0001愛の戦士 ★
2021/12/26(日) 14:23:29.47ID:CAP_USER9「私たちの牧場にとって、すごく大きな存在です。宝物というか、感謝というか、どう表現したらいいのか……」
渡辺はるみさんは、「とても簡単には言い表せない」といった口ぶりでナイスネイチャへの思いを語った。1991年から1993年にかけて、有馬記念で3年連続3着という記録を残した稀代の“ブロンズコレクター”は、33歳の今も健在。生まれ故郷の渡辺牧場で穏やかな毎日を過ごしている。
5年連続で有馬記念に出走した現役時代
渡辺さんが北海道浦河町の渡辺牧場で働き始めたのは、後にナイスネイチャと命名される仔馬が生まれた約3カ月後のことだった。1988年に同牧場で生産された牡馬は4頭。うち1頭は脚元が弱く、ナイスネイチャは残りの3頭のなかでボス格として振る舞っていたという。
「お母さんのウラカワミユキがボス的な存在だったので、その影響もあるんだと思います。でも、育成牧場では他の子にいじめられていたみたい。内弁慶というか、井の中の蛙だったんでしょうね(笑)」
1990年12月、京都競馬場でデビューしたナイスネイチャは、2戦目のダート戦で初勝利をあげる。年明け後は6着、3着、2着と足踏みをしたが、夏の小倉で行われた条件戦からGV小倉記念、GU京都新聞杯を含む怒涛の4連勝。同世代の二冠馬・トウカイテイオーが骨折で戦線を離脱するなか、“夏の上がり馬”の筆頭格として2番人気でGT菊花賞を迎えた。
牧場での勤務歴が浅かった渡辺さんは、「ポンポンと連勝して重賞まで勝ってしまうことのすごさを、たぶん私はそこまで理解していませんでした。レースのたびに興奮や感動、希望があって、いつも前向きな気持ちでしたね。夫(牧場長の渡辺一馬さん)はずっと生産をやってきたので、また違う感じ方をしていたと思いますが」と当時の心境を振り返る。
菊花賞はレオダーバンの4着、続く鳴尾記念を快勝して2番人気で臨んだ有馬記念はダイユウサクの3着と、GTのタイトルにはわずかに届かなかった。それでも渡辺さんにすれば、自分たちの牧場の生産馬がGTに出走して、無事に帰ってくるだけでも嬉しかった。ナイスネイチャの活躍は、365日休みなく続く仕事のモチベーションにもなったという。
「ナイスネイチャが頑張ってくれると、朝早くに起きて働くのもまったく苦じゃなくなるんです。特に3回目(1993年)の有馬記念の3着は嬉しかったですね。天皇賞とジャパンカップで大きく負けて、人気を落としていましたから。思えば“ブロンズコレクター”と呼ばれるようになったのも、あのレースからだったかもしれません」
この有馬記念で奇跡の復活を遂げた同期のトウカイテイオーがターフを去っても、ナイスネイチャは懸命に走り続けた。翌1994年にはGU高松宮杯で久しぶりの勝利をあげ、4年連続で出走した有馬記念でも5着と善戦。さらに翌年も現役を続け、ついに5年連続の有馬記念出走(結果は9着)を果たした。
3500万円の寄付を集める“広報部長”に
引退後は種牡馬となったナイスネイチャだが、種付け頭数は少なく、2001年に種牡馬登録を抹消。生まれ育った渡辺牧場でのんびりと余生を過ごすことになった。しかしそのころ、不況の煽りを受けて同牧場の経営状況が悪化。渡辺夫妻は「たとえ未勝利馬であっても、生産した馬はできるかぎり引き取る」という方針を掲げていたが、当時は牧場そのものの存続が危うくなりつつあった。
現役を引退し、乗馬などの名目で「用途変更」となった競走馬の多くは、食用として殺処分される。引退馬の支援活動を行う認定NPO法人・引退馬協会の沼田恭子代表理事は「最初に活動をはじめたころは、『いったい馬の平均寿命って何歳? 』って思うくらい、天寿をまっとうできる馬が周りにいませんでした」と明かす。
「そんななかでも、渡辺牧場さんは昔から引退馬を大事にする牧場でした。ナイスネイチャの弟にあたるグラールストーンが前身の会のフォスターホース(複数の里親による支援を受ける制度)になった縁もあって、ナイスネイチャとお母さんのウラカワミユキ、GVのクリスタルカップを勝ったセントミサイルの3頭も引き取ることになったんです」
※続きはリンク先で
https://news.yahoo.co.jp/articles/9d3b960e4d1e99182e100d09ccef301f3fcaa96d
今も多くのファンに愛されるナイスネイチャ。33歳を祝う「バースデードネーション」で3500万円を超える寄付が集まったことも話題を呼んだ photograph by Daisuke Asauchi
https://i.imgur.com/UcSek0Z.jpg