【日テレ会長】アイヌ民族への不適切表現を謝罪「二度と起きないよう」 [爆笑ゴリラ★]
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3/18(木) 16:20配信
デイリースポーツ
大久保好男氏
日本民間放送連盟(民放連)の定例会長会見が18日、都内で開かれた。日本テレビホールディングス会長も務める大久保好男民放連会長は、日本テレビの情報番組「スッキリ」12日の放送でアイヌ民族に対する不適切な表現があったことを謝罪した。
「アイヌ民族の皆さま、関係者の皆さまには心よりおわびを申し上げます。このようなことが二度と起きないよう、再発防止に努めると共にアイヌ民族の皆さまの歴史や文化、伝統を理解し、広く伝える取り組みを進めてまいります」と述べた。
12日の「スッキリ」で、お笑いタレントがネット配信ドラマなどのオススメを紹介するコーナーで、アイヌ女性のドキュメンタリー作品を紹介。その後に作品を絡めて「ここで謎かけをひとつ」としたネタを披露した。
この内容が問題となり、同局は夕方ニュースで謝罪を行い、15日の「スッキリ」の冒頭で水卜麻美アナウンサー(33)、極楽とんぼの加藤浩次(51)らが謝罪していた。
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20210318-00000114-dal-000-6-view.jpg
https://news.yahoo.co.jp/articles/a8cf775ac344d15f1a5a2a9439190f397cc824a9 森元に辞めろって大騒ぎしたんだから、せめて番組打ち切りくらいやらなきゃ 少数民族への配慮ってなんのか考えると
遠い祖先への敬意につながるんだよな
それは大事だと思う この日本では民族の名前を駄洒落にさせない権利など誰も持っていません
誰も持っていない権利を侵害することは出来ません 金田一京助(アイヌ語研究の創始者)
「地名からみると北海道と東北は連続している。東北地方もかつてはアイヌ世界の一部であったと考えてよい」
菅江真澄(江戸時代の博物学者)
「東北地方の地名はアイヌ語に由来する。東北地方から出土する土器はアイヌの作ったものである」
北大式土器の分布 (5〜7世紀 蝦夷の居住域)
https://i.imgur.com/7oRd5gi.png
東北地方の「ナイ」「ベツ」地名の分布(=アイヌ語・夷語の話者)
https://livedoor.blogimg.jp/taptior/imgs/d/1/d128dbca.jpg 裏で日テレにアイヌの採用枠を要求するのがかつてのやり口だが、今はどうかな >>96
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【ヘイポー】渡辺直美ブタ侮辱で辞意の佐々木宏(66,元電通)が謝罪文「宇宙人と人間の接点としてブタを直美さんに演じて頂こうと…」★11 [スタス★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1616135562/601-603
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豚辺直美の演出をした電通佐々木宏、「白戸家」「ジャンレノのドラえもん」「安倍マリオ等」等超面白演出を生み出した神だった [884040186]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1616159379/ アイヌは17世紀に北方から北海道に移ってきたと結論が出てる 蝦夷の民は最下層民として扱われた
>滋賀県甲賀郡信楽町の玉桂寺の阿弥陀如来立像の胎内から
>発見された文書には、「エソ三百七十人」の男女の名前が記されていた。
>東北地方の住民説、越中の住民説、近江の俘囚の子孫説が唱えられている。
>エソの人名には、「きみこ」(君子・吉弥侯=毛野氏と同祖)のように古代の東北地方に多い姓もみえるが、
>ほとんどは無姓であり、それらの名には、「いぬ」「くま」「うし」などの動物名、
>「とち」「まつ」などの植物名、「むさし」(武蔵)「たんバ」(丹波)などの国名、
>「やくし」(薬師)「くわうをん」(観音)などの仏菩薩号、「かなわう」(金王)「ふくわう」(福王)などの童子名に因むものが多い。
>これらは、非人などのような最下層民の名前の特徴と共通している。
表13 「エゾ交名」にみえる姓
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/2-h013.jpg 外ケ浜の\村――津軽の蝦夷部落
津軽海峡に面した地域には、むかし点々と\村があった。\は「狄」のつくりを犬に替えて作字したものである。
もっとも名高いのは三厩村の宇鉄である。その東どなりの今別村、石崎村、宇田などにもアイヌ系の人々が住んでいた。
西どなりには竜飛村の兵路というアイヌの漁民の集落があった。
宝暦五年(1755)の「津軽外之浜後潟組伏御改覚」では\村八カ村で二百三十四人のアイヌがいたと記されている。
\村の人たちは外向きの和人名のほかにアイヌ本来の名前ももっていた。
万五郎犬とか万五郎逢犬とか、和人名の下に「犬」もしくは「逢犬」をつけているものはアイヌ系であるという印である。
宝暦年間(1751-1764)に津軽落の政策によって和人同様の扱いを受けるようになり、
その名の下に「犬」または「逢犬」などの文字をつけて差別していた取り扱いが撤廃された。
秦憶丸の『陸奥州駅路図』に、「宇鉄村は宝暦年間まで蝦夷の容貌たり。曾長をクマタカイノ、フルクイン、
ウテレキ、セリキハ、ルウマンアイノ、ソタツイン、クマカイなど云へる名にてありしが、今は服従せり」とある。
宝暦六年(1756)津軽藩の執政の乳井貢は外ヶ浜から、小泊に越え弘前にのぼる旅行をしたが、「外ケ浜宇鉄辺に居る\共を、
みなみな人間に取り立て、髭剃、髯立てさせ、女は\髪結せ、歯染めさせ、戸数人別帳へ入れ、宗旨改め寺持たせ候云々」
(『工藤家記』『三?村史』)とあるように解放政策を実行した。
\村のアイヌが蝦夷の残裔であったか、それともいつの時代か渡ってきた北海道のアイヌであったか、たしかめるすべはない。
下北半島の佐井が斎明紀にある胆振の後裔とすれば、「津軽の蝦夷」もそのときに征服された人々の末裔かも知れない。
寛文九年(1669)に北海道でシャクシャインの乱があったときに、津軽藩からも鎮圧のため援兵が派遺された。
その軍勢に万五郎犬、万五郎逢犬、四郎三郎犬などが通辞として参加している。北海道のアイヌとはアイヌ語が通じたということである。
日本語に対してはどうであったか、「北海随筆」(元文二年、1737)という紀行文に「津軽、南部にも蝦夷あり。
言語不通といへども……此蝦夷は本邦往古よりの蝦夷とて、松前蝦夷と出会することを望まず。系図を正して其差別する事なり」とある。
すなわち、外ケ浜の\たちは、「言語不通」で日本語がよくしゃべれなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています