【ドラマ】NHK大河「青天を衝け」第17話「涙の帰京」視聴率は14・2% [muffin★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://hochi.news/articles/20210607-OHT1T51030.html
俳優・吉沢亮主演のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」(日曜・午後8時)第17話が6日放送され、世帯平均視聴率が14・2%だったことが7日分かった。
初回は20・0%を記録。前作「麒麟がくる」の初回19・1%を上回り、13年「八重の桜」の21・4%以来8作ぶりの20%台発進。第2話は16・9%。第3話は16・7%。第4話は15・5%。第5話は16・2%。第6話は15・5%。第7話は14・2%。第8話は15・3%。第9話は14・5%。第10話は13・9%。第11話は14・1%。第12話は13・4%。第13話は13・9%。第14話は15・5%。第15話は15・3%。第16話は14・6%と推移。今回は0・4ポイント減だった。
第17話は「篤太夫、涙の帰京」。円四郎(堤真一)の命が奪われたことを江戸で知り、衝撃を受ける篤太夫(吉沢)と成一郎(高良健吾)。その時、京では慶喜(草ナギ)が自ら指揮を執り、御所に迫る長州藩兵と戦っていた。そこに、西郷吉之助(博多華丸)が薩摩藩兵を率いて加勢する。
集めた兵を引き連れて京に向かう篤太夫たち。その道中、岡部の代官・利根(酒向芳)が現れる。さらに、水戸では、耕雲斎(津田寛治)と小四郎(藤原季節)が率いる天狗党(てんぐとう)が、慶喜を頼って京を目指していた。(数字は関東地区、ビデオリサーチ調べ) >>141
史実に沿わせるならイケメン主人公なんてやめるべきだぞ
ビジュアルで人気取りするのは平和思想とか以上に不快 >>150
この回放送時の設定が1864年で
天璋院28才
和宮18才 >>162
和宮って18だったのか
何歳で嫁に来たんだ >>158
当時の事実上の尾張藩主は徳川慶勝
斉昭の甥で水戸学の強い影響を受けている >>166
大河の悪い癖が出てきたね
幕末に半年も使ったら、後の尺がなくなってしまう >>136
もともと家臣の少ない一橋家で根回しや裏工作が出来る平岡がいなくなったのは慶喜にとっても致命的だった >>163
公武合体の為だったかな
まあ和宮は家茂が相手でラッキーだったんだよな
史実でも仲良かったの有名だし >>145
まあでも使用人が何人もいる広い家に住んでたり栄一たちも幼少時から論語とかを習ってたり代官に500両とか1000両とか渡してたし農家といっても裕福なんだろうなというのは伝わってきたな
あと栄一が出奔して京に行くときに父親が金渡してたけどあれ今の額で2000万くらい渡してたらしいね
なんか京で飲み歩いて使い果たしたことになってたけど >>153
元NHKアナの有働さんのメイクをみてもNHKのメイクさんは優秀だと思った。 >>171
>>172
16を嫁にもらったのか!!
仲が良かったのは良かったです ググって分かったんだけど
家茂って20で死んでたのか
しかも和宮と同い年ぐらいだった
ロリコンの変態親父が和宮を嫁にしたと思ってた >>167
麒麟が年越し延長されて青天を衝けは開始が遅れてるのでまだ4ヶ月だよ >>176
和宮も来る前はあんなに泣いて嫌がってたのに実際家茂に会ってみたら
誠実な優しい好青年で今は幸せそうだよね >>176
家茂は大の甘党で虫歯だらけ
当時は栄養学の知識が貧弱で脚気で死亡 慶福が家茂となって将軍に就任したときは満12歳という書き込みが
ここや実況にも沢山あったのに、役者の見てくれに騙される奴もいるんだな >>180
渋沢死んだの
満州事変の年だから
1931年面白いからいいけど 吉沢亮はメテオの頃から知ってるが何か顔面ぶくぶくになっていってないか?
実際の渋沢栄一を意識して顔丸くしてんのかね?ってくらい丸い
喜作の方が精悍で芝居も上手い 家茂は運が悪いというか、
時代に翻弄された将軍だったってイメージしかなかった
和宮の方が有名でボンクラ将軍かと思ってたけど
余りにも若すぎただけだったのか >>185
わざと太ったんじゃない?
役でも喜作のがイケメン設定だよね >>187
わざとなのかね
なんかこうやけに丸々しててまだ何でも無い無鉄砲の若人感(最近は一橋家家臣だけど)が感じにくい見た目だなぁと
実業家時代にはハマるのかもしれんが 占い
Q孝明天皇、孝明天皇はおからが好きだったというのは本当ですか
「食」「おかねばならない」→おから
Qおじいさま、孝明天皇はおからが好きだったそうです
「先祖から」→おから >>14
百姓視点というのは斬新で興味深いな
日本人の85%は元々農民みたいから親近感もわく
時代が新しいから都合の良い架空のキャラクターがほとんどいなくて史実が多いという点もリアリティーが増して面白い 「先祖から」
おからの「お」は?と思いますよね
アルファベットにしたらsenzokara→おから >>147
そんなこと言ったら戦国ものはどうする?
大河での豊臣秀吉なんて確か7年間で4回でてきた(もちろん役者は全て違う)こともあったと思う このスレの人って全レス読んでる勢い
新しい幕末物に期待 >>52
良い週末の夜だよね。
眠気に襲われる事もなく。
銀魂好き、ゲームの桃鉄やってるから、出てくる偉人と関連して子供も楽しんでる 主役の渋沢栄一のパート以外は結構面白い
渋沢栄一が出てくると途端にクッソつまらない 人物の年齢を要所要所で入れてほしいなあ
役者の年齢とかけ離れてるからツッコミ回避で入れてないんだろうけど
歴史を語る上で年齢や経年は理解する上で重要だろ 家茂はあの勝海舟も「まさに人の上に立つべき君主らしい君主」と心酔していたというし慶喜みたいに文武両道で英邁とかいう逸話は特に無いけど身近にいる人はみな魅了されてしまうような人物だったらしいね
そういや勝海舟とかまだ出てこないけどなんか自分たちが思う勝海舟と円四郎がキャラかぶってたしこのまま出ないなんてことはあるんだろうな >>199
だだの顔だけの奴かと思ってたから
意外に上手くて驚いた
声があんまり良くないのが残念な感じ >>199
確かに。
銀魂の沖田と同一人物と、あまり思えない。 孝明天皇が急死しなければどうなってたんだろうな
薩長よりも慶喜を信頼していたから、倒幕の動きに同意しなかっただろう >>198
勝海舟は「小吉の女房」の
演:稲葉友でお願いしたいところ >>203
外国嫌いは一貫してるけど他のことは移り気な人だからな
状況によって態度も変わりそう >>203
慶喜は安政5カ国条約の許可を孝明天皇に強要していた
急死してくれたおかげで孝明天皇が抵抗していた兵庫開港を明治天皇に強制ことができた 早く明治が見たい。幕末ばっかりやってたら尺がなくなってしまう 孝明天皇と徳川家茂は死のタイミングがよすぎ
暗殺説が出るのもわかる 渋沢栄一自伝
大西郷は賢愚に超越せり
隆盛公の御平常は至つて寡黙で、滅多に談話をせられることなぞの無かつた方であるが、
外間から観た所では、公が果して賢い達識の人であるか、将た鈍い愚かな人であるか一寸解らなかつたものである。
此点が西郷隆盛公の大久保卿と違つてたところで、隆盛公は他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気が付かず、
その代り他人に賞められたからとて素より嬉しいとも悦ばしいとも思はず、賞められたのにさへ気が付かずに居られるやうに見えたものである。
何れにしても頗る同情心の深い親切な御仁にあらせられて、器ならざると同時に又将に将たる君子の趣があつたものである。
大西郷は偽らぬ人
維新の頃の人々の中で、知らざるを知らずとして毫も偽り飾る所のなかつた英傑は誰であらうか、と申せば、矢張、西郷隆盛公である。
西郷公は決して偽り飾るといふ事の無い、知らざるを知らずとして通した方であるが、
その為又、思慮の到らぬ人々からは、往々誤解せられたり、真意が果して何れの辺にあるか諒解せられなかつたりしたものである。
これは一に西郷公と仰せられる方が至つて寡言のお仁で、結論ばかりを談られ、
結論に達せられるまでの思想上の径路などに就き余り多く口を開かれなかつた為であらうかとも思ふ。
まづ西郷さんの容貌から申上げると、恰幅の良い肥つた方で、平生は何処まで愛嬌があるかと思はれたほど優しい、
至つて人好きのする柔和なお顔立であつたが、一たび意を決せられた時のお顔は又、丁度それの反対で、恰も獅子の如く、
何処まで威厳があるか測り知られぬほどのものであつた。恩威並び備はるとは、西郷公の如き方を謂つたものであらうと思ふ。
不言実行の大西郷公
人間に尊むべきものは弁説で無くつて行ひである、不言実行だといふにある。
私の知つて居る維新当時の英雄のうちで、西郷隆盛さんなどは、或は「行に敏」とまで謂ひ得られぬかも知れぬが、
兎に角平素は黙々として居られながら、行ふべしと考えられた事は言はずして之を決行せられた方で、
言ふよりも行ふ方の人、即ち不言実行の人であらせられたやうに思はれる。 【幕臣になることを心底嫌がった渋沢栄一】
渋沢栄一〔明治二〇年〕
一橋公が将軍家相続といふことに決して、その事を藩中へ仰渡されたから、自分等も其事を承知したが、誠に歎息といはふか、残念といはふか、其時の心中は、今考へても実に失望の極でありました、
是も尋常人の考へから申せば、自身の仕ふる君公が将軍家相続になつたのだから、或は幕府へ召連れられて、相当な役人になれるも知れぬ、左すれば出世の道が広くなる訳だに依つて、大きに仕合せだと喜ぶ筈であるが、
独り自分等両人は、最早大事去りぬ、此の上は如何したら好からう、又元の通り浪人にならふか、イヤ待て、浪人になつても行く先きはない、去ればとて、長く斯うしても居られぬ、
既に一橋家に仕官して両三年生延びたから是から又死ぬ工風を廻らさふ、一橋公も今日将軍家を相続なさるやうでは最早望みはない、賢明なといつても、矢張り大名は大名だから仕方がない、
詰り我々の建言が十分に腹に入らぬであらふ、言が行はれぬ以上は、止むを得ぬから去るの外はないなどゝ、寄々相談して居たが、八月に至つて愈よ将軍家相続となられて、
自分等も幕府の方へめし連れられて幕臣の末班に列することになり、一橋家の重役中にても原市之進・梅沢孫太郎榎本亨蔵などは、或は御目附或は御使番と、其等級に応じて夫々の役向に転じたが、
我々は固より位地が低いから、陸軍奉行支配調役といつて、御目見以下の役向をいひ附られて 幕府へ勤仕する訳になつた、
前にも云ふ通り、大きに先望して居るから、少しも用が手に附かない、朝も早くは出勤せず、書物でも読んで、昔の英雄豪傑を友として、法螺を吹いて居るといふ風になつた、
元来幕府を討滅するといふことは、我々が其先鞭を着けやうとしたのであるが、一旦機会の齟齬してから、今日は却て幕吏の末に列して、亡国の臣となつたのは実に残懐至極ではあるが、
敢て自分の過誤失策ともいひがたひに依て、世の成行きとあきらめて、其身の不幸を慰るより外はありませなんだ 渋沢栄一 自叙伝
【慶喜公の将軍職に反対す】
困つたのは、徳川十四代の将軍家茂公が慶応二年八月二日薨去になつたので、慶喜公が一橋家より宗家に入られて、徳川十五代の将軍にならせらるゝといふ事である。之れには私は大反対であつたのである。
私は、この時とても依然徳川幕府は倒してしまはねばならぬもので又天下の大勢から察しても倒るべきものであると考へてたのであるが若し、これまで君公として仕へ奉つた慶喜公に一度将軍になられてしまひ申すと、情誼の上から私は幕府を倒す為に力を尽すわけには参らぬ事情に陥つてしまふ。
のみならず、その当時私は、幕府も早晩倒れるに相違ないが、倒れた跡が今日のやうな御親政にならうとは夢にも思はず――今になつて思ふと誠に畏れ多い次第であるが――当分のところは豪族政治のやうなものになつて、薩長とか其他の有力なる藩が寄り合つて天下の政治を行ふことになるものと信じたのである。
斯う考へて徳川一門を見渡すと、尾州公でも水戸公でも豪族政治の仲間入が出来さうな人傑では無い、たゞ一橋慶喜公だけは人傑であらせられるから、公を推し立てゝ行きさへすれば豪族政治の仲に割り込んで、我が志も行へるといふものだが、慶喜公が一旦将軍に御成りになつてしまへば、幕府が倒れた時に如何とも天下の政治に志の叙べようが無くなつてしまふ。
そこで私は飽くまで慶喜公を一橋家に引き留めて置いて、将軍職には御就かせ申すまいとしたのである。
然し、これは後年に至り御面会を致した際に始めて承つて知つた事であるが、慶喜公には此時既に大勢の赴く所を御察知あらせられ、当時私共の想ひ及ばなかつた御深慮を御持ちになり、大政を奉還して御親政の道を開きたいとの御志望から愈よ将軍職に御就きになることになつたのである。
【慶喜公恭順の態度】
徳川慶喜公が、伏見鳥羽で幕府が官軍を敵にして戦つてる最中に大阪から軍艦で江戸へ御廻りになり、上野の山内へ籠つて恭順の意を表せられたのは実に突然のことで、幕軍の者どもも、之には驚かされたのであるが、慶喜公は其際自身のとつた態度に就て、その理由をクドクドと説明せらるるやうな事をせられなかつたのである。
為に幕軍の者共は公の御意を解する事ができず、其後もいろいろと穏かならぬ挙動に出でたのであるが、あの際に慶喜公が恭順の態度を取られるに至つた事に就ての真意を、一般幕軍の者共へ御語りにならなかつたのは、当時幕軍の者共へ御真意を御話しになつても到底諒解せられず、誤解を招くばかりだと思はれたのにも因るだらうが、必ずしも中人以下には以て上を語るべからずとせられた為では無からうと思ふのである。
慶喜公は一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何んと謂はうが、他人が何と非難をしようが、そんな事には一向頓着せられなかつたものである。
之が、恭順の真意を幕軍の者共へ打ち明けて御話しにならず、突然大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せらるるに至つた所以であるだらうと思ふ。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、知る人は知つてくれるからといふ態度に出られる方であつたのである。 【維新元勲の根本精神】
維新の鴻業を大成するに与つて力のあつた元勲は、孰れもみな富を求めて立働いたのでは無い。西郷卿にしても、大久保卿にしても、木戸卿にしても、悉く国家の興隆を念として之が為に奔走せられたものだ。
ただ、初め尊王攘夷を目標として起たれたのが、時勢に鑑みて尊王開国に其目標を変改せられたのみである。
私の如き志士の末班を汚すに過ぎなかつた者ですら、国家の利益を思うて国事に奔走したものだ。
維新の鴻業が彼の如く円満に遂行せられ、当時多少の動揺が国内にあつたにしても、昨今の露西亜に見る如き惨状を呈する事も無く、日本が能く今日あるを致したのは、固より国体の良い為でもあるが、維新の事業に当つた人々に私の心無く、改革によつて一身の富貴利達を計らんとせず、一に国家の前途を思ふ念が先に立つたからである。
明治維新の先達になつた元勲に、若し一身を富まさんとする如き私心があつたならば、維新の鴻業も彼の如く容易に遂げ得られなかつたらう。 >>149
公式Twitter見るとかなりのエピソードが史実で面白いよ 幕末明治初期に目立った人は殆どが最期は殺されてる(もしくは不審な死)
目立ちつつ生き残ってる人の方がレア
幕末がどれだけ世紀末世界だったかが分かる 草なぎの慶喜も凄く良い。
唯一の不満は華丸の西郷隆盛だな。
いくらなんでも、あんなチビな西郷隆盛はダメだろw
吉本芸人を使うなら、ぐっさんとかの方が良かった。 >>182
アメリカが日本人移民を禁じたのに憤るところもやるのかねえ (´・ω・`) >>200
声わりといいと思う
滑舌がいいのかな
栄一の長台詞も聞いてて上滑りすることもないし耳障りでない 目障りなおにぎりもエクスカリバーもオリキャラもホリプロとの癒着もないが
新札関係で政府とのつながりを疑われてるから数字は伸びない 占い
Q孝明天皇、おからに何を入れて食べてましたか
「清らかな山の小川」
山の幸でしょうかね 麒麟は変な薬売りの女がつまんなかったからな・・・・
今回はずっとおもろい >>199
AWAKEって映画すごかった
努力の人でもあると思う >>121
雨夜譚(あまよがたり) 渋沢栄一自伝 をドラマは再現してる
岡部の陣屋では渋沢両人は元ト岡部領の百姓であるから差留るといふことで、其手配りをした趣であつたが、
此方は一橋の家来といふので、堂々と鎗も持たせれば、刀も佩びて居るから、若し理不尽に差留るものがあつたら、
斬払つて通行するといふ威勢だから、陣屋の前を通行の時も、陣屋の人は別に手出しもせす、
只岡部の村外れの処へ、藩士が両人来て、此の御同勢の中に、当領分の百姓があるから、何卒意見して戻して呉れ
といふことを、同行の人に頼むだ、
処が其人の答には、御頼みの趣は申伝へますが、今此処で急に渋沢両人に村方へ帰られては、一同が困ります、
到底出来得ぬ事と思ひますといつて、別れた位のことであつた、 >>240
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって >>240
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって >>240
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって >>240
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって >>248
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって >>198
政略結婚だった奥さんにも愛されてたしね。
死ぬまで大事にずっと家茂の写真持ってたそうだ。
そして和宮が死んだとき写真の家茂が消えたとかいう話が >>251
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって >>257
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって >>257
ほらみんなで言おうぜ
みんな史実だよーって うざい煽りがいる。
大河の後Twitterとかで歴史専門の先生がたくさん解説入れてくれるのも
楽しくて見てる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています