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2021/01/14(木) 15:42:56.09ID:CAP_USER9【1月14日 AFP】パラリンピックは、苦難を乗り越えて偉業を達成した選手のストーリーの宝庫だが、ジャン・バティスト・アレーズ(Jean-Baptiste Alaize、フランス)ほどのトラウマを抱えた選手はそう多くない。
陸上短距離と幅跳びを専門とするアレーズは、ネットフリックス(Netflix)のドキュメンタリー「ライジング・フェニックス(Rising Phoenix)」でも取りあげられた29歳だ。アレーズがわずか3歳で右脚を失った原因は、事故でも、病気でもなく、マチェーテ(なた)で切りつけられたことだった。
ブルンジで内戦が発生していた1994年10月、ツシ族の少年だったアレーズは、母親と共に近隣のフツ族に捕まり、母親は息子が見ている前で首を切られて殺された。アレーズ自身も背中を切り裂かれ、他にも首や右腕、右脚を切られた末に放置された。何とか一命を取りとめたが、数日後に病院のベッドで目を覚ますと、右脚の膝から下がなくなっていた。
アンティーブ(Antibes)での練習後、AFPのインタビューに応じたアレーズは、喉を指でかき切る仕草をしながら、「何年もの間、目を閉じるたびにその場面がフラッシュバックした。母が目の前で処刑されるところを見たんだ」と話した。
「母と一緒に走って、走ったが、遠くまでは走れなかった」
「僕らは家から40メートルの場所で処刑された」
それから、走ることがアレーズの人生のストーリーになった。
■「自由」をくれた陸上
その後1998年にフランスへ渡り、今の家族に引き取られたアレーズは、ドローム(Drome)の陸上クラブに入った。そして人工装具を着けて走った晩、襲撃後初めて悪夢にうなされずに済んだ。
現在、米フロリダ州のマイアミに住むアレーズは、「初めてトラックに足を踏み入れた瞬間から、できるだけ長く走らないといけない、捕まっちゃいけないという感覚があった」と話す。
「練習初日の夜のことは今でもきのうのように覚えている。驚いたよ。頭がすっきりして、自由だった。体内のエネルギーや憎しみが、全てトラックに向かっていた」
「それで、スポーツが自分にとっての治療になり得るということを悟った」
乗馬にも挑戦し、楽しみながら7段階中の6段階まで腕前を上げたが、結局やめた。本人は笑いながら「憂さを晴らすのは馬であって、僕じゃなかったからね」と話す。精神分析も徒労に終わり、「医者は僕に丸や四角を書かせた。2、3回通ってみて、別の方法にしたいと言った」そうだ。
しかし、アレーズは理解者となる体育教師と出会う。4×100メートルリレーのアンカーとして、チームを劇的な「逆転」勝利へ導いたことで、陸上を本格的に始めるよう勧められた。仲間たちは、チームのアンカーが義足だとは知らなかった。アレーズはからかわれたり、人種差別が激しくなったりするのが嫌で、足がないことを隠していた。
「僕は『バンブーラ』と呼ばれていた。汚い黒人とか、サルとかいう意味だ。つらかったよ」
それでも、ブルンジのブジュンブラで父親に見捨てられ、児童養護施設で5年を過ごした少年にとって、アレーズ一家に養子として迎え入れられ、ジャン・バティストという名前と、ずっとなかった家が手に入ったのは幸いだった。
「ここへ着いたときは、これは現実なのかと思った。その方面、つまり愛されることに慣れていなかった。僕にとっては、どうして人種差別が起こるのかいまだに理解ができない。僕の両親は白人で、僕は黒人の子どもだったが、両親は実の子どものように愛してくれた」
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