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10月7日

いま40代のお笑いタレントがトークをしていると、ときどきBOØWYが話題にのぼることがある。たとえば、バナナマンはMCを務める乃木坂46の番組で、設楽統が唐突にBOØWYの「B・BLUE」のイントロをくちずさみ始めたかと思うと、相方の日村勇紀も一緒に絶妙のタイミングで歌に入ってみせ、乃木坂のメンバーたちを驚かせていた。もちろん、お笑い以上に後進のミュージシャンにBOØWYが与えた影響は大きい。バナナマンとほぼ同年代であるGLAYのTAKUROは、14〜15歳のころ友達の家で「B・BLUE」を聴き、腰を抜かすくらい衝撃を受け、そのまますぐにレコード屋へCDを買いに行ったという。BOØWYのメンバーでも、とくにボーカルだった氷室京介はカリスマ的存在として、ソロに転身してからもずっとリスペクトを集め続けてきた。TAKUROは、氷室がBOØWY解散後初めてリリースしたソロデビューアルバム『FLOWERS for ALGERNON』(1988年)について、《人生であれほど美しいアルバムを聴いたことがない》と語っている。

中略

その氷室は、2014年にライブ活動無期限休止を宣言、翌々年の4大ドームツアーの最終地・東京ドームでの公演をもってステージから去った。このとき、《60(歳)くらいになったらアルバムでも出すか》と、今後も時間をかけてアルバムをつくっていくと宣言し、会場は拍手と歓声に包まれたという(※2)。あれから4年、氷室はきょう10月7日、ついに60歳の誕生日を迎えた。これに合わせて、今夜9時からはオンラインイベント「KYOSUKE HIMURO 60th ANNIVERSARY ONLINE HANABI LIVE “DISTANCE”」も予定されている。

群馬県高崎市出身の氷室は高校在学中、同級生の松井恒松らと「デスペナルティ」というバンドを結成し、本格的に音楽活動を始めた。当初、氷室はドラム、松井はサイドギターを担当していたが、やがて氷室がギターを持ってリードボーカルを務めるようになり、松井はベースに回った。高校卒業後、デスペナルティはアマチュアバンドのコンテストの関東甲信越大会に出場し、決勝でギタリストの布袋寅泰率いるBLUE FILMと争っている。それから2年後の1981年、氷室・松井・布袋を中心にBOØWY(レコードデビュー前の表記は「暴威」)が結成され、新宿ロフトでライブデビューする。このあとドラマーの高橋まことが加入し、翌1982年に1stアルバム『MORAL』をリリースした。

初期はライブハウスを中心に活動していたBOØWYは、1984年にはライブは酸欠状態となるのが常となり、音楽業界でも注目され始める(※3)。3rdアルバム『BOØWY』リリース直後の1985年6月には、渋谷公会堂公演を敢行。このとき彼らはまだレコードセールスでは大々的なブレイクはしておらず、渋谷公会堂でのライブはかなり思い切った勝負だった。しかし見事に成功を収め、これを機にホールでの活動に移行する。1986年の4thアルバム『JUST A HERO』は初めてチャートにランクインし(最高位5位)、同作を引っ提げての全国ツアーの最終日には、初めて日本武道館のステージに立った。いまなお伝説的に語り継がれている氷室の「ライブハウス武道館へようこそ」というMCは、このとき飛び出したものである。

しかし、BOØWYは人気絶頂にあった1987年12月、渋谷公会堂でのライブで氷室の口から解散を宣言。翌1988年4月、オープンまもない東京ドームでの2日間にわたる“LAST GIGS”をもってすべての活動にピリオドを打つ。その後、氷室はいち早くソロ活動を開始し、解散からわずか3ヵ月後にはソロデビューシングル「ANGEL」、さらに9月には前出のアルバム『FLOWERS for ALGERNON』をあいついでリリースした。

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