【音楽】《中島みゆきと松山千春》デビュー秘話 きっかけはともにコンテスト [湛然★]
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《中島みゆきと松山千春》デビュー秘話 きっかけはともにコンテスト
1/31(月) 16:15配信 NEWSポストセブン
https://news.yahoo.co.jp/articles/b9693bade01717e9a0497724d5f6cd520e5a4a40?page=1
松山千春と中島みゆき、共に北海道出身の2人はいかにして歌手の道を歩んだのか
1970年代後半に彗星のごとく現れ、40年以上たったいまも日本の音楽シーンに強烈な印象を与え続けているシンガーソングライターの中島みゆき(69才)と松山千春(66才)。3才違いで同じ北海道出身。ほぼ同じ時代を生きてきた二人はどのように誕生し、数々の名曲を生み出すトップシンガーとなったのか。二人をよく知る人々の証言を基に、その軌跡を辿ってみよう。(全3回の第2回)。
◆デビューのきっかけはコンテスト
アマチュア時代、中島みゆきはさまざまなコンテストに出場しているが、彼女の人生を大きく変えたのが、ヤマハ音楽振興会主催の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』。通称『ポプコン』と呼ばれたこのコンテストは、プロの歌手への登竜門となっていた。
中島は1975年の第9回に出場。この年は、八神純子(64才)や渡辺真知子(65才)、松崎しげる(72才)も出場していたが、見事に入賞を果たす。
当時、『ポプコン』のスタッフをしていた作編曲家の船山基紀さんは、彼女の才能に一瞬で魅了されたという。
「『北海道にすごい新人がいるから、お前、アレンジしろ』と上司に言われて手がけたのが、彼女のデビュー曲『アザミ嬢のララバイ』でした。
送られてきたデモテープを聴いたときは衝撃でしたね。まず、『アザミ嬢って誰ぞや?』と。そして曲を聴いて真っ先に、北海道の草原が頭にくっきりと浮かびました。草原の横には小川が流れていて、アザミの花はまだ蕾のままで。アザミ嬢はミステリアスな人だろうと勝手に想像して、冒頭でアルトフルートという変わった楽器を使うことにしたのです」(船山さん・以下同)
だが、このとき中島に会うことはなかったという。
「中島さんはまだ北海道にいて、ディレクターとの打ち合わせにも東京に来ることはなかったですね。だから初めて顔合わせをしたのは、2曲目の『時代』のとき。でも、何を話したのか覚えてないんです」
ちなみに船山さんが中島としっかり打ち合わせをしたのは2006年。TOKIOに楽曲を提供した『宙船』のときだった。
「ぼくの事務所まで来てくれて、『船山ちゃん、よろしくね〜』って。ラジオで聴くような明るくケラケラ笑う中島さんでした。打ち合わせが終わって帰る方向が同じだったからぼくの車で送って行ったんです。そのときも音楽の話をしたわけではなく、共通の友人のことを『あの人、どうしている?』『元気にしているよ〜』といった、いわゆる世間話。それからは一度も会っていないんです」
同じく1975年、一方の松山千春は『全国フォーク音楽祭』の北海道帯広予選に出場している。こちらもプロへの登竜門といわれたコンテストだ(1972年には中島も出場し、入賞している)。
このとき松山は、『旅立ち』を弾き語りで歌っているが、審査員の評価はいまひとつだったという。
「審査員から『ギターがひどい』と言われ、カチンときた彼は『おれはギターの品評会に来たんじゃない! 歌はどうなんですか!』と反論。そんな態度をとったことで望みはないと考えていたようですが予選を通過。北海道大会の本選へと進みます。このとき千春は19才。赤いニッカーボッカーにサングラスといういでたちでしたね」(音楽評論家の富澤一誠さん)
この大会で人生を大きく変える人物と出会う。それが、このとき審査員をしていた、北海道のラジオ局「STVラジオ」のディレクターの竹田健二さん(享年36)だ。彼らの出会いについて、芸能ジャーナリスト・渡邉裕二さんは次のように話す。
「竹田さんは、いち早く千春の才能を見出し、自分が担当するラジオ番組に起用。毎週2曲、新曲を作って紹介する『千春のひとりうた』というコーナーを持たせました。1年間で放送が48週あって、単純計算でも100曲近く作ることになります。だから、デビュー前にすでにアルバム何枚分にも相当する曲数を作っていて、その中に『大空と大地の中で』などがあったんです」
取材・文/廉屋友美乃 取材/北武司
※女性セブン2022年2月10日号 デビュー前に曲のストックがあるという点では、中島も同じだ。中島と大学時代のフォー期サークル仲間である、喫茶店「ミルク」オーナーの前田重和さんはこう話す。
「アマチュア時代、中島さんは200曲くらい作っていましたね。10枚目くらいまでのアルバムには、アマチュア時代に作った曲がけっこう、入っています」
デビュー前に自作の歌を発表する場があったことが、彼らの歌手としての土台となったのだろう。
◆北海道で大切な人との別れ、そして東京への旅立ち
それだけ曲ができればすぐにでも東京に進出しそうなものだが、二人は北海道にとどまり、自らの力を熟成させた。
「中島さんたちが出てきた1970年代半ばあたりは、ポップなニューミュージックの時代。ギターの弾き語りは時代遅れと言う人もいました。
ただ、それがかえってよかったんじゃないかと思います。というのも、あの時代はちょっとでも注目されるとすぐにデビューさせ、無理して曲を作らせ、すぐにツアーなどに出させるから、消耗して潰れていく人も多かった。特に千春の場合は、竹田さんの“北海道で力をつけさせてから全国区にしよう”という作戦が、功を奏したと思います」(前田さん)
中島は北海道を拠点にしながら、『アザミ嬢のララバイ』に続き、『時代』をリリース。この曲は当時の時点で、20万枚以上とヒットしている。
一方の松山は、ラジオ番組で人気に火がつき、一気に道内のスターとなり、コンサートを開けば2000人以上の観客を集めるようになる。
だが、二人は順調に歌手の道を進んだわけではない。
中島は、デビューした1975年に父が病に倒れ、52才の若さで亡くなってしまう。
松山も1977年の夏、悲しみに襲われる。二人三脚で歩んできた竹田さんが36才の若さでこの世を去ったのだ。心不全だった。
この悲しい別れによって、二人の人生はうねり始める。
まず中島。彼女は自身のエッセイに「私はファザコンである」と書くほど父への愛が深かった。最愛の父を亡くしたときのことを、前田さんはこう話す。
「弟さんが医学部に進学していたこともあり、お父さんが亡くなってからは、中島さんが“自分が大黒柱にならなければいけない”と思ったのか、“プロとしてやっていかなくては”という気持ちが強くなったように思います。この頃から、本格的に東京に出て音楽を作っていこうという思いが、はたから見ても感じられるようになりました」
その後、中島は1977年に『わかれうた』で76万枚、1981年に『悪女』で83万枚を売り上げ、一時代を築く歌手になっていく。
他方、松山は相棒ともいえる竹田さんを亡くした悲しみに暮れ、「不安を抱いていた」と富澤さんは言う。
「千春は所属事務所もなく、竹田さんがマネジャーのようなこともしてくれていたので、『手足をもがれたような思いだった』と、その後に語っています。大都会・東京にひとりポツンと出ていかなくてはいけない。その不安は、耐え難いものだったようです」(富澤さん)
そんな松山に大きな仕事が舞い込む。若者に絶大な人気を誇るニッポン放送のラジオ番組『オールナイトニッポン』(水曜日第2部)のパーソナリティーに抜擢されたのだ。これをきっかけに知名度は全国区となり、1978年には1部に昇格。同年発表した『季節の中で』が、当時26才だった三浦友和(69才)が出演する『グリコアーモンドチョコレート』のCM曲に起用され、その人気が不動のものとなっていく。
この『オールナイトニッポン』は、中島にとっても大きな転換点となっている。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。) ポプコンて名前変えて今でもやってるんだっけ
まぁ往時の勢いはまったくなさ気だけど 俺の親父は小児科医で、産科医の中島みゆきのお父さんと知り合いだったんだ。
娘がどうのこうのって愚痴ってたらしいとも聞いた。
長生きしていたら良かったのになあ。 >>5
ポプコン本戦の時はもうお父さん病に倒れていたので、曲を時代にかえた
売れているみゆきを知らないで逝ったはず 千春は北海道に住み続けたけどな。
千春はライブに必ずバラの一輪挿しを置く。バラが好きだった竹田さんが常に帯同しているかのように。 うじきつよし、野呂一生、桑田佳祐
そういう連中もいるからね 中島みゆきを公に「あいつブスだよなぁ」とくさし同郷なのに縁がない千春
交遊をもちのちに『永遠の嘘をついてくれ』という名曲を得た吉田拓郎
そういうこと >>11
桑田はYAMAHAライトミュージックコンテストかな?
同時にいたのがシャネルズ(のちのラッツ&スター)でリハーサルで聞こえた歌声に桑田は「どんなオッサンが歌ってるんだ?」と興味をもった
だが実はシャネルズ鈴木もリハでサザンを聞いて「オッサンだろ」と思ったというw >>12
俺の記憶では週刊誌にみゆきと松山が付き合ってると書かれててみゆきさんは乳春ファンの女からバッシングされてたけど コロナ止む気配ないし
みゆきさんこのまま単発ライブもなく引退なのかな?
寂しすぎる一度でいいから生歌聞いてみたい
もうこんな人現れないでしょ >>12
深い意味無いだろ。
みゆきだって、千春がさだとワカメスープ飲んでいるのを目撃して、オールナイトでネタにしたくらいだし。 中島みゆきはガチの天才
あいみょんの数倍レベル
千春はまあ普通 鳥山明がみゆき好きだったな
ANN聴きながら仕事してた >>12
縁がないってことはないよ、ラジオで一緒に喋ってるの聞いたら凄く仲良さそうだったし
札幌時代にみゆきの家によく遊びに行っててみゆきの弟とも仲良いとラジオで言ってた
みゆきのいない時でも図々しく家に上がり込んだから母親には嫌われてたらしいけどw 秘話でもなんでもない
若いやつは知らんのかもしれんが オールナイトニッポンは谷山浩子が面白かったな
二部だったから早く寝て4時に起きてカセットテープひっくり返してたわ >>13
イーストウエストとか…まあとにかくヤマハだよ
中田ヤスタカまでもヤマハは…アレだからね
松任谷由実があの頃言ってた…
ヤマハ関係ないのはアタシくらいのもんだって >>23
中島みゆきと谷山浩子のデュエットが想像以上に酷くて笑った覚えがあるな
待つわだったっけ? 俺が物心ついた頃のポプコンはアラジン、トムキャットだったな。その後怒涛のバンドブームで消えちゃった感じ >>1に書いて話は今STVラジオでやってる松崎マコトのMUSIC☆Jでよく解説されてるな
松崎さんが2人がスターに上り詰めていくリアルタイムの道民だから思い入れもひとしおなんだろう まぁ、ヤマハであれ、Amazonでもいいし歌謡オーディションは毎年やってほしい、新人の目標ができるし、そういう賞取りに興味ない新人にも刺激は与えるはず
ってな考えは古いんだろうな、俺も歳だし え?中島みゆきって北海道出身なの?ファイトの歌詞から福岡辺りかと思ってたわ。
玉置浩二も北海道だし北海道凄い。 意外と優勝曲より入賞のほうが良作あるんだよな。柴田あゆみとか
第二回の司会が平野レミでワロタ >>17
ガチの天才が「こいつヤベェ」と感じたのが久保田早紀だっけ?うろ覚え wiki見てみるとなかなか面白いな15回では佐野元春も出場してたり。長渕もいるけどそれは別に意外ではない >>31
「手を上げて横断歩道を渡りましょう」の人? >>19
同じく少年ジャンプに連載していた新沢基栄が、中島みゆきをネタにした「雪中路まみ」は中島みゆき本人がいたく気に入ってたそうだw
>>33
「なかじま」は東日本で「なかしま」は西日本に多いとか。
そして、中島みゆきは鹿児島県出身の中島美嘉に楽曲提供もしてる。 あだち充のみゆきも中島みゆきからインスピレーション受けたらしい
島本和彦がラジオで言ってたわ グリコアーモンドチョコレート最近置いてない。アーモンドピーク要らない。 >>19
秋本治を忘れてはいませんか。
当時の小学生に中島みゆきは貧乳だと
浸透させた功績はデカいぞ。 天才松山千春がこいつは歌うまいと認める数少ない一人がみゆき >>6
その時の賞金は父親の葬式費用に使った。
後日 中島みゆき本人がインタビューで答えていた。 コッキーポップ聴いてた。番組の冒頭音楽がポプコンでグランプリ取った曲で、当時は「時代」がかかってた。
パーソナリティは
「お相手はあなたのモコ、高橋基子です」
ポプコンの歌で特に好きだった曲は「踊り子」
村下孝蔵のとは別の曲
ピエロと踊り子の悲しい恋の歌 グリコのCMソングを聴いて「松山千春ってどんな女の子なんだろう」と考えていた思い出(´・ω・`) 黒部ダムでの妖艶な中島みゆきが今でも
記憶にきざまれてる。中島みゆきこそ至高。
松任谷由実も天才なんだが、何かが違う。 歌手の中島みゆきとANNの中島みゆきは別人なんです >>31
北海道フォーク縦社会の人ですねw
彼はむしろ五十嵐浩晃さんの話題の方が多いイメージ。 >>33
北海道帯広市
同じ高校出身には吉田美和、安住紳一郎がいる >>25
千春は否定してたな
「あんな面倒くさいオンナと付き合うと別れるとき大変そう」とか言って >>47
ポプコンを黒歴史扱いして公式HPに
記載してない辛島美登里… >>39
中島さんは「パタリロ」だったかな?「ラシャーヌ」だったかも知れないけど
魔夜峰央が好きで読んでるって言ってた事もあったね >>40
へぇ
魔夜さんの方も中島ファンだったのか 中島みゆきはコンテスト嵐の異名をとってたって聞いたぞ >>59
もう出るコンテストが無いからデビューしたって噂があった >>55
でも10年ぐらい前のラジオで
みゆきの方から離れて行ったとか付き合ってたことを匂わす発言をしてたよ
その時に最近偶然みゆきの弟に会ったがあいつも髪が薄くなったと言ってたw >>58
パタリロだったかまたラジオに呼んでくださいみたいなの書いてなかったっけ? >>61
その後に嫁さんに会ったのかな。近所の小林商店で千春っぽい人が買い物してる!って噂になってたローカルな思い出w 中島みゆきはオールナイトニッポンをする前に大阪MBSラジオで『こんばんは中島みゆきです』という冠番組をミュージックマガジンでされていた。マイクに向かって千春大好きとか抱いてくれーとか何度も方言していた。 >>ヤマハ音楽振興会主催の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』。通称『ポプコン』と呼ばれたこのコンテストは
長渕剛も、チャゲ&飛鳥も、あとだれだっけな、とにかくみんなこの大会の出身 >>33
中島みゆきの実家の北海道帯広市の産婦人科にいったことあるわ 松山千春が実家に帰ったら
台所におすぎがいた話が好き え?ミルクのオーナーてあの婆さんじゃなくておっさん?爺さんなの?
ミルクそのものだけじゃなくてあの人らの持ってるマンションの設備やら修繕やらで一時結構付き合いあったけど婆さんがオーナーだと思ってた これそんなに貴重な話でもないと思うけど。
冬至の歌手デビューの登竜門的な大会だったし。 ガキの頃に聴いた中島みゆきの
女の怨念がこもった歌がトラウマになってて
この人は仮面を被ってると思い続けてる >>33
藤女子大学国文科の先輩
同じカテゴリに氷室冴子 >>69
むかし北24条にあったリサイクルショップとか
ミルクカフェを運営してたのは奥さんだよな
スタジオは旦那がやってたんじゃないの 今冬季五輪やっでるが
中島みゆきも小さい頃からスケートやってたんだろうな
昔のオールナイトニッポンでスケートリンクから上って飲む甘酒が旨かったと言ってた記憶がある。フィギュアかもしれないが帯広だからスピードの可能性が高いね。
スピードスケート滑ってる中島みゆきってあんまりイメージ出来ない。
才能があれば即五輪代表になれそうな土地柄なのが凄い。 みゆきさんのわかれうたと千春さんの時のいたずらのコード進行が同じなのは、
当時二人はやっぱり付き合っていて…と思っている。
みゆきさんは否定してたけど。 >>76
なんで?
単にスケート靴履いて滑ってただけやろ?
思考回路が歪やなw >>66
ポプコングランプリのからくりをチャゲがばらしてたな >>75
ミルクの改装なんかも関わったんだけどあの奥さんをミルクまで送ったり家まで送ったりしてたからさ。てっきりオーナーは奥さんだと思ってたんだわ
細かい指示や許可・書類関係の署名も全部奥さんだったし名前だったしね
自宅マンションの下のリサイクルショップも奥さんがやってたし経営関連全部奥さんなのかなぁって
めちゃくちゃ下手に出てしつこいくらいなにかとすいませんと言う性格のいい奥さんだった 中島みゆきがANNやってたころその前の枠で長渕と世良公則がラジオやってて「あんな恐い人にまた遭遇しないように帰る」と2人でスタジオを後にしたらしいな
その後ANNスペシャル枠を担当した長渕はTVと違うざっくばらんな人だった。中島と長渕のラジオのからみがあったら聞いてみたいら >>76
帯広って冬は小、中学校のグランドをスケートリンクに整備して
体育の授業でみんなスピードスケートをするって聞いたよ というかこの二人の組み合わせだとどうしても某声優姉弟が思い浮かんぢまう 中島みゆきのポプコン地区予選
会場で見てた
時代を歌ってたわ
長い髪とか今とあまり変わらない感じだったわ >>80
まさしは前線後退型、千春は中心爆発型と谷村新司に言われてたのは懐かしい記憶 >>94
さだ派千春派に別れてたね
アリスはどっちからも人気あったね
>>94
登場人物全員禿w >>66
俺的にはスターダストレビューの印象が強い そういや4プラが閉館すると聞いた
俺の青春が完全に終わった >>99
もう閉館した。
今はオーロラビジョンと
その上のデジタル時計が止まっている状態。 >>25
オールナイトニッポンに来た甲斐よしひろにデレデレだったな。 >>98
MCの間に曲もやってくれる稀有なライブをやるらしいな >>105
千春とさだのことだったら中島みゆきが原因ではないと思う
倉本聰の北の国からの主題歌を千春がやる予定だったけど倉本と千春がケンカしてさだが歌うことになり
そのあたりからじゃない? >>73
「ポプコンに学ランで出てた、おそろしい中学生バンドをよく憶えています」 >>102
本人曰くご乱心時代「36.5℃」プロデュースさせたのは後悔してるのかな? 中島みゆきのANNで放送史上初の試み。テレビとラジオの同時生放送が行われた。
あわててテレビを付けたが砂の嵐。放送はキー局のフジテレビだけなんだな、と。
1987年4月1日未明の話。 千春が頑なにテレビ出演拒否ってたの禿が原因だと思う テレビに出ないといったのに CMの仕事にゃ燃えている♪
コカ・コーラの音符マーク付きのプルトップ5枚集めると
カセット?が当たったよね。 「プロジェクトX」で恩を着せられて?紅白に出ざるをえなくなった?
際、黒部ダムで歌うっていうのは、なかなかの嫌がらせというか抗いっぷ
りだったw 日本はアレンジャーの評価低すぎ
船山先生のキャリアからしたら米国ならクインシージョーンズなみの海外25箇の別荘所有、移動は毎度リムジンカーのリッチな生活できて当たり前なのに
日本音楽業界はセコい >>1 ギターの品評会に来たんじゃない!は初めて知った。 19歳でたいしたもんだなー、それぐらいの胆力があったからここまでやってこれたんかなあ 中島のコンサートが青森でやった後の温泉旅館に松山が呼び出された
ヤマハのスタッフが徐々に減り、2人きりになった
そこから松山のマシンガントークで朝まで迎えた
松山は勝った!
中島から喰われる事もなく朝を迎えた事に感謝した
たかじんが爆笑してたな 中島みゆきって、瀬尾一三って人と、もう内縁の夫婦みたいなもんじゃないの?
勝手な想像だけど。 昔付き合ってたかもしれないけど、何十年たってもセットで言われるのはあんまりだよな あんたのバラード/世良公則&ツイストもポプコンだったか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています