先月、米国で起きた白人警官による黒人男性への銃撃事件に対する抗議として、プロテニスプレーヤーの大坂なおみ選手がウエスタン・アンド・サザン・オープン(ニューヨーク)の準決勝への棄権を表明したことが波紋を呼んだが、このとき、一部の日本人から否定的な反応が相次いだことに、私は一人の日本人として大きなショックを受けた。

 もちろん、賛同するも反対するも個人の自由である。でも私が特に衝撃を受けたのは、その否定的な意見の多くが「差別への無理解」からきているという点だ。

 「自分はアスリートである前に一人の黒人女性であり、その立場からいま何より考えてもらいたい問題がある」と英語、日本語でそれぞれ思いを伝えた彼女に対して、「黒人としてそんな行動をするなんて日本人じゃない」といった目を疑うようなヘイトスピーチまであった。

 上記のような一部の日本人の反応には海外からも驚きの声が上がっており、大坂さんのツイートにはそうした海外の人たちの返信がいくつも寄せられている。私はこの問題は、「一部の無理解な人達の行動」と切り捨ててはならない、日本社会全体が向き合うべき問題だと感じている。

 大坂選手の決断に対する否定的な意見には、「支えてくれている人や敗者など関係者のことをもっと考えるべき」といった周りに迷惑をかけることを非難する声が目立つ。対して、決断を支持する人は、関係者への影響はもちろん試合に出ないという選択がアスリートにとって重い決断だという点を考慮したうえで、「そうしてまで訴えたいことがある」と解釈するのだと考えられる。

 この2者の違いは、差別問題の捉え方に依っていると私は考える。決断を批判する人にとっては、大坂選手が差別を訴えることは試合に出ないリスクに比べて考慮するに値しないものであり、決断を支持する人にとっては、彼女の訴えはリスクを取るに値する大切なことなのだろう。

 だがここで忘れてはならないのは、差別への抗議とは、人間の尊厳や対等性といった社会に前提としてあるべき部分への訴えであり、関係者のことを考えるべきといった基本的人権が担保されているうえでの問題とは本質的に異なるという点だ。

 差別が無くなっていない現実の中で、今この瞬間も世界各地で多くの人がその尊厳を守るべく闘っている。その闘う一人として大坂選手は、冒頭の声明文にあるように「自分はアスリートである前に一人の黒人女性である」と述べたのだ。

 大坂選手の生きるうえでの根幹に関わる訴えに対して、試合に出ないリスクを理由に批判するという行為は、「差別の軽視」を意味しているといっていいだろう。

 日本では人種差別以外にも、差別を軽視する発言がよく見られる。それは、「○○だってつらい」という発言に象徴される。女性差別を訴えれば「男性だってつらい」。私がSNSで吃音障害を抱えて生きるつらさを告白する際も、「誰だって何かのつらさを抱えている」と反論されることがよくある。
私はこれまでアメリカと欧州で暮らした経験があるが、吃音を告白した際、日本以外の国で“他のつらさ”によって口を塞がれた経験はない。

 もちろんこのような差別に無理解な意見はあくまで「一部のもの」である。日本から上述の大坂選手の決断を支持する声も多く寄せられていた。しかしたとえ一部であったとしても、このような意見を社会が傍観し放置してしまうと、差別に苦しむ人を孤立させるだけでなく、ヘイトスピーチなど人の尊厳を傷つける行為に対する「抑止力」を失う危険がある。

 黒人にルーツを持つ立場から人種差別撤廃を訴える大坂選手に対して、差別に無理解な批判を浴びせるだけでなく、あろうことか「日本人じゃない」という人種差別ど真ん中のヘイトスピーチをぶつけるという今回起こった事態は、日本社会からこの抑止力がなくなりつつあることを示す危険な兆候ではないだろうか。

全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab1c595345b6b493122b043aeea94d177fd3f454
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200906-00075409-gendaibiz-000-1-view.jpg

★1 2020/09/06(日) 09:43:45.67
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