デイリー新潮2020年12月27日
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“FA史上最大の失敗”といわれるのが、2001年の川崎憲次郎だ。前年8勝10敗の川崎は、ヤクルトとの初交渉で年俸ダウンを提示されると、残留の意向を撤回、FA権を行使した。

 同年、巨人に8ゲーム差の2位に終わった中日・星野仙一監督が、通算29勝の“巨人キラー”にラブコールを送り、3年総額6億円プラス出来高を提示。当初はメジャーも視野に入れていた川崎だが、12月中旬、星野監督に電話して、「一緒に巨人を倒しましょう」と告げる。喜んだ星野監督は、自身が現役時代につけていた背番号20を与え、川崎も「名古屋全体が打倒巨人に燃えていると思うので、優勝したい」と、力強く新天地での活躍を誓った。

 だが、“Vの使者”は、3月のオープン戦で右上腕部の違和感を訴えて途中降板すると、1軍登板ゼロでシーズンを終える。チームも5位に沈み、星野監督は辞任した。故障は原因不明とされ、翌年以降も2軍暮らし。3年目の03年には、心ないファンがネット上で“川崎祭”への参加を呼びかけ、3年間1軍で1試合も投げていない川崎を、オールスターファン投票で、先発投手部門の1位に押し上げる騒動まで起きた。

 そんな川崎を、翌04年の開幕投手に抜擢して、あっと驚かせたのが、同年から指揮をとった落合博満監督だった。

「チームを生まれ変わらせるために、3年間最も苦しんだ男の背中を見せなければならないんだ」とカンフル剤の役目を託したのだ。1274日ぶりに1軍のマウンドに上がった川崎は2回に5点を失い、KOされたが、どんなに打たれても、必死に立ち向かおうとする姿に、ナインは闘志をかき立てられた。5回に追いついた中日は、7回に3点を勝ち越し、開幕白星スタート。この勢いをシーズン終盤まで持続し、5年ぶりVを達成した。

 在籍4年間で1勝も挙げられず、この年限りで引退した川崎だが、落合監督の計らいで、本来とは違った意味で“Vの使者”になれたのが、せめてもの救いだった。

 現役最終年に1軍で3試合登板した川崎に対し、前代未聞の登板ゼロで終わったのが、95年の山沖之彦である。阪急時代の87年に19勝を挙げ、オリックスでも主力投手を務めた山沖は、野田浩司、長谷川滋利らの台頭で出番が減り、94年は7勝止まり。新たな活躍の場を求めてFA宣言した。

 最初にヤクルトが名乗りを挙げ、山沖自身も入団に前向きだったが、途中参戦の阪神がヤクルト以上の年俸と複数年契約で猛アタックをかけると、「華やかな球団で一度は野球をやってみたい」と心変わり。同じ在阪球団で環境に大きな変化がないことも大きな理由となり、年俸7500万円の単年契約を交わした。

「球団に『長くやってほしい』と言われ、考えがわかったから、それで十分」という理由で複数年契約を辞退した山沖は「やるからには1年でも長く努力します。ローテーションに入って、二桁勝ちたい」と頼もしい抱負を語った。

 ところが、結果は、故障で1試合も登板できずじまいで、チームも最下位転落。2軍でも7試合、15回1/3を投げただけの0勝1敗、防御率4.60に終わり、たった1年在籍しただけで、まさかの現役引退となった。国内の球団にFA移籍した選手の中で、1軍出場ゼロで終わったのは、後にも先にも山沖一人である。

 もともと山沖は右肩に不安を抱えており、36歳という年齢からも、多くを望めなかったことを考えると、「(肩は)問題なし」と判断してゴーサインを出した阪神の調査不足が最大の原因と言わざるを得ない。皮肉にも、複数年契約を結ばなかったことだけが結果オーライとなった。

 川崎、山沖同様、移籍後、まったく活躍できなかったのが、03年の若田部健一だ。ダイエーのエースだった前年、チーム最多の10勝、防御率も自己最高の2.99の成績を残した若田部は「新人とは違って、(自分には)来年はあるけど、再来年がある身じゃないから」と、3年総額3億円プラス出来高の条件で横浜にFA移籍した。

 横浜生まれで、小学生時代は「大洋友の会」のメンバー。「残りの野球人生は、地元ファンの声援を受けてプレーしたい」という希望が叶った形だが、1年目は故障などで4試合登板の0勝2敗に終わる。2年目にリリーフで棚ぼたの1勝を挙げたものの、これが在籍3年間で唯一の白星となり、05年限りで現役を引退した。

 このほか、移籍後、2年連続開幕投手に指名されながら、3年間で8勝に終わった星野伸之(オリックス→阪神)、制球難を克服できず、1勝もできなかった仲田幸司(阪神→ロッテ)、不動のセットアッパーの期待も、3年間でわずか9ホールドと期待を裏切った森福允彦(ソフトバンク→巨人)らも失敗組の代表格だ (長文の為一部抜粋)