【テレビ】「たけしやさんまも高くなかった」、ラサール石井が明かす『ひょうきん族』のギャラ「3人で2万円強」 [muffin★]
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https://www.jprime.jp/articles/-/20096
1980年代は“楽しくなければテレビじゃない”というキャッチフレーズでフジテレビが絶好調だった。中でも『オレたちひょうきん族』(以下、ひょうきん族)は1981年にスタートした今も語り継がれる伝説のバラエティー番組。コント赤信号のメンバーとして出演していたラサール石井。
中略
ギャラがびっくりするほど安い
『ひょうきん族』に出演していたのはビートたけし、明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子といった、勢いのある若手のお笑い芸人たち。赤信号もその仲間入りをしたことになる。ただ、1つだけ大きな問題が……。
「ギャラがびっくりするほど安くて。僕らは3人で2万3000円。しかも事務所の取り分もあるから、1人分はその4分の1(笑)。だいぶたってからディレクターに言われたんです。“キミらずっとこんな安くやってたんだな、びっくりした。上げといたからね”って。期待するじゃないですか。でも確認したら4万6000円。えーっ、倍にしただけかよって(笑)。でも僕らだけじゃなく、さんまさんやたけしさんもそこまで高くなかったと聞きました」
ギャラが安い上に、拘束時間が異常に長かった。
「毎週水曜日に2つのスタジオを使って、朝8時から夜中の2時くらいまでずっと拘束されていました。撮影時間だけでも10時間くらいになったと思いますよ。それを1時間に縮めるんだから面白くないはずがないですよね。朝スタジオ入りしてヒップアップやウガンダさんと同じリハ室で出番まで待機。長くて大変だったけど、楽しい時間でした」
一流の芸人が集まっていたから、お笑いのスキルが鍛えられた。楽屋でもトークを競いあっていたという。
「さんまさんの楽屋は個室だったんですが、ひとりでいて我慢できる人じゃないですから(笑)、いつも西川のりおさんたちの楽屋に遊びに行ってたんですね。そこに僕らも入っていってトークをしまくるんです。さんまさんたちを笑わせようとして自然に話力がアップしていきました。
さんまさんに“キミ、トークうまいな”なんて言われると本当に嬉しくて。『ひょうきん族』が終わったあともさんまさんは覚えてくれていて、日テレの番組にレギュラーで呼んでもらったこともあります」
楽屋の何気ない雑談から、人気キャラクターが生まれることも。
「さんまさんの『パーデンネン』や、島崎俊郎さんの『アダモステ』などは、楽屋でなんとなく話していたところから話が膨らんで。翌週にはキャラクターとコントの台本が出来上がっているんです。スピード感のある現場でしたね」
リハーサルを重ねて本番を迎えると、今度はアドリブ合戦が始まる。
「何回もリハーサルをやっていると、スタッフが慣れて笑わなくなっていくんですね。だからリハーサルでも本番でもぜんぜん違う動きをしたり、セリフを話したりするんです。照明やセットも無視して好き放題やっちゃうのを全部撮る。それまでの撮影の常識をどんどん壊していったんですよ。スタッフが撮影中に笑ったのをそのまま放送するスタイルは『ひょうきん族』が初めてだったと思います。
番組内でディレクターさんやカメラマンさんに平気で話しかけるのも、今ではいろいろなバラエティー番組で使われていますが、当時は新しかった。どんどんタブーを打ち破っていって、それが世間にはカッコよく見られていたんです」
『ひょうきん族』の前にお笑いの絶対王者だったのが、裏番組の『8時だョ!全員集合』(TBS系)。でも、あまり見るすることはなかったという。
「意識する暇がありませんでしたね。その時間は『ひょうきん族』のオンエアを見ていました。どこがカットされたか確かめるんです。出演したコーナーがごっそりなくなっていたこともありましたから(笑)」
『全員集合』は1985年に終了。『ひょうきん族』の勢いに押される形で幕を閉じた。
「テレビの常識をみんなで壊していった番組でしたね。そういうところが知的に見えて、ユーミンやYMO、サザンオールスターズといったアーティストも出演してくれました。新しいお笑いが生まれる場所になら出たい、って思ってくれていたそうなんです」
『ひょうきん族』が最先端を走っていたあの頃。日本が輝いていた時代だった。 >>124
違うやん、その6割の中からすべての経費を出してた。その誤解は解けてるよw ひょうきんベストテンだけは今見てもおもしろい
やっぱり歌は強い
あと西川のりお、意外と普遍的 >>127
明石家さんまは他の吉本芸人(紳助、のりお、サブローシロー、おさむ、初期は出ていた巨人など)と
一緒にグロス払いでそこから吉本が分配していた
番組スタートしてからビートたけしがコントや他のコーナーで人一倍頑張ったさんまのギャラを聞いて唖然として
横澤Pに交渉して「構成作家杉本高文」名義で別ギャラを渡せるようにした >>124
当時の長者番付の上位にドリフ全員の名前あった
そこまで極端に差はなかったようなうっすらとした子供の頃の記憶 >>6
紳助たちが楽屋で金の話をばかりをしているのを見て、たけしはひょうきん族を終わらせる決意をしたんだぞ。 ひょうきん族はみんな安かったのに、なぜラサールは差がついたのかと。 ひょうきん族もドリフも今見たらつまらないよ
ドリフがおもしろい普遍的って感覚どうかしてるよ
おじいちゃんかな? >>127
追記:なぜたけしが言えたかというと横澤Pが「たけしを中心にした番組でやろう」でスタートしたから
さんまも紳助も番組人気が上がるに比例して役割ステイタスが上がっていった
紳助は漫才ブームが終わったら「司会者に転向する」人生設計をしていてここから『ザ・トップテン』『サンデープロジェクト』と
司会進行の仕事で格を上げていった 今はすっかり落ちぶれて嫌われ左翼芸人枠に
馬鹿だな いいとも一回3万円!
いや、そんなもんやで…ひがしのり ひょうきん族てバブル期真只中の土曜ゴールデンで放送されてたやろ
当時はテレビ局も番組制作にメッチャ金使っていた時代やで
なのにギャラ3万とか絶対に無いわ >>125
そいつらは秋元康お得意の副業収入がすごいこら 島田洋七は1本50万円だったから20倍1000万円の営業を優先してたって言ってたぞ 声優はどいつもこいつも貰ってるのに貰ってないフリする芸風がひどいな >>15
そうか太田プロは高かったんだ
石井光三オフィスは交渉なんかしないから
最底辺のギャラだったと >>142
知ったかゆとりマンの恥ずかしさよ・・・
ひょうきん族はバブル時代には終わってるわ ひょうきん族は後の番組よりたけしの良さが出てないからな
漫才ブームのブースト込みで人気が出た番組 >>148
バブル景気は86年末〜91年まで
ひょうきん族は89年10月までやってたから被ってるよ >>151
カトケンの反攻を受けて87年にはもう終わったと
思ってたわ たまたま赤信号のメンバーだったくせにさも昔は売れっ子みたいなこというよねw
赤信号も渡辺だけで石井とメガネなんてファン0だったんじゃね?今思い出してもいたかどうかもわからない。 >>142
制作費は制作に使っていた
芸人はノーギャラでも出たいから高額な金を与える必要なんかなかった
>>144
洋七知ってる世代が洋七のホラ話を信じるとかありえないから >>152
よくカトケンに負けた言われるけど
実際に負けたのはとんねるずのみなさんのおかげですだとおもう
(裏番組云々というより話題を全部そっちに持っていかれた) >>158
他に新しいスターが出たんで、そいつらの番組が別に
裏ではないけど、そいつらのせいで人気下がったってのは
無理あるだろう 今まででいちばん笑い転げていたバラエティは夢で逢えたらかも
今見たらつまらないのかな >>160
当時録画した奴は今見ても面白い
つべでそれ以外の回を見るとそうでもない回もあった ビートのサボタージュ常態番組
アイドルパンチ
ひょうきん族(タケちゃんマン)
オールナイトニッポン木曜日 ひょうきんはフライデー後は完全にさんまの番組になったよな >>111
最後の一文だけでお前が何も分かってないのが分かる ドリフは生だから見られないって言ってたが、ひょうきんも自分のオンエアチェックするから
見れんかったのかw ビデオが普及するまでは苦しいなw >>6
ひょうきんの最終回でちょっとだけ絡んでたけど
お互いにやりづらそうだったな >>162
オールナイトで裕也さんが激怒してスタジオで大暴れした回マジで笑ったw >>1
たけし、片岡鶴太郎、山田邦子
当時の太田プロの稼ぎ三羽烏 >>169
そうしたら5ちゃんの8割ぐらい消えちゃいそう >>168
アナウンサー絶叫でcm入って、cm明けは落ち着いてたけちゃんマンに文句言ってたな >>169
年寄り=老害と決め付ける頭の悪いおっさんこそ消えてくれ 吉田君と吉田君のお父さんの方が倍以上のギャラだよ。 フライデー事件でたけしが謹慎するまででしょ
戻って来たらさんまの番組になってたってたけしが言っていたが
さんまがメインでも内輪ネタ中心でそんなに面白くはなかった ラサール本人がひつこくこち亀の舞台化才アニメ化ドラマ化実写化持ち込んでるけど秋元先生がラサールをすごくキライで全部却下してるかも 当時、渋谷の道玄坂で観たから、ストリップ営業もしてたんだろうな。
何かラサールもみんな輝いてたな。 >>175
高田純次が病欠で代打でさんまがやったのが最初 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています