最も記憶に残るのが、タイガー・ジェット・シン他によるアントニオ猪木襲撃事件。
73年11月5日、東京・新宿伊勢丹百貨店前において、シンら数人が猪木に殴りかかり流血に追い込んだ。人通りの多い新宿三丁目路上、通行客の通報で警察沙汰となった。
シンは同年5月4日、川崎市体育館で観客席から乱入する形で新日本への参戦を果たした。「乱入も意に介さない無法者」という肩書きを得ていたが、新宿の件に関してはリアルな大事件へ発展した。最終的には新日本が始末書を提出、警察からの厳重注意の形で収束した。
ガチなのか、アングルなのか。50年近い時間が経った今でも真相がはっきりしない事件は、プロレス界のみでなく世間まで巻き込んだ。

シン同様、刑事事件にまで発展したのが安生洋二だ。
99年11月14日UFC−Jの東京ベイNKホール大会で前田日明を殴打、傷害罪での略式起訴で罰金刑となった。
安生と前田にはそれ以前、94年のUWFインターとリングス対抗戦交渉時から確執があった。安生が「高田延彦が出なくても200%勝てる」という、お決まりの名(迷)言を吐いたことに対し前田が激怒。「自宅を衝撃する」という趣旨の発言をしたり、パーティー会場で安生を小突いたりするなどの伏線があった末だという。

村上一成(現・和成)による橋本真也への会場入り襲撃もインパクトを残した。
00年3月11日横浜アリーナ『第2回メモリアル力道山』。会場に到着した橋本の前に現れた村上が、怒鳴りながら襲い掛かった。
ゴング前、流血姿の橋本は「小川(直也)、なぜ村上に俺を襲わせた」と絶叫。
試合後は「小川、4月7日、引退をかけてお前とやるぞ」と全国に宣言した。
この『襲撃』はその後の東京ドーム、橋本vs小川の直接対決『負けたら即引退スペシャル』へのプロローグとなった。ちなみに試合は、天龍源一郎&BBジョーンズ組vs橋本&小川組という注目カードだったが、試合自体は日の目を見なかった。

前田はリング内でも『襲撃』の主役となった。
87年11月19日、後楽園ホールでさそり固めを仕掛けていた長州力の顔面を背後から蹴った。長州は右前頭洞底骨折、全治1カ月の重傷を負い、事態を重く見た新日本は前田に無期限出場停止処分を下す。その後、団体から提示された海外遠征を拒否し新日本を解雇される。
「顔への蹴りなんてよくあるカットプレーのひとつ。肩に手をのせて『蹴りますよ』と合図をしてから蹴った。そしたら首が動いて顔面に当たったんだ。『ちゃんと合図したのに、バカだなこいつは』って思った。(怪我をしたのは)自業自得。俺のせいじゃない」(19年6月28日付Smart FLASH)
長州引退にあたり前田自身がインタビューで語ったが、事実は当事者2人しかわからない。結果的にケガを負わせてしまったが、こういう凄みが前田独自の地位を作り上げていたのは間違いない。

入場時の『襲撃』と言えば、藤原喜明『雪の札幌テロ事件』。
84年2月3日、札幌中島体育センターでの長州vs藤波辰巳(現・辰爾)戦前のこと。試合とは関係ない藤原喜明が、入場時の長州を襲い大流血に追い込んだ。後から入場する藤浪は、場内の騒ぎを知りリングへ駆けつけ一時は試合開始されたが、最後は試合不成立という裁定となった。
この事件をきっかけに藤原は『テロリスト』という称号で、マット界の中心人物の1人となった。また対戦相手の藤浪が放った「こんな会社辞めてやる」は、今なら『流行語大賞』ものの名ゼリフだ。

振り返ると『襲撃』の歴史は新日本のオハコとも言える。しかし全日本においても歴史に残るインパクトを残したものがあった。
81年12月13日、東京・蔵前での『世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦のスタン・ハンセンだ。
ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドについていたハンセン。試合終盤テリー・ファンクに対し、場外でウエスタンラリアットを見舞った。その後のハンセンは全日本のトップ外国人になったことを考えると、初登場で残した強烈な爪痕にメッセージ性を感じてしまう。

『襲撃』は対戦へ向けてのあおりや演出の場合も多い。しかしそれによって歴史に残るスター選手を生み出す場合もある。我々を興奮させ、時には怒りや憎悪の感情を抱かせる。

鍛え上げた肉体のぶつかり合い、スポーツマンシップに沿った正々堂々の戦いも良い。同時に『襲撃』など、狂気的な場面も記憶に残り続ける。プロレスの振り幅の広さを感じさせてくれる名シーンがそこにも存在する。
(長文の為一部抜粋)

AERA 2020.10.28 17:00
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