0001首都圏の虎 ★
2020/09/03(木) 16:52:04.01ID:CAP_USER9なぜ「許せない」のか、は人それぞれなのだろうが、「彼女はかつて日本が徴兵制を導入する意味、可能性を論じていた。危険だ」という主張をする人が多いようである。
「軍事を論じる」=「危険人物」というレッテル貼りは日本ではお馴染みのものだ。こんな反応を示す人が一定数いることは三浦さんにも織り込み済みだっただろう。一方で、それが「解約運動」にまで発展するのは想定外だったかもしれない。
しかし、そもそも三浦さんの主張は危険なものなのか。ツイッター上での反応を見る限りは甚だ怪しい。著書を読んでというよりは、テレビでの発言(のキャプチャー画像)などに反応している人も多いようだ。
三浦さんの著書『私の考え』では、冒頭に、軍事を論じる意味を易しく述べたエッセイ「怖がっているだけではわからない」が収められている。
果たして彼女の主張は「危険」なのか。全文を引用してみよう。
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私のデビュー作は、民主国家が行う戦争の研究だった。2012年に岩波書店から『シビリアンの戦争』という本を出した。民主国家では軍が暴走した例はほとんど見つからず、むしろ政治家や市民が嫌がる軍を戦争に引きずっていく構図の方が特徴的だという内容だった。3千円以上もする本で、堅すぎてほとんど売れないかと思ったが、ありがたいことに相変わらず刷られ続けている。おそらく、その理由は「軍は暴走する」「市民は平和的だ」という通説が根強かったために、私の立論に意外性があったからではないだろうか。
戦前、東京大学は東京帝国大学だった。当時の学者の中には戦争を主導した人もいて、そうした過去への反省から、日本の学術界は平和勢力であり続けることを幾度も誓ってきた。東大では、戦後すぐ南原繁総長の時代に「軍事研究に従事しない、外国の軍隊の研究は行わない、軍の援助は受けない」という原則が表明された。
1960年頃の安保闘争の時代には、大学の評議会や総長による宣言として、軍事研究を行わないという方針が幾度か確認されている。ところがその裏で、「戦略論」「戦争論」といった用語を用いた講座が、政治学や経済学において行うことすらもできないなど、言葉狩りにも等しい状況が生まれてしまったと聞く。
平和を考える学問は、戦争の研究をしないと成り立たない。歴史学やジャーナリズムの助けを借りながら細かな史実を掘り起こして分析を加えることで、はじめて教訓を結晶化することができる。ありとあらゆる戦争は悪である、という結論から始めるのではなくて、何がどのように悪であったのか、どうしてそこに陥ったのかをつぶさに分析することが、平和への道だと思っている。
もちろん、そうした認識は安保闘争が収まるとともにだんだんと広がり、東大でも「戦略論」や「戦争論」が開講できるようになったのだが、やはり一部には軍事研究をやるなんて、と斜めに見るような雰囲気は残っていた。引退した元官僚が教えに来る講座はあっても、退役軍人にあたる元自衛官が講演をすることはなかった。
それは、日本だけの問題ではないのかもしれない。軍人が尊敬を集めるとされるアメリカでも、昔から軍に対する反感、あるいは差別感情というものが存在する。
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/db05334336f422d06923764bbbe618fc79e10abe
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200903-00656760-shincho-000-2-view.jpg