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【音楽】「顔が悪いから売れない」と言われた桑田佳祐がJポップのカリスマになるまで  [muffin★]
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垢版 |
2021/12/18(土) 19:30:16.95ID:CAP_USER9
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12月8日放送の「FNS歌謡祭・第2夜」(フジテレビ系)で桑田佳祐がトリを務めた。CMでも彼の曲が盛んに流れており、Jポップ界きってのカリスマぶりは健在だ。しかし、今から43年前のデビュー時点において、彼がこうなることを予想できた人はいなかった。じつはこんなエピソードがある。1995年に雑誌「VIEWS」で明かされたものだ。

「その時スタッフがカセットに録音して持っていったのが、サザンオールスターズの『勝手にシンドバッド』だった。『いい曲だけど顔が悪いから売れないと思うよ』と、3人のうちの誰かが言った」

3人というのは、キャンディーズだ。サザンの育ての親でもあるアミューズの創業者・大里洋吉は渡辺プロダクション時代に彼女たちを担当。独立後も頼まれてその解散ツアーを手伝った。その縁で、彼女たちはサザンの品定めにつきあうことになったわけだ。

桑田はのちに長門裕之に似ているといわれるなど、それなりに味のある顔だが、アミューズが最初に手がけた原田真二(77年デビュー)のようなアイドル顔ではない。原田は「ザ・ベストテン」(TBS系)で黒柳徹子に「ビーバーちゃん」というあだ名をつけられ、世良公則&ツイストやCharとともにロック御三家と呼ばれた。
彼の場合、吉田拓郎のプロデュースや、松本隆の作詞、トリプルデビュー(3カ月連続のシングル発売)の衝撃といったものに加え、ルックスのよさもプラスに働いたのだ。
しかし、そんな原田はアイドル的な売られ方を嫌ってわずか半年で独立。その2週間後に所属したのがサザンだった。いわば、原田で稼いだカネと、原田が抜けたことで生まれた労力をそこに注ぎ込めたのである。

そんな幸運もあって、デビュー曲はヒットしたものの、短パンで歌うその姿は一発屋的にも映った。「ザ・ベストテン」では黒柳に「あなた方はミュージシャンなんですか」と問われ、「いいえー、ただの目立ちたがり屋の芸人でぇーす」と、答えている。

3枚目シングルの「いとしのエリー」では正統派ぶりものぞかせたが、アリスやゴダイゴ、さだまさし、松山千春、中島みゆきらに比べると、二番手グループだった。ニューミュージック系の人気のバロメーターというべきオリコンのアルバムチャートでも、初の1位を獲得するのはデビュー翌々年、3作目でのことだ。

80年には5カ月連続でシングルを出すと宣言。原田のトリプルデビューに倣ったものかもしれないが、結果的に半年で5作というかたちとなり、セールス的にも成功しなかった。このうち「恋するマンスリー・デイ」は女性の生理をレゲエに乗せて描いた実験的試み。これも全面的に受け入れられたとはいいがたい。

ただ、桑田の強みは根っこに歌謡曲があることだった。アルバム曲の「私はピアノ」が高田みづえにカバーされてヒットしたり、グループサウンズなどの懐メロ要素を盛り込んだ「チャコの海岸物語」で巻き返したりしたのも、そのおかげである。また、夏向けの曲が出身地もあいまって「湘南サウンド」として支持されたことで、リゾートソングのブームにも乗ることができた。

中略

それから10年後「TSUNAMI」が大ヒット。日本レコード大賞を受賞する。その際、彼は「ひばりさんの背中が見えてきました」と語ったという。たしかに、美空ひばりが「歌謡界の女王」なら「Jポップのカリスマ」は桑田だと感じる人は多いはずだ。また、世代交代の話でいえば、もうひとつ興味深い事実がある。

桑田がもし、90年代以降も海外進出を目指し、本物の洋楽に近づこうとしていたら、今の姿はないだろう。そこで日本人の感性に寄り添う方向を選べたことが、Jポップのカリスマになれた最大の決め手である。これからも多くの人が年末には彼の歌を聴きたくなる、そんな時代が続くのではないか。

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