【野球】ブライアントが日本で成功した秘訣。それは“シンボウ”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1988〜89年】 [砂漠のマスカレード★]
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歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
中西コーチとの邂逅
1988年のパ・リーグ最終戦ダブルヘッダー、いわゆる“10.19”で近鉄が惜しくも優勝を逃したことは紹介した。翌89年、雪辱を期す近鉄だったが、独走の快進撃とはならず。パ・リーグは混戦となり、西武、オリックス、そして近鉄による三つ巴に。このときは130試合制だったが、その129試合目で優勝を決めたのは近鉄だった。前年と同様、終盤のダブルヘッダーが、その象徴だ。近鉄はリーグ5連覇を目指す西武と10月12日に敵地の西武球場で激突。その第1試合と第2試合にまたがって、敬遠を挟む4打数連続本塁打を放ったのがブライアントだった。
88年に近鉄が優勝に迫ったのも、このブライアントの存在が大きい。84年シーズン途中に入団したデービスが6月に入って大麻不法所持で逮捕、解雇されたため、その穴を埋めるべく、近鉄が27日に中日から金銭トレードで獲得したのがブライアント。閉幕まで74試合の出場ながら、34本塁打を放って猛追の原動力となったのだ。そんな強打の助っ人ながら、中日での一軍出場はなし。当時を知る読者には釈迦に説法かもしれないが、外国人選手の一軍登録は2人までで、ブライアントは二軍でくすぶり続けていた。
若い読者には、この文脈だと、まるで中日の首脳陣たちに見る目がなかったかのようにも思えるかもしれない。ブライアントの一軍出場を阻んでいた2人は投手の郭源治と強打者のゲーリーで、郭は88年のMVP。ゲーリーも87年に移籍してきていた落合博満の“神主打法”を採り入れて好調を維持していた。結果的には近鉄へ移籍したブライアントのほうがゲーリーを上回るインパクトを残したが、これは結果論。中日でのブライアントは、まだまだ粗削りで、二軍に置いておくという判断は、あながち間違っていたとは言い切れない。近鉄にとってブライアントが快進撃の使者なら、ブライアントにとっても近鉄は運命を好転させた分岐点だった。
ウエスタンの試合でブライアントを見ていたのが近鉄の中西太コーチだった。自身も現役時代は西鉄(現在の西武)の主砲として黄金時代の立役者となった強打者。中西コーチは移籍してきたブライアントを徹底的に指導する。もともとパワーとポテンシャルは抜群。選手の持ち味を引き出し、多くの好打者を育てた中西コーチの手腕が如何なく発揮された。
「日本で成功しなきゃというハングリーさがあった」
中西コーチは「右肩が開かないようにすることと、アッパースイングになり過ぎないようにすることだけを言った。あとは何も言わん」と振り返っているが、「練習はようやったよ。トスバッティングやね。長いときは40分くらい。(ブライアントには)日本で成功しなきゃというハングリーさがあった」とも。これで体重移動のコツをつかんだブライアントは、荒々しさを残しながらも、新天地で打ちまくることになった。
89年は187三振でプロ野球記録を更新した一方、49本塁打で本塁打王、MVPにも輝いている。以降、5度の“三振王”も、本塁打王も通算3度。設計者が「当たらない」と断言していた東京ドームのセンター後方、高さ44.5メートルのスピーカーにぶち当てる初の“認定本塁打”を決めるなど、2004年に歴史の幕を下ろした近鉄だけでなく、プロ野球の歴史に強烈なインパクトを残す助っ人に成長していった。
のちに日本での成功の秘訣を問われたブライアントは、日本語で「シンボウ」と答えている。シンボウ、つまり辛抱のことだ。これは中西コーチの口癖「辛抱じゃ」を覚えたもの。これは想像になるが、その意味を知ったとき、ブライアントは中日でくすぶっていた自身と重ね合わせ、そんな自分が報われたような気がしたのではないか。そして、さらなる辛抱で自らを奮い立たせたことで、眠っていた才能を開花させたのだろう。
いま、多くの人が「辛抱」の日々にあることだろう。感染症の出口は見えてきても、経済的には苦境が深まる気配も漂う。辛抱し続けるのもしんどいし、未来も楽観できないが、それでも「辛抱」を心の奥底に置いておけば、ブライアントほどの成功はなくとも、大きく道を踏み外すことは回避できそうな気がする。
5/16(土) 11:05 Yahoo!ニュース 76
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200516-00000005-baseballo-base 88年のダブルヘッダー2試合目でも同点ソロを打っている
インコースどん詰まりでも川崎球場のフェンスをなんとか越えた 無職芝刈りのアルバイトに落ちても手を差し伸べないNPBは滅びろよ 西武とのダブルヘッダーは凄かったな
ほとんど神懸かり ワシは対戦した事があるのだが、どこに投げても打たれる気がした。
仕方なく真ん中高めへストレートを投げ込んだ。 >>10
でもゲーリーもいい選手だったからなぁ・・・ やっぱり近鉄特急に乗せられて名古屋から難波まで片道切符で旅したのかな 東京ドームの天井スピーカーに打球当てただけで稼ぐ外国人 >>23
なんだかんだブライアントが唯一な訳で
名シーンだよな 一か八かみたいな撃ち方だが、今それが増えてるのは皮肉w ウエスタンで中日と対戦していたから良かったな
首都圏のチームだったらそのままフェードアウトされていた 間違えた
中日ではなく近鉄と対戦に訂正させてくれw ブライアントが4月に近鉄にやってきたら、門田の二冠やMVPは危なかった。 マイナーリーグの落ちこぼれでもNPBに来れば4番の大打者になれるもんな
ブライアントと言いバース、カブレラ、ローズ、バレンティン
カブレラやローズも日本野球特有の陰湿さが無ければ王のシーズンホームラン記録抜いてた >>32
阪神>メジャー>その他
ハンシンのファンは世界一ヤデー! ブライアントの活躍は中西太のコーチングあってだからね
中西は本人も言うように監督には向いていなかったが
打撃コーチとしては最高
黄金期西武を打ち負かしたのって仰木中西コンビ+ブライアントの時だけなんだよね
1985年はまだ清原もいなかったし >>23
「ミヤシタサーン、アイシテル」のネタで、定期的に小銭稼ぎに日本に来るクロマティよりマシ >>2
初球から思いっきりフルスイングしてたもんなw
潔く清々しい野球だった そもそも野球には世界的なスター選手が存在しないから、こういうスレも盛り上がらないな >>10
中日にいたら中西コーチとの出会いもなく、ブレイクしないまま帰国していた バットってあんな簡単に太ももでへし折れるもんなんだなと
真似して怪我した思い出w 今現役の良い打撃コーチや成績の良いのはたいてい中西コーチ系統でしょ
凄い人だなぁ ナベQさんが「俺はブライアントに満塁ホームラン打たれた時だって泣かなかった」て若い選手に言ってたな まぁでもあの時代のプロ野球で元メジャーリーガーが訳の分からん日本人の指導をよく受けたもんだなと >>2
本当にそうだったら8年間で311四球も選べると思うか? youtubeで、ブライアントの動画たくさんあるから見ると
ストラークゾーン付近にボールが来ればとりあえず全部手を出す
辛抱という言葉からかけ離れた打者って気づくよ 1989 近鉄
1大石(二)
2新井(中)
3ブライアント(指)
4リベラ(一)
5淡口(左)
6鈴木(右)
7金村(三)
8山下(捕)
9真喜志(遊)
投 阿波野 小野和 山崎慎 高柳 加藤哲 村田辰 佐々木修 佐藤秀 吉井 >>48
二番の新井がブライアントとは対称的なとにかく塁に出る打者なのもよかった
5番か6番にいた鈴木も渋くて良い打者なのよ ブライアントの打球を取り損ねたのか見えなかったのかファーストの選手にあたって悶絶してるシーンが印象的だった
物凄い打球の速度なんだろうな >>17
ダルビッシュの言葉を歪曲して何年もネチネチ
言ってるヤツってゆとり世代なんだろうな 三振後のバットへし折るシーンが見たいけどYouTubeに全く上がってないね
特大ホームランも打つからこそこの三振も際立ってた >>26
そう
この時角盈男が日ハムに移籍してたことが世間に
認知された ブライアントもかっこよかったけど対照的な新井もいい味出してたなあ デービスが大麻で捕まったからだろ、それがなきゃ中日の二軍で燻って
すぐ帰国してた 中西コーチって左バッター育てるの上手いよね
阪神の掛布、ヤクルトの若松、近鉄のブライアント
右バッターで育った人っていたっけ? 子供の頃どうしてブライアンじゃないの、最後の「ト」はいらないでしょってちょっと引っかかったな
今は違和感ないけど 4打席連続はリアルタイムで見てたけど何故かタマがバットに当たって行くような感じに見えた 当時の中日ファンからすれば近鉄に持ってかれた印象が強い。スカウトしたのは中日だからな。金銭トレードなら10億ぐらいの価値はあったわ。 天王山の西部戦ダブルヘッダーでの4打席連続ホームラは、あのときだけたまたま奇跡が起きたんじゃなくて伏線があるんだよね
ブライアントはそれまでもシーズン中に3打席連続ホームランを何度も打ってた
しかしその代わりに三振もメチャクチャ多かった
極端に波のあるバッターで、その波の頂点があのダブルヘッダーにピタッと合った
打たれたブライアントキラーの渡辺が「嘘だろ」という表情でマウンドにしゃがみ込むシーンはまるで漫画の一場面のようだった カンセコの双子の弟は近鉄の2軍で我慢できず途中帰国した >>2
読後グッときたのにお前の書き込みで台無しじゃボケ >>65
中日ファンの悪いところは得した事よりいつまでも過去の損失を嘆くもったいない精神 中西は打者としても偉大。
過去7人しかいない主要タイトル通算10冠のひとり。
中西以外のメンバーは
王、野村、落合、長嶋、川上、イチロー 当時のパはエース級は真っ向からストレート勝負が多かったからね。
いい時代だしパの野球に合ってた。 未だに臨時打撃コーチとかいって教えてたりするからな中西さん
分かりやすさがいいのか、弟子、もう孫弟子みたいな存在おるやろし オープン戦で水戸に来た時
駅前のゲーセンで雷電やってた。
俺と友達しか気づいてなくて握手して貰ったのはいい思い出。 >>1
砂漠のマスカレードは、まじめなネット工作員
この書き込みをしてる私の住所氏名を調べて
言い逃れができる巧妙な手口で脅しています
興味のある方はモ娘(鳩)はげみんと出入り禁止のスレへ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/zurui/1582888619/ 1988年の西武VS近鉄と、
1989年の西武VS近鉄VSオリックスのデッドヒートは本当に凄まじかった >>83
日ハム、南海(ダイエー?)、ロッテはどんな感じだったん?
ブッチギリの最下位とかあったんかな? 四連発の時はカメラワークも絶妙
満塁の時は歓喜して飛び出す中西太を映し
三発目の時は唖然とした顔の渡辺
渡辺本人もあれが一番忘れられぬ一発だったそうだ ブライアントの頃は、試合数の多いMLBでもシーズン200三振なんていなかった。
今でこそマネーボールだのフライボール革命だので三振は許されるようになったが、
当時のMLBでも三振かHRかなんて打者は許容できず、
スタメンから外されるからフルシーズン出場すること自体無理だった。
その頃のシーズン最多三振記録はボビー・ボンズの189とか。
中西さんがコーチしても毎年のように190とか200とか三振するブライアントを
三振してもええから一発打って来いと
使い続けた仰木監督と中西コーチの感性がすごい。 ブライアントと秋山は大型扇風機って感じで見てて面白かった ブライアントのホームランって
一番ピッチャーの精神崩壊させると思うわ。 ブライアントとローズってすれ違いなのか
一緒にスタメン打ってるの見てみたかったな 89年はダブルヘッダーの4発で西武に引導渡したんだよな
【第1試合】
0−5の劣勢から
46号反撃ソロ→1−5
47号同点満弾→5−5
48号決勝ソロ→6−5
【第2試合】
0−0第1打席は敬遠
2−2の同点から
49号決勝ソロ→3−2
48号の決勝ソロはブライアントに滅法強かったナベQから打った
ライトのどこまで行ったか分からんぐらい飛んでいき
ナベQマウンド上でガックリ
88年の「10・19」といい巨大帝国西武に立ち向かう近鉄野球は面白かった
あくまで結果論だが
89年も西武が優勝していたら
リーグV10になっていたかも知れない
85西武
86西武
87西武
88西武
89近鉄
90西武
91西武
92西武
93西武
94西武 ナベQから打ったのはバックスクリーン左側じゃね?
打った瞬間、ブライアントが両手挙げてHR確信してたの覚えてるわ フジテレビのプロ野球ニュースの評論家が中日でくすぶってるブライアントを絶賛してたから
その時から大注目だったよ
おかげで背番号49だったのもハッキリ覚えてる ブライアント、デストラーデあたりは全身がバネみたいだった >>38
落ちる球はアッパーでもいける。低い球全般いける。
というか当時は落ちる球、結構投げてたよ。
芯を外す動くボールみたいなのは少なかったけど。 隙のない森監督の西武を理不尽な火力で粉砕するさまは痛快だった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています