東京六大学リーグをはじめ、春・夏の甲子園、都市対抗、さらには国際大会でも審判を務めた小山克仁さん。電話取材を通して、豊富な経験を振り返ってもらうとともに、若い世代に伝えたいことを語ってもらった。

法政大で8シーズン中4度の優勝
「新型コロナウィルスの影響を受けているこの状況下だからこそ、できることはある。野球とは何か?スポーツとは何か?その本質をじっくり考えてほしいと思います」。こう話す小山にはたどり着いた答えがある。野球、スポーツの「本質」に最初に触れたのは、野球部に所属していた法政大学時代だ。

在学時、チームは強かった。8シーズン中、秋春連覇を含む4度のリーグ優勝を経験し、他の4季も2位が3回で3位が1回。江川卓(元巨人)を擁して4連覇を遂げた1970年代に続き、この80年代前半も突出していた。同期には小早川毅彦(元広島)や、現法政大助監督の銚子利夫(元大洋)らが、1学年上には西田真二(元広島)や木戸克彦(元阪神)らがいた。

小山も甲子園で連覇の実績がある(1960年夏〜61年春)法政二高で1年秋からレギュラーを張った実力派。だが、在学4年間で実に17人がプロに進んだ「名門」の選手層は厚く、3年時よりチームを支える裏方に。当時の鴨田勝雄監督から指導者の道をすすめられ、学生コーチになった。

常勝軍団に求められていたのは「品性」
圧倒的な力を誇っていた時代だったが、決して勝利至上主義ではなかったという。選手に求められていたのは「品性」で、「オープン戦で相手校にヤジを飛ばした先輩がこっぴどく怒られてました」。「相手がいるから試合ができる。ならばその相手をリスペクトしなければならない」と。

「スポーツは運動プラス、ルールにのっとって楽しく自発的にする遊び。これをおろそかにすると、楽しむことができないし、何かあったら人のせいにしてしまうんです。相手がいるから自分も成長できる。それを学ぶのが学生スポーツだと、私は法政大で教えられました」

また、エリート軍団ではあったが、当時から日の当たらない選手を尊重する文化が根付いていた。小山が3年春(82年)に全勝優勝を果たした時の報告会。挨拶に立った主将の木戸は、集まった大勢の学生を前にこうスピーチした。

「僕らが全勝優勝できたのはステージに上がっているメンバーだけでなく、ベンチに入っていない選手がいるからこそ。だから、授業などで彼らを見かけたら『おめでとう』の一言を言ってほしい」

いくら好素材が集まってもそれだけでは勝てないし、いいチームにはなれない。小山はそのことも法政大で学んだ。

東京六大学の審判になったのが転機に
卒業後、小山は指導者の道には進まず、市役所に勤めた。休日に神奈川県のアマチュア野球の審判をするようになったのは24歳の時。職場の先輩から「君の若さで始めれば、甲子園でジャッジをするのも夢じゃない」と誘われたのがきっかけだった。「甲子園」。地方大会で敗れた元高校球児にとって、これ以上魅力的な言葉はなかった。

野球の、スポーツの「本質」に触れる“第2幕”が始まった。

転機は審判を始めた4年後に訪れる。法政大野球部OB会から頼まれ、東京六大学野球連盟の審判員になった。これを境に小山の審判としての活動は一変する。東京六大学リーグで経験を重ねたことで、甲子園や都市対抗といった大きな舞台に派遣されるようになったのだ。
「雲の上の存在だった、東京六大学の審判の先輩方から様々なアドバイスをいただけたのは大きかったですね。それと、リーグ戦の試合を通じて成長できたかと。東京六大学は常にたくさんの観客の視線にさらされながらジャッジをするので……1試合で都道府県大会での100試合に相当するくらいの審判経験ができたと思います」