そうでしたか、両方とも行かれましたか!
会場はどうでしたか? 今回は桑田佳祐「吉田拓郎の歌2022」無いのかな? 桑田は吉田拓郎の唄を作ったり
テレキャス送ったり色々やってるが俺は基本的に信用してない あくまで俺の主観的な考えであって、桑田がどんな人物かは分からない
ただNHKFMで初めて拓郎と対談したときから
何となくどこか小馬鹿にしてるような印象がぬぐえない。
そうじゃないにしても、単純にいけ好かない >>90
ラジオで吉田拓郎に媚びを売る桑田は聴きたくなかった
かつて引退報道が出た時に歌で挑発したんだろ?今回もそうしろよ!
「ハア、引退するだあ?俺達ミュージシャンにとってステージが墓場なんだよ!死ぬまで歌い続けろよ!俺なら過去など歌わない!またカスと呼ばれたいのか!?」と挑発して、生歌で吉田拓郎の唄を歌ってほしかった 拓郎を音楽的観点から評論するものが殆どいないのが一番問題
間違いなく日本の大衆音楽を開拓し、フォークにとどまらずロックであった
日本の音楽はAメロBメロサビが当たり前で定形なのだが
例えるなら「暮らし」なんて曲はAメロだのサビだのどこにもない
伴奏も含めての完全なロックである >>93
吉田拓郎の唄ってのをよく聴くと曲が終わる最後の最後に
小さく桑田のあざ笑うような声が入ってる気がする >>45
アイドルと結婚して離婚して結婚してたのに?
バカって気持ち悪いからとっとと死んでくれない?
>>76
人前に出る仕事ってそれだけで体力磨り減るし
音楽のスタジオワークも体力使うぞニート
>>95
さすがにそれはないわ
ただ、桑田のなかであくまで「尊敬するべき大先輩」であって
影響的なものはなかったように思う
大里会長を通して接点はあったろうけど ユーミンのコバルトアワーや鈴木茂のバンドワゴンが75年だから76年にシティポップ的なアプローチというのは特段早かったわけではないな 76年あたりは拓郎はメインストリームにいて
とにかくトップに立っていた
一方で拓郎に憧れる連中は相変わらずフォークで、
フォーク色の薄くなる拓郎よりヒットするくらいになっていた
たえこMY LOVEはそんな中、まさにブラック&ソウルといったブラスの入ったソウルフルなサウンド
町中華で流れている「午前0時の街」について拓郎は「迷ってたんだろうな」と語っている
自分はこれからどういう方向に行くのか、と言ったところだろう GLIM SPANKY の「美しい棘」
荒井由実と吉田拓郎のエッセンスが融合してる。
こんな世代にも拓郎の影響は脈々と息づいてる。 昭和四十年代にヒットしていたJpop系は
拓郎、ユーミン、チューリップ。この三組はそれこそ小学生でもLPを買っていた
自分も小学生だったから実感としてある
そしてユーミンの先進性は恐るべきものがあると言える ただ、吉田拓郎の唄よりもかなり前、
スターズオン23というアルフィーによる拓郎レコードがあって
最後の人間なんてのアウトロの部分で坂崎が
「このタコ!江の島へ帰れー!」と叫んでいる
これはどう考えても桑田のことだろう サマーピープルはシティポップ風だな
やっぱ大瀧とかに影響されたんかな サマーピープルの前あたり、
とにかく拓郎に久々のヒット曲を、という流れがあった
ヒットスタジオに出たり、宮崎美子のドラマ元気ですの主題歌だったり、
拓郎も地方のラジオ局など巡っていた
そして切り札のように、資生堂CMソングがやってきた
資生堂のCMソングは当時はまずヒット間違いなかった
結果、サマーピープルはヒットせず
吉田拓郎というのはやはり時代の子であり、
80年代という時代は決して拓郎を大きく浮上させてはくれなかった 結局、初期の「たくろうオンステージともだち」を超えるアルバムは出なかったなあ
あくまでも俺個人の意見だけど サマーピープルってちょいエロい陳腐な歌詞だけど、未だに岡本おさみが書いたとは思えない。
松本隆みたいになりたかったのかな? >>108
「たくろうオン・ステージ第2集」は、発売の経緯にいろいろ問題はあったけど、
「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」「静」「ポーの歌」「恋の歌」「人間なんて」など、
珠玉の名曲ぞろいだと思う。 ポーの歌は元々浜口庫之助の曲の詞を変えて拓郎がライブで歌ってたのを
エレックが勝手にレコード化してそれが確か79年春頃、
女性週刊誌に盗作として報道された
篠島ではポーの歌をちょっと歌った後「これ盗作」と拓郎は茶化している
いずれにせよオンステージ2はそんなこんなで拓郎は絶対に再販許可していない >>111
エレックがつぶれた後、CBSソニーからミュージックテープが発売されていたよ。
俺が高校生の頃に買ったのもそれ。 ♪かよちゃんが笑ったな ポポポーのポー♪
ほっこりする歌や >>112
多分それが出たのは70年代後半で80年代からは売ってないんじゃないか
確かにミュージックテープは出てたよ >>113
♪二人の吐く息凍ってる 草刈り出がけの山の道
あの頃の拓郎の詞は童謡みたいでかわいいんだよな。 >>116
サマーピープルはあまり好きじゃなかったので深く聴いてなかったけど、改めてじっくり聴いたら岡本おさみっぽくもあるかな。
すまん。
サウンドは大滝詠一経由のウォール・オブ・サウンド意識してる?
ロングバケーション売れてた頃でアレンジは松任谷正隆だから。 全ての作詞作曲を吉田拓郎が担当
小田和正から一緒にやろうと提案→吉田「本気か?笑」
この流れがわからんのだけど
最初から小田と一緒にやるつもりでスタジオに呼んでるんじゃないの? >>120
それは「雪さよなら」のレコーディング時のハモリ部分を一緒にやろうと小田が誘ったの 歌下手くそ過ぎ
70年代のフォーク歌手は時代に恵まれただけだな。
歌は下手くそ、顔は不細工、作詞は小説からパクリ、曲はボブ・ディランのパクリ 拓郎の「春だったね」とディランの「メンフィス・ブルース・アゲイン」を一緒に聴くと笑えるぞ 70年代フォーク歌手で才能と歌の上手さに恵まれたのは井上陽水と中島みゆきだけ。
この二人は80年代も90年代も売れてたしな。
吉田拓郎はヒット無しの懐メロ歌手、沢田研二みたいなもん。 >>123
アレンジだけでなく歌い方も似せているからな
歌詞が良い
拓郎の作詞じゃないけど ジャケットのタイトル文字が雰囲気も何もあったもんじゃなくて悲しすぎる
まあ本人は堂本にも加わらせたかったんだからそれでいいんだろうけど >>126
光一くんの方だっけな
文字は剛くんかシノラーが担当して
光一くんは拓郎を撮った方が合ってた気がする >>97
あれはロキノン何じゃないの?中身読んだことないからわからんが。 春だったねの発想がメンフィスブルースアゲインにあったとしても
春だったねが原曲を完全に超えちゃってるところが拓郎の凄いとこだよ
ディランだと陽水はミスコンテストがコーヒーもう一杯。
例えば佐野元春のブルーの見解の元ネタがディランのprecious angelと最初に指摘したのは俺 拓郎は自分でも知らない間に自分の曲をパクってると言っていたが
例えば狼なんかこわくない、のコード進行とメロディのニュアンスは
日本人になりたいと似ている ラブラブあいしてるに出てる時から、あやしかったんや…… 作曲家としてなら小室哲哉なんかと比べると随分 おっさんの意見の聞き入れたくて出演させてたのか、意図は知らないんだけど… キンキキッズのバイトはしたことあるから言いにくいんだけど、 吉拓 うさんくさかいと思っとたんや… 拓郎のI'm in Loveとデビッドゲイツのグッバイガールは似過ぎている 長瀬智也は松本人志のパクリ
国分太一は浜田雅功のパクリ
TOKIOはダウンタウンのパクリ
ガチンコはごっつええ感じのパクリ キンキキッズみたいな国民的アイドル相手に
輪になっておどろと学校へ行こうだけで対抗しようとするV6ヲタが馬鹿なのよ
身の程を知れ >>129
>春だったねの発想がメンフィスブルースアゲインにあったとしても
>春だったねが原曲を完全に超えちゃってるところが拓郎の凄いとこ
そんな事を思ってるのは信者さんだけw 80年代にはシンプジャーナルにしか載ってなかったフォークシンガーのうちの一人 編集長の大越だっけ?
熱狂的な拓郎ファンだったからね。
いまどうしてるんだろう。 >>141
嫁さんの演じた役が今わの際に行った一言だから、正解 >>138
メンフィスブルースアゲインなんてやたらダラダラと長いだけの曲だよ
ディランはスロートレインカミングで完全に終わってる
あの娘を待ってる街角はザバンドのガースハドソンがアコーディオンを弾いている
録り終わったあと「もう一晩考えさせてくれ」と彼は持ち帰り
あの名曲と名演奏が生まれた
ディランが80年代にあんないい曲を出せたか。
レコーディングで歴戦の黒人たちが「こんないいメロディ、聴いたことがない」と言った ガース・ハドソンは誰のレコーディングでも同じようなもの。長々とやってギャラ高くすることで有名。佐野元春の時もそうだったらしいよ。
ブッカーTは明らかにナメて仕事してたね。
清志郎とやった時の方が真剣だったんじゃないかな。ちゃんとメンフィスの音になってたから。 拓郎信者はいつの時代もウザがられてるからミュージックマガジンもロッキングオンも無視してた >>44
そういうポーズにしてるんだろ
ザ芸能人って感じ
実際は松山千春と同じで年々収入減ってきてたんだろうな
松山はアルバムがミリオンセラーになってるし >>7
こうやって並べるとすごいな
小田が陽水やえーちゃんより年上だとかユーミンと竹内まりやが一つしか違わんとか >>148
70年代半ばのアイドル番組あこがれ共同体にも出演しているね
そういうのは嫌いじゃないんだろうね >>7
すげーみんな50代くらいだと思ってた。若々しい人達だな。 名前はもちろん知ってるけど曲は全然知らない
同時期にアルバム出した山下達郎は意識せずとも古いのから新しいのまで知ってるんだが 小中学校の頃からそれなりに聴いてはいたけど、10年前から急に好きになりだした
avexから出したオリジナルアルバム2枚が結構気に入ったんだった
それで過去のアルバムやシングルまで掘り漁って現在に至る ワンラストナイト以降はかつて「吉田拓郎」だった人の余生みたいなもんだと思ってる >>159
それ以降も好きって言ってる人もいるんだから、いちいちうるさいよ。 統計上、これといったヒット曲は無いが大御所
という意味では浜崎あゆみと同類であった
100年後の史家はそのように書いてしまうだろう >>160
嫌いとは言ってないんだけどな
「おきざりにした悲しみは」の激しさが色褪せても優しさだけ抱きしめて…っていう感覚なんだけどね
その境目があの日っていうことさ
小室さんとかとも付き合ってるのかな?
君に会ってからというもの僕は 70年代中盤から後半にフォーライフの社長やって第一線から遠のいたのが今でも響いてるね。もったいない。
その時期はニューミージックが世間に認知されつつある時代だったし、そこで音楽とちゃんと向き合ってた人だけが今も残ってるから。
井上陽水、矢沢永吉、小田和正、山下達郎、ユーミン、さだまさし、細野晴臣・・・アルフィーも入れておこうか(笑)
拓郎は篠島で復活したけど出遅れた。 日本のミュージックシーンにおいて拓郎が果たした数々のパイオニアとしての功績はデカすぎて、それだけで別格な存在 【ミュージックマガジン】
主な面々
・中村とうよう/京都出身。
・田川律/大阪出身。岡林のサードアルバムディレクター。
・小倉エージ/兵庫出身。はっぴいえんど、デビューアルバムディレクター。
・北中正和/奈良出身。
・ピーター・バラカン
・萩原健太
・今野雄二
etc
彼らの偏った音楽史観、論評は全く持ってくそだったと思っているし、
その弊害は今も続いている。
ほぼ関西で固められている点が興味深い。
拓郎は一時期、関西が大嫌いと公言していた。 額が後退し始めてから30年以上たつのにキープしてる。ヅラだろうか。 >>165
関西フォークだけが本物とかいわれた時代からこじらせていた問題 この人がハマショーのことを聞かれて
なんか鼻で笑うような感じだったんだけどなんでだろ
ハマショーはフォークからの次世代進化型だから
嫉妬してるのかな >>9
今年の紅白は白組の引退記念出場枠が渋滞してそう ユーミンとか桑田佳祐、山下達郎に竹内まりや、中島みゆき
このあたりの人たちも、そろそろいなくなるんだな… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています