思わず、耳を疑った。

 「独立リーグでも、野球を続けたいと思っているんです」

 ド、ドクリツリーグ…。

 昨年10月末のことだった。右肘痛に苦しむ斎藤が、手術を検討しているという情報をキャッチした。夜は更け、電話をためらう時間帯だったが、携帯を鳴らすと意外にも声は明るかった。落ち込む時期はとっくに過ぎているのだと感じた。じん帯が断裂している可能性があること、トミー・ジョン手術や保存療法といった様々な治療法を模索していることを明かしてくれた。

 根っからの野球小僧が、そこにいた。

 名門・早実を歴史的死闘の末、初となる夏の甲子園優勝に導いたエース。早大進学後の東京六大学における活躍もあって、冷静沈着でスマートなイメージがつきまとう。確かにそれが斎藤の一面ではあることは否定しないが、私が取材の中で接してきたこの男は、常に必死で、泥臭く食らいつき、懸命に頑張る人だった。

 その原点は本人が「修業だった」と振り返る、高校時代にある。自宅のある群馬・太田から国分寺の早実キャンパスまでは片道2時間超。当初は電車通学だった。

 「朝5時起きで7時半ぐらいに着いて。夜は午後10時ぐらいまで練習するじゃないですか。帰宅したら0時半。始発で来て、終電で帰る日もありました」

 早実の入学難易度は東京の私学でも屈指。勉学においても特別扱いは許されなかった。

 「勉強が本当に大変で。授業は同じ一般のクラスなんです。ついていけず、要領も分からない。7月のテストでは赤点ばっかり。でも年度末のテストで赤点が一定数あると、留年になる。家に帰って勉強するのは無理なので、電車の中でやらなきゃいけない。でも疲れているし…」

 チキショウ。東京のヤツらに負けてたまるか。反骨精神で逆境を乗り越え、2年からエースナンバーを背負った。

 3年夏の甲子園決勝も相手は世代最強エースの駒大苫小牧・田中将大。だからこそ燃えた。球数制限が設けられた現在において、あの夏の斎藤が投じた「948球」は今後、どんな投手も上回ることはないだろう。

 「大きなけががあったからこそ、ここで終われないと思ってやってきました。肩や肘をけがしても、まだまだ頑張れることを示したい。だからこそ僕は、野球をあきらめられないんです」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d6d76eeafb1c52ec8e57462e5d49149a318739f7