多くの天才が現れては消えていくのが、スポーツ界の定めである。サッカー界も例外ではない。
育成システムが確立された現在は、アカデミーから昇格してスムーズにトップチームに組み込まれるケースが増えているとはいえ、プロの壁に阻まれて消えてしまった選手も少なくない。

ひと昔前は、その傾向がさらに強かった。その背景には様々な原因が考えられるが、期待の大きさとは裏腹に、いつの間にか名前が聞こえなくなった早熟の天才たちは枚挙にいとまがない。
まず思いつくのが、森崎嘉之だろう。1994年度の全国高校選手権で、市立船橋高のエースとして活躍したストライカーである。

当時流行ったサラサラヘアをなびかせて、飄々とプレーする姿が印象的だった。両足から強烈なシュートを放ち、打点の高いヘッドも武器とした。決勝では帝京高を相手にハットトリックを達成する漫画のような活躍を見せ、
母校を初の日本一に導くとともに、大会通算8ゴールを挙げて得点王にも輝いている。
ところが、鳴り物入りで加入したジェフユナイテッド市原(現千葉)では、泣かず飛ばずに終わってしまう。在籍はわずか2年で、ナビスコカップ1試合に出場したのみ。リーグ戦の出場はなかった。

鈴木和裕や茶野隆行といった同じ市立船橋高から加入した同期が順調に成長を遂げていく一方で、森崎は試合に絡むことさえ叶わなかった。たった2年で市原を戦力外となり、当時JFLだった水戸ホーリーホックに移籍。
その後、横河電機サッカー部でプレーしたのち、1999年に現役を退いている。

と称された矢野隼人も、大きな期待を背負った超高校級のストライカーだった。
坊主頭に鋭い眉毛と、やんちゃなイメージを醸すFWは、本家さながらの得点センスと高校生離れしたフィジカルを武器にゴールを量産。1998年度の全国高校選手権では、ひとつ年下の田中達也と帝京高の攻撃を牽引し、準優勝に輝いている。

高校3年生だった1999年には強化指定選手としてヴェルディ川崎(現東京V)に加わり、Jリーグデビューも果たした。高校生がプロの舞台に立ったインパクトは強烈で、将来を期待したファンも多かった。
しかし、現実は甘くはなかった。翌年、正式にV川崎に加入したものの出場機会に恵まれず、2002年にはJ2のヴァンフォーレ甲府にレンタル移籍。その後東京Vに復帰したが、チャンスを掴むことはできず、現役を引退。
地域リーグのFC刈谷で現役復帰したのち、現在は指導者として後進の育成に励んでいる。

「小野伸二2世」と注目を集めたのは、佐野裕哉だ。ドリブル、パス、シュートと、あらゆる攻撃性能をハイレベルで備えたアタッカーは、清水商高の3つ上の先輩である天才の後継者として注目を集めた。
U−16日本代表にも選出されるなど、早くから全国にその名を轟かせていたが、成長を妨げたのはケガだった。高校卒業後に東京Vに加入するも、ケガの影響もあってほとんど出番を得られなかった。

東京Vを退団後、J2の湘南ベルマーレ、九州リーグ時代のV・ファーレン長崎でプレー。JFLに在籍したギラヴァンツ北九州では主力として活躍し、J2昇格の立役者に。SC相模原でもJ3昇格に貢献している。
現在は関西リグに所属するCento Cuore HARIMAで現役を続けている。

桐蔭学園高から横浜F・マリノスに加入した阿部祐大朗は、10年にひとりの逸材と言われた大型ストライカーだった。長身ながら足もとの技術も兼ね備え、万能型のFWとして将来を嘱望された。
世代別代表にも選出され、2000年にはAFC U-17選手権で得点王を獲得。翌年にU−17世界選手権にも出場し、高校3年時には特別指定選手として横浜FMでJリーグデビューを果たす。

しかし、正式にプロとなった2003年、厳しい現実が待っていた。岡田武史監督のもとで黄金期を迎えた横浜FMでは選手層の厚さに阻まれ、チャンスを掴むことができなかった。

9/6(日) 11:20配信 スポルティーバ
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Egg ★[] 投稿日:2020/09/06(日) 15:46:01.56
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